月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪市・上町台地 

 古代の難波は難波津から上町台地一帯にかけての地域だった。上町台地は大阪城から南に広がる高さ10〜20m、幅2km、長さ12kmの丘陵地で、東側はなだらかな斜面だったが、西側は急な崖が海に迫っていた名残として今も急な坂道がいくつもある。都が置かれた古代には政治、経済、外交、文化の中心地となった。上町台地の北端には大阪城がそびえている。今週はさまざまな時代の歴史を秘めたこの上町台地を、四天王寺から大阪城まで歩いてみる。


 
難波宮朱雀大路  放送 10月21日(月)
 四天王寺は聖徳太子が排仏派の物部守屋と戦った時、四天王に戦勝を祈願して戦いに勝った後、戦勝後の推古天皇元年(593)に創建した日本最初の官寺である。太子は敬田、非田、施薬、療病の4カ院を作り、貧しい人や病気の人たちのための社会救済事業を行ったと伝えられている。四天王寺の堂塔は南大門、中門、塔、金堂、講堂が一直線にタぶ四天王寺式伽藍(がらん)配置で有名である。
 四天王寺の東門を出た所の地名は大道(だいどう)。この門前の道は古代、難波宮から連なる朱雀大路であった。ここから北へ向かうと西側に鎮座するのが高津宮。仁徳天皇が民の窮状を察して救済策を施したのち、この地に立って「煙立つ民のかまどはにぎわいにけり」と詠んだと言うエピソードで有名な、見晴らしのよい場所である。

高津宮

(写真は 高津宮)

八角殿跡(難波宮跡)

 この上町台地には応神天皇の難波大隅宮、仁徳天皇の難波高津宮があったと古事記、日本書紀に記されている。さらに時代はさがって大化元年(645)孝徳天皇が都を飛鳥から難波長柄豊碕宮に移し、大化の改新の改革を行っており、この都を前期難波宮と言う。壬申の乱後、都は再び飛鳥に移され、難波は副都となった。
神亀3年(726)聖武天皇が大規模な難波宮を造営を始め、天平16年(744)難波宮が完成し、この都を後期難波宮と言う。
 6世紀ごろから中国大陸や朝鮮半島から先進文化や高度な技術が難波津に入ってきた。
外国からの使節や高官を迎えるための大郡(おおごおり)や難波館(なにわのむろつみ)などの役所、迎賓館が設けられるなど、難波は外国との玄関口だった。
 難波宮跡は史跡公園として整備が進められており、八角殿跡、大極殿跡などが発掘調査で明らかになった。すぐ近くの大阪歴史博物館には後期難波宮の大極殿が原寸大で復元されている。

(写真は 八角殿跡(難波宮跡))


 
寺と坂の町  放送 10月22日(火)
 四天王寺の西から北へ生国魂(いくくにたま)神社あたりまでの松屋町筋と谷町筋の間には寺が多い。町名も下寺町、生玉寺町、中寺など寺の字がつくものが目立つ。
 この地域に寺が多いのは元和元年(1615)大阪城主になった松平忠明が市街地整理のため、市中に散在していた寺院や墓地を現在の北区と谷町9丁目周辺に集め、城の南北の守りを固めたことによる。
 そのお寺の間を口縄坂、源聖寺坂、愛染坂など何本もの風情ある坂が西から東へ登っている。源聖寺坂は源聖寺の土塀沿いに石畳の続く坂道で、口縄坂はその緩やかな坂道が蛇(くちなわ)のように見えることからこの呼び名がついた。この坂道を登りきった所に「夫婦善哉」の作者・織田作之助の文学碑がある。

口縄坂

(写真は 口縄坂)

雨宝童子立像(銀小寺)

 円成院(遊行寺)には人形浄瑠璃興行主・2代目植村文楽軒のほかに歌舞伎、義太夫など、芸能関係の人びとの墓が並んでおり、俳聖・松尾芭蕉の墓所もある。
 銀山寺は天正19年(1591)豊臣秀吉が大坂城の城下町建設のひとつとして創建された。当時は大福寺と呼ばれたが、秀吉が中国の金山寺に劣らぬとして寺号を銀山寺と改めさせたと言う。秀吉の守り本尊と伝えられる雨宝童子立像が安置されているほか、秀吉の画像、朱印状などがある。また創建当時のものとされる木造阿弥陀如来立像の右肩、背面には、なぜか貝殻を思わせるようなものが付着している。

