月〜金曜日 18時54分〜19時00分


和歌山市 

 和歌山市は紀ノ川流域に縄文時代から人びとが住み、古代には国府がおかれた。羽柴秀吉が和歌山に城を築き、その後、徳川御三家・紀州徳川家の城下町として発展した。今週は紀州徳川家の居城・和歌山城を中心にその周辺の名勝を訪ねた。


 
和歌山城  放送 5月19日(月)
 和歌山市の中心、標高48.9mの虎伏山(とらふせやま)にそびえる和歌山城は、徳川御三家のひとつ紀州徳川家の居城として知られているが、初めてここに城を築いたのは豊臣秀吉である。天正13年(1585)紀州を平定した秀吉は、藤堂高虎らに命じて築いた城を異父弟の羽柴秀長に与えた。秀長は大和郡山城を居城としていたため、重臣の桑山重晴を城代とした。
 関ヶ原の戦いで東軍が勝利し、軍功のあった浅野幸長が和歌山城主となった。内堀、石垣などの増築や修築を行い、商工業者を集めて城下町を整備した。元和5年(1619)徳川家康の第10子・頼宣が55万5千石領して入城し、紀州藩の藩祖となった。

和歌山城

(写真は 和歌山城)

切込はぎ

 頼宣はただちに城の増改築に着手し、まず天守閣をはじめ城郭部分の大拡張を行った。大手門も城の東南にあった岡口門(国・重文)から東北の一の橋の門に変更したり、南の丸に高石垣を築いたほか城下町の区域も広げた。こうした大規模な城の増築工事が幕府からにらまれ謀反の嫌疑をかけられたが、家老・安藤帯刀の懸命の弁明で事無きを得た。頼宣は元和5年(1619)から寛文7年(1667)まで48年間の藩主時代に、紀州藩政の基礎を確立した。
 和歌山城は豊臣、浅野、徳川それぞれが築城、城の増改築を進めたため、石垣の積み方も切り石積み、野面積みなど、それぞれ築城の時代によって異なっており、その石垣が城の歴史を物語っている。

(写真は 切込はぎ)

 頼宣が築いた天守閣は弘化3年(1846)落雷で焼失した。当時、幕府は天守閣の再建は認めていなかったが、徳川御三家の家格から特別に許され、嘉永3年(1850)に再建された。明治維新の廃城で和歌山城の天守閣も取り壊される運命にあったが、地元有力者の要望で残った。しかし、第2次世界大戦の戦災で焼失、昭和33年(1958)、現在の鉄筋コンクリート造りの天守閣が再建された。和歌山城周辺は和歌山公園として市民に開放され、県立博物館、県立近代美術館などがある。
 天守閣の1、2階は郷土資料館、物産展示場となっており、紀州徳川家ゆかりの武具、絵画、古文書類が展示されている。天守閣3階からは和歌山市の市街地が一望でき、紀淡海峡に浮かぶ友ケ島から淡路島、北東には高野山、金剛山、葛城山の山々も望める。

野面積み

(写真は 野面積み)


 
紅葉渓庭園  放送 5月20日(火)
 和歌山城天守閣の北西にある紅葉渓(もみじだに)庭園は、徳川頼宣が和歌山城へ入城した際に築いたと言われる名庭園で、秋の紅葉が見事で多くの行楽客が訪れその眺めを楽しむ。
 ひなびた茅ぶきの門をくぐると静かな空間が広がるこの庭園は、国の名勝に指定されている。浅野幸長が築いた内堀の一部と虎伏山(とらふせやま)の地形を巧みに利用して、豊かな緑の中に三つの滝、その流れを導いた渓流、美しい出島と巨大な舟石が浮かぶ池、柳島のある堀池がある。緑色や紫色などの紀州の名石を使った豪快な石組みが起伏に富んだ地形にマッチするよう配されている。

紅葉渓庭園

(写真は 紅葉渓庭園)

鳶魚閣

 堀池に浮かぶ鳶魚閣(えんぎょかく)は、4本の花崗岩の石柱を池の中に立て、その上に建てられた木造宝形造りの建物。雨の日には煙るような水面に浮かぶ鳶魚閣の姿が格別だと言われている。高台にある休憩所の御腰掛、渓流に架けられた紅葉溪橋などを園内に配して、雅趣豊かな庭園に仕上げている。庭園の静かなたたずまいとその眺めが、都会の中にいることを忘れさせてくれる。
 浅野幸長が餌鉢をおいて鶴を飼育していたことから鶴之溪と呼ばれる溪は、ヤマブキが咲き乱れることから別名・山吹溪とも呼ばれている。 

