古代の貴族政治が終わって、武家が政権をとる鎌倉時代になったとき、中国から禅宗がもたらされ、封建制度の担い手である武家によって禅宗が支持されて広まった。禅のもつ深い精神性は茶道と結びついて今日まで日本文化の基層を構成し、或る意味で日本文化の独自性を代表するものとも考えられている。よく言われる「わび」「さび」も禅の精神の一端である。 鎌倉時代の終わり頃、臨済宗の高僧、播磨の国、竜野出身の大灯国師宗峰妙超が1319年に親戚筋の守護職、赤松則村の援助で京の紫野に小庵を開いたのが大徳寺の起こりであると伝える。1324年には現在の大徳寺の土地を拝領し、大徳寺と称するようになった。 鎌倉時代が終わって建武中興があった1333年には、後醍醐帝から五山の上にランクされたが、室町時代の足利義満の時代に十刹中の9位に落されたので、1431年には十刹の位を辞し、座禅本位の寺として天竜寺や相国寺などの五山に対抗した。1453年には火災があり、その上、応仁の乱で伽藍が殆ど焼けてしまったので、1473年に堺の商人の援助を得て復興が図られた。1582年には秀吉が信長の菩提を弔うために総見院を建てて葬儀をとり行った。 その後も諸大名の庇護のもと、伽藍が復興して諸堂が完備して現在は洛北随一の巨刹となった。このように大徳寺は特に茶の湯と結びつきが強く、俗に「茶面」といわれ、その縁でこの寺を訪れる人も多い。
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