月〜金曜日 18時54分〜19時00分


歴史街道メインルート 京都 

 歴史街道メインルートシリーズ第6週は、平安時代の王朝文化が華開いた京都を訪ね、奥深い歴史と文化にふれてみた。


 
龍安寺  放送 5月13日(月)
 金閣寺から仁和寺までを「きぬかけの路」と呼び、その路のほぼ中央に龍安寺(りょうあんじ)がある。見る人を哲学的な瞑想の世界へいざなうと言われる方丈前の枯山水の石庭は世界の人たちに知られている。
 三方を築地塀に囲まれた東西約30m、南北10m余りの長方形の庭に白砂を敷き、15個の石が東から西へ7・5・3と配され、白砂に筋目で波紋が描かれている。境内の樹木を借景にし、石庭には草木は一本もない。「庭」はもともと儀式を行う清浄な場所で、砂を敷くだけで一木一草を植えることも許されなかった。これを引き継いだのがこの石庭と言える。15個の石は目の高さでどこから見ても微妙に重なり合い、どうしても14個しか見えずこれを「虎の子渡し」とも言う。虎が子供を連れて川を渡る時、必ずその子を隠すことから隠れた石を虎の子に見立ててこう呼んだ。
 この石庭は禅の悟りを表現したもので、無限の教えを語りかけており、庭を見た人たちがそれぞれに何かを感じ取ることを期待している。

方丈と石庭

(写真は 方丈と石庭)

「吾唯足知」のつくばい

 方丈の北東にある銭形の手水鉢の蹲踞(つくばい)は、中央の口の形と合わせて「吾唯足知(われだだたるをしる)」と読み、禅の格言を謎解きに図案化したもので、水戸黄門でおなじみの徳川光圀が寄進してと言われている。この庭の蹲踞は複製品で本物は非公開の茶室「蔵六庵」に保存されている。
 龍安寺は宝徳2年(1450)室町幕府の管領・細川勝元が、徳大寺家の別荘を譲り受け創建した。応仁の乱で焼失、長享2年(1488)勝元の子・政元が再興して以来、細川家の菩提寺として寺運も隆盛した。現在の諸堂宇は寛政9年(1797)の火災で焼失後に再建されたもので、方丈は慶長11年(1606)に建築された塔頭・西源院の方丈を移築した。大規模な禅宗寺院の方丈の典型として貴重な建物である。
 有名な石庭の陰に隠れて見落としがちだが、境内の庭園も名園で、園内には龍安寺十勝と呼ばれる景勝がある。山門を入るとすぐ目に入る鏡容池もそのひとつで、この池は徳大寺家の別荘当時のままの姿を残している。

(写真は 「吾唯足知」のつくばい)


 
都の滋味  放送 5月14日(火)
 京料理に欠かせない食材が生麩(なまふ)と湯葉(ゆば)である。この生麩と湯葉を300年間作り続けている老舗が、五條大橋東詰めにある「半兵衛麩」。江戸時代中期、赤穂浪士が討ち入りした元禄年間(1688〜1704)創業のこの老舗は、表の格子がきれいな町家の店構えにその歴史が刻み込まれている。
 半兵衛麩では麩と湯葉の製造販売だけでなく、店内の奥におしゃれなサロン風の茶房があり、ここで生麩と湯葉づくしの「むし養い料理」が、予約しておけば楽しめる。京ならではの料理の味と共にそのヘルシーさが女性の人気を集めている。

半兵衛麸

(写真は 半兵衛麸)

むし食い料理

 麩は小麦粉から取り出したグルテンを主材料とする食品で、生麩と焼麩に大別できる。
半兵衛麩は生麩が有名で、あわ麩、ごま麩、よもぎ麩、彩り鮮やかなもみじ麩などがある。
秀逸の一品は手まり麩。手まりに糸を巻くように生麩を糸のように伸ばしながら巻く作業は、ベテランの職人にしかできない技。これは食材と言うより芸術品に近いもので、食べてしまうのが惜しいほどである。甘党向けの麩まんじゅうもあり生麩製品のバラエティさに驚かされる。
 麩は室町時代に中国へ渡ったいた修行僧によって日本へ伝えられた。殺生が禁じられていた僧侶ちの生活では、麩と湯葉は貴重な蛋白源だった。寺院の多い京都では精進料理に麩や湯葉が使われ、京都ならではの食品として成長した。半兵衛麩の手まり麩は受注生産のため一般には販売していないが、少し簡単にした手まり麩をインターネットを通じてオンライン販売している。

(写真は むし食い料理)


 
北野天満宮  放送 5月15日(水)
 学問の神様として知られる菅原道真を祭っている北野天満宮は全国の天神さんの総本社。道真は神童といわれた平安時代前期の公卿、文人。宇多、醍醐天皇に重用され、44歳で右大臣に昇進した。この切れ者の道真の権力拡大を藤原一族が恐れた。道真は昌泰4年(901)藤原時平らの讒言(ざんげん)によって九州・太宰府に左遷され、2年後、失意のうちに59歳で太宰府で没した。
 道真死後、藤原時平が39歳の若さで死亡したほか、朝廷の要人が死亡したり清涼殿への落雷、飢饉や疫病のまん延などさまざまな異変が起こった。これを道真の怨霊のたたりと都の人たちは恐れた。道真没後44年の天暦元年(947)に北野の地に道真の霊を祭ったのが北野天満宮の始まりとされている。

露店市「天神さん」

(写真は 露店市「天神さん」)