(写真は 雨宝童子立像(銀小寺))


 
大坂の陣・真田幸村  放送 10月23日(水)
 慶長19年(1614)大坂冬の陣、真田幸村は大坂城の南東に真田丸と言う出城を作り、さまざまな奇策を用いて徳川軍を大いに悩ませた。豊臣方の必死の抵抗に徳川方は苦戦し、和睦という形で冬の陣は終結した。
 現在のJR環状線玉造駅近くの宰相山公園から真田山公園あたりに真田丸が築かれたようだ。真田丸があった地に建つ三光神社には、大坂城から続いていたと言う「真田の抜け穴」の一部が残っているほか、境内には幸村の陣中指揮姿の銅像が立っている。
 近くの円珠庵(鎌八幡)境内のエノキの木は、古来から霊木として人びとの信仰を集めていた。真田幸村がこのエノキに鎌を打ちつけて戦勝を祈念し、大いに戦功をあげたと伝えれている。以来、「鎌八幡」と呼ばれ、このエノキに鎌を打ち込み悪縁を断つ願かけをする人が増えた。江戸時代前期の国学者・契沖が晩年をここで過ごし、境内に墓がある。

真田幸村像(三光神社)

(写真は 真田幸村像(三光神社))

鎌八幡(圓珠庵)

 翌年の慶長20年(1615)の大坂夏の陣は、徳川方15万人、豊臣方5万5000人で、兵力からも豊臣方は不利な戦だった。幸村は「狙うは徳川家康の首」と決死の覚悟で天王寺・茶臼山に陣を張り最後の戦いに挑んだ。
 甲冑(かっちゅう)などの武具をすべて赤一色に統一した赤備えの真田軍団は、家康の本陣を正面から3度にわたって攻撃した。度肝を抜かれた家康は窮地に追い込まれ、退却したと伝えられている。だが、幸村に勝機は訪れず、奮戦むなしく力尽き、アの戦いで幸村は戦死、大坂城も落城して豊臣氏は滅亡した。徳川方の武将・島津氏は幸村の奮戦ぶりを「真田日本一の兵」と称賛したほどだった。
 四天王寺に近い安居神社が幸村の最後の地と地と伝えられ「真田幸村戦死跡之碑」が立っている。

(写真は 鎌八幡(圓珠庵))


 
空堀界隈  放送 10月24日(木)
 上町筋から松屋町筋へ東西にのびる空堀商店街は、豊臣秀吉が築いた大坂城三の丸の外側にあった空堀に沿っている。商店街の南北の土地はグッと低くなっており、この空堀が城下と城外の境界となっていたことがよくわかる。
 大正5(1916)年ごろから空堀通りには、地元の延命地蔵の縁日に当たる4の日に夜店が出てにぎわい、年々盛んになり戦前まで続いた。空堀商店街は第2次世界大戦の空襲の被害も軽かったので、戦後はいち早く復興した。大阪市内で初めて福引売出し(ガラポン)を始め、これが大人気を呼び東西約800mの大商店街に発展した。織田作之助の「わが町」はこの界隈が舞台で、戦災の被害が少なかったため昭和時代初期の長屋の建物が多く残り、細い路地が懐かしさをかきたてる。

空堀レトロ

(写真は 空堀レトロ)

創房心裸

 空堀界隈には昔懐かしい建物や商店が多い。昭和時代初めの駄菓子屋さんを思わせる「空堀レトロ」では、子供たちが素朴な駄菓子に目を輝かせ、大人たちは昔を懐かしみ童心に帰ることができる。「創房心裸(しんら)」は古い長屋の良さを生かし改造したもので、陶芸教室や紅茶喫茶がある。また、この付近には路地毎にお地蔵さんやお稲荷さんが祭られている。この地蔵と稲荷は住民が月当番制で管理しており、毎年、地蔵盆や初午の祭りが盛大に行われ、地域住民の親睦と連帯感を強める役目を果たしている。
 古い長屋が残るこの地域にも問題点がある。狭い路地にしか面していない建物は建築基準法などの規制で建て替えができない。老朽化する建物が増え、解体されて空地になっている所もある。今あるこれらの長屋もいずれは姿を消す運命にあるのかもしれない。

