月〜金曜日 21時54分〜22時00分


京都紫野・大徳寺

古代の貴族政治が終わって、武家が政権をとる鎌倉時代になったとき、中国から禅宗がもたらされ、封建制度の担い手である武家によって禅宗が支持されて広まった。禅のもつ深い精神性は茶道と結びついて今日まで日本文化の基層を構成し、或る意味で日本文化の独自性を代表するものとも考えられている。よく言われる「わび」「さび」も禅の精神の一端である。
 鎌倉時代の終わり頃、臨済宗の高僧、播磨の国、竜野出身の大灯国師宗峰妙超が1319年に親戚筋の守護職、赤松則村の援助で京の紫野に小庵を開いたのが大徳寺の起こりであると伝える。1324年には現在の大徳寺の土地を拝領し、大徳寺と称するようになった。
 鎌倉時代が終わって建武中興があった1333年には、後醍醐帝から五山の上にランクされたが、室町時代の足利義満の時代に十刹中の9位に落されたので、1431年には十刹の位を辞し、座禅本位の寺として天竜寺や相国寺などの五山に対抗した。1453年には火災があり、その上、応仁の乱で伽藍が殆ど焼けてしまったので、1473年に堺の商人の援助を得て復興が図られた。1582年には秀吉が信長の菩提を弔うために総見院を建てて葬儀をとり行った。
 その後も諸大名の庇護のもと、伽藍が復興して諸堂が完備して現在は洛北随一の巨刹となった。このように大徳寺は特に茶の湯と結びつきが強く、俗に「茶面」といわれ、その縁でこの寺を訪れる人も多い。


 
竜宝山・大徳寺 放送日 10月18日(月)

 紫野大徳寺は正しくは竜宝山の山号を持ち、伽藍の整った姿と塔頭の多さでは京都の禅宗寺院のなかでも際立っている。 
 特に有名な話は、伽藍の復興に尽力した千 利休がこの寺の三門(桃山時代、重文)を当初は単層の建物であったのが1589年に改修して重層にし、上層に釈迦三尊像と十六羅漢像を安置、柱と天井に雲竜と天人の図を長谷川等伯に画かせたが、千利休像もここに安置した為、後に秀吉が大徳寺を訪れた折、利休の足の下をくぐらされたとの理由で不興を買い、切腹させられる原因になった話は有名である。

大徳寺山門(三門)

 

山門上層・天井の竜

 三門(金毛閣、桃山時代1589年)を入ると仏殿、法堂、庫裏、方丈と続き、典型的な禅宗の伽藍配置になっている。
 三門の手前に勅使門(江戸時代、重文)があるが、これは後水尾帝から拝領した御所の御唐門であったもので、桧皮葺き唐様の四脚門である。
 仏殿(本堂)(江戸時代、重文)は重層の建物に見えるが、実は単層で、下の屋根は裳階(もこし)である。禅宗様建築の典型で桟唐戸、海老虹梁(えびこうりょう=高さの異なる柱をつなぐ梁)、波形連子窓などが見られる。
 法堂(江戸時代、1636年、重文)は、やはり禅宗様で仏殿より大きい。小田原城主稲葉正勝父子の寄進によって建てられた。屋根裏の垂木は放射状に並べられる扇垂木と呼ばれる形式。内部に海老虹梁があり、禅宗様になっている。天井の竜は狩野探幽が35歳の時に画いたもので、 大灯国師遷化300年の記念に建てた典型的な禅宗様建築である。本尊の上、天井は一段高くして天人の丸彫り彫刻がとりつけられている。 
  庫裏(室町時代、重文)は法堂裏にあり、台所にある大かまどは江戸時代のもので、重文。
 方丈(江戸時代、国宝)は庫裏の東にあり、単層桟瓦葺きで、29メーター×17メーターの大きな建物である。庫裏と同じ1636年の建物で京の豪商、後藤益勝の寄進と伝える。東側の屋根は入母屋、西は切り妻になっているが、これは一休の再興した旧方丈を1636年に改造したためのようで、今もなお、室町建築の名残を留めている。方丈の襖絵は狩野探幽の山水図で83面をかぞえる。南庭(江戸時代、史跡特別名勝)は枯山水で、天祐和尚の作と伝えられる。
 唐門(桃山時代、国宝)は方丈南庭の南にあり、秀吉の建てた聚楽第の遺構と伝えられる。前後に軒唐破風をかけ、豪華な彫刻を施している。一名、日暮しの門ともいう。

  


 
大徳寺方丈 放送日 10月19日(火)

