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| 月〜金曜日 18時54分〜19時00分 | 
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| 奈良市・佐保路〜佐紀路の寺 | 
|  奈良市北部の東西に横たわる低い丘陵地帯の平城山(ならやま)の東部一帯が佐保、西部一帯が佐紀と呼ばれている。東大寺転害門(てんがいもん)から真っすぐ西に延びる道が、奈良時代の一条南大路、通称・佐保路で、その西の佐紀路へとつながっている。この佐保、佐紀路の沿道には古刹が点在し、北の平城山の麓には天皇陵が多い。 | 
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|  不退寺は花の寺としても知られ「南都花の古寺」とも呼ばれ、境内にレンギョウ、ツバキ、カキツバタ、ハギ、キク、モミジ、オミナエシなど四季折々の花が咲き競う。不退寺へはカメラ片手に寺を訪れる人も多く、参詣のかたわら花をバックに記念写真を撮っている。また寺には八橋絵皿や伊勢物語の写本など、業平ゆかりの品が多い。 |  | |||
| (写真は 業平格子(吹寄菱欄間)) | ||||
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|  光明皇后は病人を救う施薬院、孤児を養育する悲田院を建てるなど福祉にも務めており、その慈悲深いすがたが、本尊の観音像の艶やかで美しい姿に表れていると言う。ハンセン病患者を入浴させ、垢を流すために皇后が作った蒸し風呂の浴室「から風呂」の伝えに基づいて、江戸時代に作られた「から風呂」の遺構も残されている。皇后が護摩を焚いた後の灰で作ったと言われる土の子犬「守り犬」は、今も尼僧たちが作り続けており、安産のお守りとして人気がある。 |  | |||
| (写真は 古代ひな人形) | ||||
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|  海龍王寺境内から飛鳥時代末期の古式瓦が出土しており、この地に毘沙門天を本尊とした寺が古くからあったと見られている。毘沙門天は「戦をつかさどる仏」とか「財宝をつかさどる仏」「北の方角を守る仏」などとして知られていた。藤原不比等が邸宅を造った時、この寺院も邸宅の東北住みに取り込み、藤原一族が困難に打ち勝って繁栄し、鬼門の東北を守る仏として祀ったと考えられる。 |  | |||
| (写真は 五重小塔) | ||||
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|  四王堂には十一面観音立像、四天王像(いずれも国・重文)が安置されている。十一面観音像は正応2年(1289)亀山上皇の院宣によって京都・十一面堂から移されたもので、本格的な藤原時代の彫刻の長谷式十一面観音像である。四天王像が踏みつけている邪鬼は、創建当時から伝わる天平時代のものである。 |  | |||
| (写真は 本尊 釈迦如来立像) | ||||
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|  創建当時の本尊は定かでないが、現在の本尊は阿弥陀如来像(国・重文)で、平安時代後期の仏像様式の定朝様式を踏襲しており、下地の漆の上に金箔が貼られていたが、今は顔のあたりにその一部を残すのみとなっている。本堂西側の窓から光が射し込んだ時は、阿弥陀如来の来迎を思わせる。 |  | |||
| (写真は 本尊 阿弥陀如来坐像) | ||||
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