月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・烏丸通 

 京都市の市街地を南北に貫くメインストリート・烏丸通は、平安京造営時の烏丸小路が始まりで1200年の歴史を持つ。地下鉄北大路駅北の今宮通との交差点から南へ約8km、地下鉄十条駅南の久世橋通交差点までを言う。道路幅は初めは12mの小路だったが、現在は20mに拡幅されている。京都の人たちは「からすま」と呼んでいるが正式には「からすまる」と呼ぶのが正しいようだ。明治10年(1877)に京都駅が誕生してからメインストリートになり、沿道には企業のビルが建ち並び、そのかたわらで京の老舗の商店が健在ぶりを発揮している。


 
猪のご利益  放送 10月6日(月)
 京都御所・蛤御門の南西、烏丸通を挟んで向き合うように鎮座している護王神社は、和気清麻呂命(護王大明神)とその姉・広虫姫命(子育明神)が祭神。
 奈良時代、朝廷で絶大な権力をふるっていた僧・弓削道鏡は、密かに皇位を狙っていた。その企みを阻止しようと和気清麻呂(733〜799)は、豊前国(現大分県)の宇佐八幡神宮に「道鏡を皇位につけよ」との神託の真偽を確かめるために赴き、皇族以外の者は皇位につけないとの神託を受けた。これが道鏡の怒りにふれ、清麻呂は大隅国(現鹿児島県)へ流された。

和気清麻呂銅像

(写真は 和気清麻呂銅像)

願かけ猪

 清麻呂が配流先の大隅国へ向かう途中、突然300頭の猪が現れ、宇佐八幡神宮までの約40kmの道中を、清麻呂の前後を護りながら案内したとの伝説が残っている。この伝承が清麻呂を祭る護王神社では猪を霊猪とし、守り神としている。
 拝殿の前には狛犬の代わりに雌雄一対の猪がデンと構えている。この「コマイノシシ」は明治23年(1890)に建立され、以来、護王神社のシンボルとなった。本殿前の「願かけ猪」の石像前には、願い事を書いた紙を挟んだ願かけ串がたくさん刺し立てられている。ほかに全国の信者らから寄せられた猪の置物、土鈴、色紙、絵馬、猪のはく製や猪グッズが展示され、まさに猪ずくめである。

(写真は 願かけ猪)

 和気広虫姫は夫が夭逝したため早くから宮中に女官として仕えた。孝謙、称徳、光仁、桓武の4代の天皇に仕え、その信任は非常に厚かった。藤原仲麻呂の乱に連座した死刑者375名の減刑を天皇に嘆願したり、この乱で父母を失った孤児ら83人を養子にして保育するなど、今日の孤児院、幼稚園のような事業をした。わが国の保育事業、福祉事業、慈善事業の草分的存在の女性と言える。道鏡事件では弟の清麻呂を陰で助け、道鏡の野望を砕いた。
 広虫姫は大正4年(1915)に子育明神とした護王神社に祭神として合祀された。
臣下の女性が旧官幣社、旧国幣社の祭神として祭られた例はほかになく、婦女子の鑑としての遺徳がいかに高かったかが分かる。このご利益を授かる子育てお守りが、すこやかな子供の成長を願う母親たちに人気がある。

法均尼(広虫姫)子育図

(写真は 法均尼(広虫姫)子育図)


 
志の先に   放送 10月7日(火)
 京都御所を含む京都御苑西側の烏丸通に面する蛤御門は、もとは新在家門と言って長く閉ざされていた。ところが宝永5年(1708)の京都大火の際に、初めて開かれたので「焼けて口開く蛤」に例えられ、蛤御門の名がつきこれが通り名になった。
 幕末に尊王攘夷を唱える長州藩の志士と公武合体を唱える薩摩・会津連合軍がこの蛤御門で激突したのが「蛤御門の変」。公武合体派が勝利したが、この争いで京の民家約2万8000戸が焼き尽くされた。争いのとばっちりを受けた蛤御門の梁には鉄砲の玉傷が今も残っている。

蛤御門

(写真は 蛤御門)

聖アグネス教会

 現在の京都御所は東洞院土御門内裏で、南北朝時代の北朝の光厳天皇の里内裏(仮皇居)で、その後、明治維新まで天皇の御座所となった。御所の周辺には上皇の御所だった仙洞御所や大宮御所、皇族、公卿らの邸宅があった。明治維新で皇居が東京へ移された後、皇族、公卿らの屋敷が取り壊されて公園化され、現在の京都御苑となった。現在の蛤御門は京都御苑の門のひとつで、京都御苑の近くには勤王の志士らにまつわる旧跡が点在している。
 東西700m、南北1300mにおよぶ広い緑地の京都御苑内は、御所を除いて出入り自由で京都市民や観光客らの憩いの場になっている。