(写真は 創房心裸)


 
大阪城の金蔵  放送 10月25日(金)
 大阪城天守閣南東の足許にある金蔵(国・重文)は寛永13年(1626)に建てられ、天保14年(1843)に現在の平屋に改造された建物。徳川幕府の金庫として現存する唯一のもので、現代でいえば日本銀行大阪支店の大金庫のようなもの。
 建物は横5.9m、縦17.7mで外壁は漆喰(しっくい)の塗りこめ、下半分は瓦を重ねて張りつめた生子(なまこ)壁。入り口は厳重な錠前の付いた両開きの土戸、その内側に錠前付きの板戸と鉄格子戸の三重構造。板張りの床下には石畳が敷き詰められ、地下からの侵入を防いでおり、さすが幕府の大金庫と言える。もちろん昼夜を問わず見張りの役人が詰めていた。

金蔵

(写真は 金蔵)

床下の石畳

 金蔵の内部は大小2つの部屋がある。この金蔵には西国の幕府直轄領からの年貢金、長崎貿易や商人たちの運上金など、莫大な金銀が収められた。では、どのくらいの金銀が納入されたのだろうか。大阪府立中之島図書館にある大坂御金蔵金銀納方御勘定帳によると、元禄16年(1703)に金36万8000両、銀1万827貫、大判金48枚、銭754貫が入り、支出は金20万2300両、銀1236貫、大判金3枚で、残りがこの金蔵に蓄えられていた。
 これほどの金銀が詰め込まれていれば、腕利きの盗賊なら狙わずにはおかない。元文5年(1740)この厳重な造りと警戒の厳しい金蔵に忍び込んで、4000両を盗んだ御金蔵破りがいたと言うから、盗っ人の絶えないのは今も昔も変わりない。

(写真は 床下の石畳)


◇あ    し◇
四天王寺JR天王寺駅、地下鉄天王寺駅、近鉄南大阪線阿部野橋駅下車徒歩15分。 
地下鉄谷町線四天王寺夕陽ケ丘駅下車徒歩3分。
高津宮地下鉄谷町線谷町九丁目駅下車徒歩5分。 
難波宮跡、大阪歴史博物館地下鉄谷町線、中央線谷町四丁目駅下車徒歩5分。 
JR環状線森ノ宮駅下車徒歩10分。
源聖寺坂地下鉄谷町線谷町九丁目駅下車徒歩5分。 
口縄坂、愛染坂、円成院(遊行寺)地下鉄谷町線四天王寺夕陽ケ丘駅下車徒歩5分。 
銀山寺地下鉄谷町線谷町九丁目駅下車徒歩5分。 
三光神社JR環状線玉造駅下車徒歩5分。 
地下鉄長堀鶴見緑地線玉造駅下車徒歩5分。
円珠庵(鎌八幡)JR環状線玉造駅下車徒歩10分。 
地下鉄長堀鶴見緑地線玉造駅下車徒歩10分。
安居神社JR天王寺駅、地下鉄天王寺駅、近鉄南大阪線阿部野橋駅下車徒歩15分。 
空堀商店街、創房「心裸」、空堀レトロ 地下鉄谷町線、中央線谷町六丁目駅下車徒歩5分。 
大阪城地下鉄谷町線天満橋駅又は谷町四丁目駅、中央線森ノ宮駅又は谷町四丁目駅、長堀鶴見緑地線森ノ宮駅又は大阪ビジネスパーク駅下車。 
JR環状線森ノ宮駅又は大阪城公園駅、東西線大阪城北詰駅下車。
京阪電鉄天満橋駅下車。
◇問い合わせ先◇
大阪市役所観光課06−6208−8966 
大阪観光協会06−6635−3110 
大阪市文化協会06−6943−6833 
四天王寺06−6771−0066 
高津宮06−6762−1122 
円成院(遊行寺)06−6771−0924 
銀山寺06−6771−2702 
三光神社06−6761−0372 
円珠庵(鎌八幡)06−6761−3691 
安居神社06−6771−4932 
創房「心裸」06−6191−1973 
空堀レトロ06−6191−0100 
大阪城天守閣06−6941−3044 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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