(写真は 鳶魚閣)

 庭園内の茶室・紅松庵は和歌山市の名誉市民である故松下幸之助氏が寄贈したものである。荒廃していた紅葉溪庭園が、昭和48年(1973)に3年をかけた復元整備工事でよみがえった。この庭園復元を記念して松下氏が茶室を建て、昭和49年(1974)に寄贈した。
 平屋建て数寄屋造りの茶室には、茶座席、立礼席が用意されている。茶の作法を知らない人でも、気軽に和服姿の女性が点ててくれた抹茶をいただける立礼席があるのはありがたい。茶室からの庭園の眺めは、四季折々にその趣を異にしており、渓流を流れる水の音に耳を傾けながらの一服は、大名気分にひたることができる。

紅松庵

(写真は 紅松庵)


 
刺田比古神社  放送 5月21日(水)
 和歌山城の南、小高い丘にある岡山の時鐘堂(じしょうどう)は、正徳2年(1712)5代藩主吉宗によって建立された。当時、和歌山城の北、本町にも慶長5年(1600)浅野幸長の時代に作られた時鐘堂があり、南北の二つの鐘が相呼応して一刻ごとに時を知らせていた。藩士の登城、出火、出水などの非常事態を町民たちに知らせる鐘としても鳴らされた。また、幕末にロシアの船が加太浦に入ってきた時には、この鐘が打ち鳴らされ大騒ぎになったと伝えられている。現代に残った南の時鐘堂の鐘は高さ1.33m、口径(外側)97cmで、大坂城の大砲を鋳直して造られたと言われている。

岡山の時鐘堂

(写真は 岡山の時鐘堂)

刺田比古神社

 時鐘堂の近くにある刺田比古(さすだひこ)神社はこの地の産土神で、吉宗公拾い親の神として知られている。当時、厄年に産まれた子供は一度、捨て子にすると丈夫に育つとの風習があった。そのため厄年生まれの吉宗は、その風習に従っていったん捨てられ、刺田比古神社の宮司がその拾い親になった。
 吉宗が8代将軍になるなど異例の出世をしたことから、刺田比古神社は出世、開運、厄除けの神として信仰されるようになった。また、この神社の祭神・大伴道臣命が神武天皇東征の道案内をしたとの伝えから、交通安全祈願の神社としても交通関係者から信仰されている。

(写真は 刺田比古神社)

 刺田比古神社は延喜式にも記載されている古社で、岡の宮とも呼ばれこの地の産土神として崇敬されてきた。その後、豊臣秀吉が和歌山城を築城してから城の鎮護の神とした。さらに浅野氏時代、徳川氏時代も和歌山城の鎮護神として崇敬された。
 吉宗の拾い親の神としての関わりから吉宗が紀州藩主になってから神田が寄贈された。将軍になってからは200石の社領地、黄金装飾の太刀、神馬などの寄進を受け、宮司が3年に一度、江戸で将軍・吉宗に拝謁できる特別待遇も受けていた。

紀伊名所図会

(写真は 紀伊名所図会)


 
羅漢寺  放送 5月22日(木)
 和歌山市内には紀州徳川家ゆかりの史跡が数多いが、和歌山城の南約4kmの国道42号東側の秋葉山の麓に建つ羅漢寺もそのひとつ。
重厚な仁王門がそそり立つ羅漢寺は、明和3年(1766)8代藩主・重倫(しげのり)の祈祷寺として建立された。寺には重倫の像が安置されているほか、重倫が使っていた座布団や御膳、木沓、菓子台が今も残っている。本尊の釈迦如来座像は重倫の母・清信院が寄進したものである。

徳川重倫像

(写真は 徳川重倫像)