方丈(1636年=江戸時代、国宝)は桟瓦葺き単層で東は入母屋、西は切り妻屋根になっている。これは一休が応仁の乱後に再興したものを新たに江戸時代に作り変えた為だろうと言われている。現在の方丈は1636年に京の豪商、後藤益勝の寄進によるものである。方丈は本来一山の住持が住まいとするところである為、住宅風の造りになっている。全8室からなり、北側中央よりやや東寄りに開山の大灯国師の遺骨をまつる塔所をもうけている。これは、大灯国師の遺言により、「別の場所に塔所を設けないようにせよ」との指示があったことによるもので、大徳寺独自の形になっている。

庫裏の竈(かまど)

 

大徳寺方丈

 方丈は、ほぼ、全室畳敷きになっている。
 庭園は東と南にあり、共に江戸時代初期のものである。東庭は小堀遠州の作と伝えられるもので、低い刈り込みに沿って石を七五三に並べ、比叡山や、加茂川を借景としたものである。一方、南庭は天祐和尚の作と考えられている。東南部に大刈り込み、その下に巨石で枯滝を組み、西に向かって小石や植え込みを配置して山を表し、一気に白砂の海に向かって水が流れる様をあらわしている。

  


 
一休宗純 放送日 10月20日(水)

一休の書

 狂雲の僧といわれる一休宗純(1394−1481)は、後小松天皇のご落胤ともいわれ、禅宗の俗化をきらい、偽善的禅風を激しく批判した求道僧である。山城の国安国寺に入門、ここで師から一休の号を与えられた。1440年に大徳寺如意庵に迎えられたが、寺の姿勢が気にいらず、即日退庵して反俗を通した。
 1456年に山城の国、薪(たきぎ)の妙勝寺を復興して酬恩庵を建て、ここに住んだ。1474年には大徳寺の住持として迎えられ、応仁の乱の兵火で焼けてしまった寺の復興に力を注いだ。

  
 真珠庵は一休の開創になる塔頭であるが、現在の建物は江戸時代(1636年)に京の豪商後藤益勝の寄進になる方丈(1636年重文)があり、方丈東庭は低い2重刈り込みの内側に比較的小さな石15個を7,5,3に並べ、刈り込みの向こうに比叡山を借景に取り入れている。作者は茶人の村田珠光か連歌師の宗長であろうといわれている。
 方丈裏の通せん院の建物は、正親町天皇の女御の化粧殿を移したもので、付属する茶室庭玉軒に露地庭がある。江戸中期、金森宗和作と伝える。

一休の肖像画

 


 
千 利休 放送日 10月21日(木)

 千 利休は堺の納屋衆、田中与兵衛の子として生まれ、名は宗易という。茶道を能阿弥の流れを継ぐ北向道陳に学び、後、武野紹鴎に師事した。一方禅宗にも深く帰依し、大徳寺に参禅している。こうして信長の茶頭(さどう)として仕え、信長没後は秀吉に仕えて茶道界をリードした。しかし、権力の中枢に入り込み政権の人事にまで口をだすようになっていったといわれる。
 

山門上層内部

 

千 利休像

 秀吉の正親町天皇への献茶会の際も後見役を勤め、居士号が与えられた。利休は「天下一の名人」と称えられるようになったが、大徳寺山三門の上層に利休像を据えた事から、秀吉の不興を買い、切腹を命じられた。これは表面上の理由であるが、真相は色々と推測されている。
 利休は茶道の大成者であり、草庵の小座敷、時には2畳台目というような極端に小さなスペースの中で茶をたて、自然と一体感を持ち、深い精神性へとつながる侘び茶を完成した。
 利休の大徳寺への関わりは、応仁の乱後、長らく三門が平屋であったのを2層に改修したほか、聚光院の建立に当たって多額の寄付をし、この寺の墓地に利休の墓(鎌倉時代の一石多宝塔を再利用、重美)と、三つの千家一族の墓が設けられている。

  


 
大徳寺と戦国武将 放送日 10月22日(金)

 大徳寺は応仁の乱で焼けてから堺や京の豪商の寄進で立ち直ったが、その後、江戸時代の初めにかけて武将たちが競って塔頭を建立をしたので、大徳寺には多くの武将に縁のある塔頭が増えていった。
 黄梅院(おうばいいん)は小早川隆景の開創で本堂(桃山、重文)は方丈建築で、襖絵に雲谷等顔の「竹林七賢図」「山水図」「芦雁図」(桃山時代、重文)などがある。
 竜源院(りょうげんいにん)は畠山義元、大友義親、大内義興、の寄進による。表門と方丈は共に室町時代の建築で重文。本尊の釈迦如来は鎌倉時代のもので、重文。北庭は竜吟庭と呼ばれる三尊石組を配した枯れ山水で、室町時代の作庭である。
 瑞峯院は大友宗麟が1535年に建てたもので、本堂は桧皮葺き、表門も共に室町時代のもので重文。禅宗方丈の古い遺構で貴重な文化財である。
 興臨院は畠山義綱の援助で出来たもので、本堂は室町時代のもので重文。
 大仙院は六角政頼の寄進によるもので、本堂は室町時代のもので国宝。襖絵は相阿弥作といわれる水墨画(室町時代、重文)で山水をえがいたもの。庭園は禅院式枯れ山水。滝、川、海、舟などをを狭い空間に盛り込んで、比較的リアルに表現している。
 芳春院は前田利家の室、芳春院の寄進によるもので、前田家の菩提寺。庭は楼閣山水庭園というもので、金閣、銀閣に並ぶ形式。
 