(写真は 聖アグネス教会)

 蛤御門から烏丸通を南へ少し下がった向かい側にある、古色蒼然とした煉瓦造りの西洋建築は、日本聖公会聖アグネス教会の礼拝堂と鐘楼。大阪の照暗女学校が明治28年(1895)に京都へ移転し、平安女学院となった後、その敷地内に立教大学の初代校長で教育者、宣教師、建築家でもあったアメリカ人のJ・M・ガーディナーの設計で明治31年(1898)に建築された。煉瓦造りの教会、礼拝堂としては同志社礼拝堂に次ぐ古さを誇っている。
 明治時代末になると国粋主義的傾向が強まりキリスト教の宣教活動が困難な時代になったが、これらの苦難を乗り越えて今日まで多くの人びとに、扉を開いてきたのがこの聖アグネス教会で、建設当時の姿をそのまま今に伝えている。

洗礼堂

(写真は 洗礼堂)


 
典雅の香  放送 10月8日(水)
 瀟洒な店内に心落ち着く香りが漂い、女性客を中心にいつも静かなにぎわいを見せているのはお香の老舗・松栄堂。二条通から烏丸通を上がった所にある松栄堂は、京都御所に仕えていた畑六兵衛が、職を退いて後の宝永2年(1705)に創業した300年の歴史を持つ老舗で、現在の当主は12代目に当たる。
 お香は6世紀半ばに中国から朝鮮半島の百済を経て日本に伝来した仏教と共に伝わり、仏前を清めて邪気を払う宗教的な意味合いで定着した。また日本書紀には推古天皇3年(595)淡路島に漂着した流木を、島の人が薪としてかまどに投げ入れたところ素晴らしい香りを発したので、この木を朝廷に献上したと記されている。この香木は東南アジアから流れてきた沈香水木(じんすいこうぼく)だった。

沈水香木

(写真は 沈水香木)

盆切り

 奈良時代に入って中国・唐の僧・鑑真和上が来日した時、多くの香の原料を持参し、香の作り方などを伝授した。平安時代に入ると貴族たちが衣服に香を焚き込め、その移り香を暮らしの中で楽しむようになった。こうした風習は平安時代の王朝文学の「枕草子」や「源氏物語」にも表現されている。
 鎌倉時代に入ると武家社会でも香を楽しむようになる。貴族たちの香りをかぎ分ける楽しみ方とはやや違い、香りによって精神の統一や心の落ち着きを求めた。出陣に際して甲冑に香を焚き込めたのもそのひとつである。室町時代に入ると香をたしなむことが盛んになり香道が体系化され、三条西実隆の御家流、志野宗信の志野流が生まれ、香の分類法なども確立した。

(写真は 盆切り)

 香の老舗・松栄堂では300年の伝統に培われた職人の技によって、多種多様な香が生産されている。生産工程の機械部分は近代的なものが導入されているが、微妙な香料の調合や練り具合、乾燥などは職人の長年の技と勘に頼る部分が多い。
 松栄堂の店内には伽羅(きゃら)、沈香(じんこう)、白檀(びゃくだん)などの香木や草根、木皮などの香料を使って作られた香が並んでいる。もっともポピュラーなのが直接火をつけるタイプの線香。線香にも使用する場所や用途によってスティック型、コーン型、うずまき型がある。他に和服の袖にしのばせる匂い袋や練香などのほかに、西洋の香水の原料を使ったものなどバラエティ豊かな香りの世界が演出されている。

お香の主原料

(写真は お香の主原料)


 
薬の町  放送 10月9日(木)
 烏丸通と東西に交わる二条通には、薬の小売店や漢方薬の問屋がずらりと軒を並べている。京都市に古くから伝わるわらべ歌に「一条戻り橋、二条きぐすり屋、三条みすや針、四条芝居 」と歌われているように、二条通は薬屋の町として栄えてきた。
 記録によると二条通の薬屋の起こりは豊臣時代と見られている。秀吉が京の町を整備して以来、相次ぐ戦乱で荒廃していた町にも町家などが建ち並び始めた。大阪からの商品も高瀬川の水運を利用して容易に運べるようになり、江戸時代に入って薬業者の町としての基礎ができ、発展してきた。

神農像

(写真は 神農像)

雨森敬太郎薬房

 この二条通の薬屋の町に「無二膏」と言う屋根看板と大のれんを掲げているのが雨森家。無二膏は腫れ物に効く膏薬で、御所の御典医を努めていた雨森良意が作り出した。当時は腫れ物、でき物に悩む人たちが多く、その効き目が天下に二つとない膏薬だと、宮中から庶民の間まで大評判になった。「無二膏」と呼ばれて人気が高まり、製造が追いつかないほどになった。このため良意は御典医を辞め、無二膏作りに専念することになったのが、江戸時代初期の慶安元年(1648)だった。
 無二膏は中国・宋代の薬書に記されている膏薬に似ており、この処方を稲若水(とうじゃくすい)と言う中国の儒医から良意が伝授され、さらに工夫を重ね、この世に二つと無いと言う薬名の「無二膏」を作り出したと見られている。