釈迦如来坐像

 本堂の両脇には十六羅漢像と五百羅漢像がまつられている。この五百羅漢像は天保8年(1837)から5年ほどの間に、和歌山城の御殿奥女中や城下の商人たちが、先祖の供養や天下泰平を祈って奉納した寄木造の像。ずらりと並んだ五百羅漢像は、笑っている像、怒っている像など、人間が本来持っているさまざまな喜怒哀楽の感情がほとばしり出ている。
 羅漢とは釈迦の弟子で、知恵を得、悟りを開いて世人から供養を受けるに足る聖者のことで、十六羅漢、十八羅漢、五百羅漢などがある。五百羅漢像をじっくり拝観していると、どこかに自分や親兄弟に似た顔を見つけることができると言われる。

(写真は 釈迦如来坐像)

 羅漢寺の裏山にある寺の鎮守堂には防火の神の秋葉三尺坊大権現が祭られ、和歌山城の城下町を火災から守るために建立された。ここからこの裏山を秋葉山と呼ぶようになり、今は秋葉山公園として市民の憩いの場になっているほか、県民プールなどのスポーツ施設がある。
 この秋葉山からは万葉集の歌にも詠まれた和歌浦や片男波が望める。羅漢寺から少し足を伸ばせば紀州徳川家ゆかりの和歌浦の東照宮や観音霊場の紀三井寺などがある。

五百羅漢像

(写真は 五百羅漢像)


 
番所庭園  放送 5月23日(金)
 和歌浦の西方、雑賀崎の西の突端は、番所(ばんどこ)の鼻と言う変わった地名でよばれている。
まさに海に突き出た鼻と言った形の岬に立つと360度に近い眺望が楽しめる。
 紀州藩には海岸線十数ヶ所に海の防備見張り番所があった。この番所の鼻の見張り所は和歌山城に最も近い番所として重要な役目を負い、幕末には外国からの黒船来航を見張る番所となった。

番所庭園

(写真は 番所庭園)

「異船記」(和歌山県立図書館蔵)

 飛鳥、奈良時代に天皇が和歌浦に行幸した折りには、宮廷人や公家たちがお供として訪れ、万葉歌人らが美しい和歌浦や片男波の海の景色を歌に詠んだ。この番所の鼻近くの雑賀の浦にも足を伸ばし、紀淡海峡に浮かぶ小島を眼下にした海の景観を詠んでいる。そのひとつに「紀の国の 狭日鹿(さひか)の浦に 出て見れば 海人の燈火(ともしび) 波の間ゆ見ゆ」という歌がある。都では見られない雄大な海の景色に感嘆したのであろう。

(写真は 「異船記」(和歌山県立図書館蔵))

 今、番所の鼻一帯は番所庭園となっており、芝生の広場や四季折々の草花が植えれら、古くから海釣の名所としても名高い。白亜の雑賀崎灯台も望める潮騒と松風、紀淡海峡に沈む夕日の名所として人気の観光スポット。野外の家族団らんや撮影会、海釣り大会などを楽しむ観光客や家族連れの市民らで週末はにぎわう。
 雑賀崎は雑賀党の拠点で、石山本願寺の軍事、兵糧の基地の役割を果たした。織田信長に刃向かって織田軍をてこずらせた雑賀衆の勇猛さは有名である。

雑賀崎灯台

(写真は 雑賀崎灯台)


◇あ    し◇
和歌山城JR紀勢線和歌山駅、南海電鉄和歌山市駅からバス公園前下車。
JR紀勢線和歌山駅下車徒歩15分、南海電鉄和歌山市駅下車
徒歩10分。
岡山の時鐘堂JR紀勢線和歌山駅、南海電鉄和歌山市駅からバス県庁前下車3分。
刺田比古神社JR紀勢線和歌山駅、南海電鉄和歌山市駅からバス県庁前
又は岡山丁下車5分。
羅漢寺JR紀勢線和歌山駅、南海電鉄和歌山市駅からバス秋葉山下車
徒歩3分。
番所庭園JR紀勢線和歌山駅、南海電鉄和歌山市駅からバス雑賀崎遊園下車
徒歩15分。
◇問い合わせ先◇
和歌山市観光振興室073−435−1234 
和歌山市観光協会073−432−0001 
和歌山城管理事務所073−435−1044 
和歌山城天守閣073−422−8879 
紅葉渓庭園073−431−8648 
和歌山市教育委員会(岡山の時鐘堂)073−435−1377
刺田比古神社073−422−6576 
羅漢寺073−444−2473 
番所庭園073−444−6533 

◆歴史街道とは

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