天正11年(1583)銘の種子島鉄砲(竜源院蔵)

 

秀吉と家康が対局した碁盤(竜源院蔵)

 聚光院(じゅこういん)は本堂が桧皮葺き、室町時代のもので重文。三好義継が父長慶の菩提を弔う為に建てた。襖絵に伝狩野永徳の花鳥図(桃山時代、国宝)があり、庭園(桃山時代、名勝)は苔庭に石を配した蓬莱式枯れ山水。庭の南に千 利休の墓(鎌倉時代の一石多宝塔を再利用したもの、重美)。
 三玄院は石田三成、浅野幸長、森 忠成の援助で出来たもので、境内墓地に石田三成、古田織部、森忠政の墓などがある。
 総見院は1583年に秀吉が、信長の菩提を弔うために古渓和尚を開祖として建てたもので、葬儀もここで行われた。
 高桐院は細川忠興(三斎)が父幽斎の菩提を弔うために建立した細川家の菩提寺。楓一色の樹木に苔庭を配したのが清清しい。松向軒(江戸時代)は細川三斎好みの2畳台目の茶室で、三斎の墓は本堂の西にある。墓石に相当するのは、南北朝時代の六角石灯篭で、元は利休の持ち物であったが、これを秀吉から所望された利休は、仕方なく蕨手の一部を欠けさせて疵物と偽り、三斎に与えたもの。他に李唐の筆と伝える「山水図」(南宋時代、国宝)等がある。
 竜光院は黒田長政が父孝高(如水)の菩提を弔う為に建てたもの。平唐門(江戸時代、重文)や本堂(江戸時代、重文)、書院(元小方丈、江戸時代、国宝)、蜜庵茶室(江戸時代、国宝)といった建物から、襖絵に狩野探幽の花鳥山水図、什宝には耀変天目茶碗(南宋時代、国宝)、油滴天目茶碗(南宋時代、重文)など多数がある。
 孤蓬庵は1643年に小堀遠州の建立になるもので、残念ながら1793年に火災で焼失したが、松平治郷の援助で再建された。本堂は1797の方丈建築で、重文。忘せん茶室(江戸時代、重文)は天井、2段に分けた障子、蹲居など何処をとっても遠州の工夫による優れたデザインに圧倒される。又、庭園(江戸時代、名勝)は遠州の故郷、琵琶湖をかたどった枯れ山水で、近江八景を写したもの。南方にある船岡山を舟に見立てた借景式庭園である。境内墓地に遠州の墓があり、寺宝に井戸茶碗「銘、喜左衛門」(李朝、国宝)がある。

  


あ   し

  大徳寺へは、京都駅前Bのりば、三条京阪、四条河原町、四条烏丸Dのりば、四条大宮からいずれも 京都市バス、大徳寺前下車すぐ


みどころ

  大徳寺境内、*本坊、塔頭*黄梅院、◎竜源院、◎瑞峯院、興臨院、*真珠庵、◎大仙  院、芳春院、*聚光院、総見院、◎高桐院、孤蓬庵、など。◎の塔頭は常時公開、その他は  非公開の塔頭が多いが、今年の特別拝観で10月30日ー11月10日まで*印の寺院と塔頭 が公開される。日にちに十分注意を。
  今宮神社、同やすらい祭り(疫病退散の民俗行事)、4月第2日曜日。
  金閣寺、引接寺(いんじょうじ)、大報恩寺、北野天満宮、光悦寺


味・土産

  泉仙(大慈院店)の鉄鉢料理
  大徳寺納豆、今宮神社東門前「かざりや」「一和」のあぶり餅、北野天満宮門前の粟餅


問い合わせ先

   京都市観光協会          075−752−0225
   京都市交通局           075−801−2561
   大徳寺本坊             075−491−0019
   大仙院                075−491−8346
   真珠庵                075−492−4991
   聚光院                075−492−6880
   竜源院                075−491−7635
   瑞峯院                075−491−1454
   高桐院                075−492−0068  
   泉仙大慈院店(鉄鉢料理)            075−491−6665
   大徳寺一久(大徳寺納豆)    075−493−0019