菅原道真(北野天神縁起絵巻)

 北野天満宮は受験シーズンには合格を祈願する参拝者、早春には梅の名所としてにぎわう。道真は誕生日と命日が共に25日で、この日は「天神さん」と呼ばれ、露店が店を並べる露店市としてにぎわう。陶器から家具や日用品、おもちゃ、わた菓子、たこ焼きなどのたべものなどの露店が所狭しと店を出す。京の街では東寺の「弘法さん」の市と合わせて昔から庶民に親しまれてきた露店市である。志賀直哉も小説「暗夜行路」の中で大正時代初めの北野天満宮の縁日と露店市のにぎわいを描いている。
 北野天満宮の現在の社殿は、慶長12年(1607)豊臣秀頼が造営したもので、本殿をはじめ拝殿など8棟が国宝に指定されている。道真の生涯と死後のさまざまなたたりや北野天満宮に祭られるまでを描いた国宝の「北野天神縁起絵巻」は、毎月25日の縁日に宝物館で公開される。

(写真は 菅原道真(北野天神縁起絵巻))


 
心づくしの宿  放送 5月16日(木)
 京都市のほぼ中心、車の往来の激しい御池通から麩家町通をほんの少し南に下ると、純日本建築の旅館「柊家(ひいらぎや)」の静かな佇まいがある。ここは創業が江戸時代末の文久元年(1861)と言い、京の一流旅館の中でも屈指の老舗。
 京の老舗旅館となるとどうも気楽にくつろげないような気がする。だが柊家は違う。打ち水がされた石畳の玄関を入ると「来者如帰(らいしゃにょき)」の額の文字が目に飛び込んでくる。この四文字が柊家の接客の基本精神で「自分の家に帰ってきたようにおくつろぎください」との気持ちで客をもてなす。柊家を定宿としていた川端康成は、部屋係の女性の気遣い、室内の雰囲気や調度品、清潔な槙(まき)のゆぶねなどすべてが気に入っていたようで、この旅館に入ると「ホッ」として落ち着くと書き残してる。

柊家

(写真は 柊家)

川端康成の直筆原稿

 屋号にもなっている柊の葉の模様があちこちで目につく。夜具やゆかた、湯のみ、飯茶わん、くず入れなどにあるが、それが意外に目障りにならない。泊まり客はこの柊の模様を目にすると安心感がわくと言うから不思議だ。
 食事にも老舗の伝統が息づいている。地のものを中心にした季節感あふれる懐石料理は、京都ならではの味付けとあいまって好評だ。また、この料理をテーブルに並べる部屋係の女性の食器の扱いにも気が配られていると言う人もいる。
 伝統におごらず、「来者如帰」の精神に徹している旅館主、従業員、料理人らの心づくしがすべての面に表れている。これが京都の街の風情とマッチして、宿泊客に大きな満足感を与え、国内はもとより、外国の人たちにも愛されてきたのだろう。

(写真は 川端康成の直筆原稿)


 
祗王寺  放送 5月17日(金)
 奥嵯峨の小倉山の山麓の竹林に見え隠れするように建っている祗王寺は、平家物語に登場する白拍子の姉妹、祗王、祗女ゆかりの寺。この季節、庭一面を緑一色にしている苔がみずみずしい。
 祗王は平清盛の寵愛を受けていたが、その前に唄の上手な白拍子、仏御前が現われ、清盛の心は仏御前に移ってしまった。世の無情を知らされた祗王は、妹の祗女と母の3人で往生院に入って尼になり仏門に入った。この時、祗王21歳、祗女19歳、母・刀自45歳だった。その後、世の無常を感じた17歳の仏御前も頭を丸めて祗王の庵を訪ねて尼となった。こうして女4人は朝夕、仏前に香華をたむけ、念仏三昧の日々を送った。

紙王寺

(写真は 紙王寺)

祗王尊尼

 現在の祗王寺は昔の往生院の跡にある。往生院は法然上人の弟子が開いた寺と伝えられているが、いつの間にか荒廃し、その後、尼寺となり祗王寺と呼ばれていた。
 明治時代初めに廃寺となり、木像や墓は大覚寺によって保管されていたが、祗王寺再建の話を聞いた元京都府知事・北垣国道氏が、明治28年(1895)別荘1棟を寄贈し、これが祗王寺の建物となった。仏間には本尊・大日如来像と祗王、祗女、刀自、仏御前と平清盛の木像が安置されている。境内には女性4人が合葬されたと伝えられる墓の宝篋印塔(ほうきょういんとう)、清盛塚と呼ばれる五輪塔が立っており、春には苔むす庭の祗王桜が美しい花をつける。

(写真は 祗王尊尼)


◇あ    し◇
龍安寺京福電鉄北野線竜安寺道下車徒歩10分。 
京都市バス龍安寺前下車。
半兵衛麩京阪電鉄五条駅下車。 
京都市バス京阪五条下車。
北野天満宮京都市バス北野天満宮前下車。 
柊家地下鉄烏丸線、東西線烏丸御池駅下車徒歩10分。 
京阪電鉄三条駅、阪急電鉄河原町駅下車徒歩10分。
京都市バス河原町三条下車徒歩5分。
祗王寺JR山陰線嵯峨駅下車徒歩20分。 
京都市バス嵯峨釈迦堂前下車徒歩15分。
◇問い合わせ先◇
龍安寺075−463−2216 
半兵衛麩075−525−0008 
北野天満宮075−461−0005 
柊家075−221−1136 
祗王寺075−861−3574 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会