(写真は 雨森敬太郎薬房)

 大評判を呼んだため「無二膏」の名の類似品が出回り、雨森家のある町内にも無二膏を売る店が出るほどだった。明治時代に入って商標登録法が施行され、雨森家は「無二膏」を商標登録しようとしたが、あまりにも多くの無二膏が出回っているため、商品名でなく一般名と判断され認められなかった。やむを得ず北印と雨森の字を商標として登録した。無二膏は現在14代当主まで続いているが、抗生物質の普及などで需要は落ちているが「絶対にやめないで欲しい」と言う根強い愛用者がいる。
 薬の町・二条通には「神農さん」と呼び親しまれている薬の神の神農を祭る薬祖神祠(やくそじんし)があり、毎年11月3日に神農まつりが行われている。

二条薬祖神祠

(写真は 二条薬祖神祠)


 
御用蕎麦司   放送 10月10日(金)
 江戸時代に京都御所の宮中へそばを作りに伺っていた御用蕎麦司だった本家尾張屋は、室町時代末の応仁の乱の前々年の寛正6年(1465)尾張国から京へ出てきてそば菓子の店を創業した。その後、そばを中心にした店となり、京の町衆たちに親しまれ繁盛するようになった。
 尾張屋のそばの味が京の町で評判になるにつれ、由緒ある寺院や宮家からも注文が来るようになり、こうして尾張屋のそばの味が信用され、御所へ出入りする宮中御用達を努めるようになった。今でも宮家の人たちが京都を訪れると、当主がそば打ちの道具を持参してそば作りに伺うこともある。

本家尾張屋

(写真は 本家尾張屋)

大捏ね板

 そばは古くは粒のままか、粉を湯で練る「そば掻き」で食べていた。鎌倉時代中期の仁治2年(1241)臨済宗の僧で、京都・東福寺を開いた円爾・聖一国師が、中国・宋の国の水車と石臼による製粉技術を持ち帰り、大量のそば粉が作れるようになった。こうしたことからそば粉を練って薄く伸ばし、これを線状に切ったものをゆで、つゆを加えて味わう「そば切り」が作られるようになり、これが今の細い麺のそばの始まりである。
 このそば切りの食べ方がいつごろから始まったのかはっきりしないが、戦国時代末の天正2年(1574)長野県木曽郡大桑村にある古文書に「寺の仏殿の修復に集まった人にそば切りを振る舞った」との記録がある。

(写真は 大捏ね板)

 尾張屋では作りたてのそばが最高の味であることを大切にし、国内産の上質のそばの挽きたてのそば粉を使い、打ちたてのそばを客の注文を受けてから湯がくコシの強さと香りが自慢。そばにはたんぱく質、ビタミン、ルチンなどの成分が含まれ栄養価も高く、健康や美容保持に良いと言われている。
 静かな落ち着いた雰囲気の中でそばを味わってもらおうと、尾張屋の店内には茶室を設けたり、気軽な椅子席、くつろげる座敷などレイアウトにも気を使っている。創業時に始めた伝統のそば菓子も作り続けている。あんをそばで包み焼き上げたそば餅、薄く伸ばしたそばを一枚一枚焼いたそば板やそばを軽く焼き上げたそばぼうろうなど、素朴なそばの風味が漂うこれらの菓子の人気も高い。

そば餅と蕎麦板

(写真は そば餅と蕎麦板)


◇あ    し◇
護王神社、蛤御門地下鉄烏丸線丸太町駅下車徒歩8分。 
日本聖公会聖アグネス教会地下鉄烏丸線丸太町駅下車徒歩2分。 
松栄堂地下鉄烏丸線丸太町駅下車徒歩3分。 
雨森敬太郎薬房、本家尾張屋地下鉄烏丸線烏丸御池駅下車徒歩3分。 
◇問い合わせ先◇
護王神社075−441−5458 
宮内庁京都事務所075−211−1215 
環境省京都御苑管理事務所075−211−6348 
日本聖公会聖アグネス教会075−432−3015 
松栄堂075−212−5591 
雨森敬太郎薬房075−231−2848 
本家尾張屋075−231−3446 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
   倶楽部入会の資料をご希望の方は、
 ハガキにあなたのご住所、お名前を明記の上、
          郵便番号 530−6691
          大阪市北区中之島センタービル内郵便局私書箱19号
                  「テレホンサービス係」
へお送り下さい。
   歴史街道倶楽部の概要を解説したパンフレットと申込み用紙をご送付いたします。
       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会