月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・木屋町通 

 京都市中京区二条通から南に下京区七条通まで高瀬川に沿った2.8kmの通りが木屋町通。高瀬川のせせらぎと東側の鴨川が、木屋町通に京都ならでは風情を添えている。通りには江戸時代から続く商店や料亭などの老舗や幕末の志士にまつわる史跡も多いが、若者向けの街への様変わりも始まっている通りでもある。


 
にぎわいの源・高瀬川  放送 5月8日(月)
 二条通から南へ木屋町通に沿って静かに流れる高瀬川。この川は慶長16年(1611)から足かけ3年かけて、時の豪商で土木技術者でもあった角倉了以によって開削された運河で、全長約10km。起点は二条通の現在の日本銀行京都支店の東側、終点は淀川に流れ込む宇治川の伏見港で京都〜伏見間の舟運に利用された。総工費は約7万5000両で、現在の貨幣価値に換算すると約150億円に相当する。
 高瀬川は川幅約7mで、水深は浅く約30cmほどだったので、物資や人の運搬にはもっぱら底の浅い高瀬舟が使われ、高瀬川の名はこの舟に由来している。

角倉了以顕彰碑

(写真は 角倉了以顕彰碑)

一之船入跡

 他国からの穀物、醤油、薪炭、材木などの諸物資が三十石船で淀川を遡り、伏見港で高瀬舟に積み替えられて高瀬川を遡って京の街へ運び込まれた。積荷を満載した長さ約13m、幅約2mの高瀬舟は、綱をつけて両岸から人力で引っ張られて高瀬川を遡った。
 木屋町は高瀬川東岸に沿って発生した町で、高瀬川なしには成立しなかった。この町の通りを木屋町通と言う。木屋町通は樵木(こりき)町通と言われていたが、材木屋が多かったところから江戸時代中期に現在の木屋町通と呼ばれるようになった。

(写真は 一之船入跡)

 日本銀行京都支店の南側に高瀬川の起源で高瀬舟の船着場だった高瀬川一之船入跡(国指定史跡)があり、復元された高瀬舟が荷物を積んで浮かんでいる。高瀬川には9カ所の船着場があったが、現在残っているのはこの一之船入跡だけとなった。
 京劇会館の北側の酢屋(すや)は、江戸時代は土佐藩出入りの材木商で、坂本龍馬はこの酢屋に身を寄せており、海援隊の京都本部でもあった。龍馬が寓居していた2階の部屋は現在「龍馬ギャラリー」となっており、龍馬に関する資料の展示や龍馬関係のイベント会場などに使用されている。

酢屋

(写真は 酢屋)


 
高瀬川と勤皇の志士  放送 5月9日(火)
 木屋町は幕末には勤皇の志士たちが多く潜居し、新撰組など幕府側との争いが絶えず、多くの血が流された。三条あたりを歩けば志士たちの遭難碑などの史跡が散見できる。志士たちが要人の暗殺、御所への放火などを企てていたとして、新撰組に襲撃をされた池田屋騒動の地には、今ひっそりと石碑が立っている。
 ほかに佐久間象山・大村益次郎遭難碑や桂小五郎寓居跡碑、吉村寅太郎や武市半平太寓居跡碑、坂本龍馬と中岡慎太郎が襲われて命を落とした河原町蛸薬師の醤油業・近江屋の遭難地碑などがすぐ目につく。

土佐藩邸跡

(写真は 土佐藩邸跡)

土佐稲荷岬神社

 三条通と四条通の中間の旧立誠小学校のあたりに、江戸時代初めから土佐藩の藩邸が置かれていた。藩邸は高瀬川に面して門が開かれ、川には土佐橋が架かっていた。
 そのすぐ近くの土佐稲荷・岬神社は、初め鴨川の中洲に祠があったが、江戸時代初期に土佐藩邸内に遷座されて、土佐稲荷・岬神社と呼ばれるようになった。この神社は土佐藩邸の人たちに崇められており、幕末の志士・坂本龍馬らもよく参拝していたと言う。近隣の人たちにも崇敬者が多かったので、藩邸内を通り抜けて参詣を許すなどの特別の措置がとられていた。

(写真は 土佐稲荷岬神社)

 四条通から少し下がった高瀬川に架かる団栗橋南の「鳥彌三(とりやさ)」は、天明8年(1788)創業の水だきの老舗で、坂本龍馬もよく通い高瀬川に面した部屋を好んで使ったと言う。
 「熱いものは熱く、冷たいものはあくまでも冷たく」と言うのが、創業以来の鳥彌三の身上であり、もてなしの心だと言う。自慢の水炊きは鶏ガラを煮つめて作った特製の白スープに、油抜きしたかしわ(鶏肉)を柔らかく炊き上げる。付け合わせには新鮮な京野菜やゆば、シイタケなどが添えら、鳥彌三特製のポン酢でいただく。

鳥彌三

(写真は 鳥彌三)


 
瑞泉寺  放送 5月10日(水)
 三条小橋のたもとの瑞泉寺は慶長16年(1611)角倉了以が、高瀬川開削に際して、豊臣秀次とその一族の霊を弔うために建立した。
 その16年前の文禄4年(1595)太閤秀吉に疎まれた甥の関白秀次は、高野山で自刃させられた。次いで秀次の5人の子供と34人の側室たちが、三条河原の刑場に引き出され、罪なきこの39人は情容赦なく惨殺され、全ての遺骸は河原に掘られた大穴に投げ込まれ、その上に大きな塚が築かれた。

秀次公絵縁起

(写真は 秀次公絵縁起)

秀次公一族墓所

 角倉了以は高瀬川開削の折、この塚に参って遺族の霊の冥福を祈ろうとしたが、塚は鴨川の洪水などで壊れ、雑草に埋もれて荒廃していた。秀次一族の悲劇に同情していた了以は、一族の霊を弔うために寺の建立を決意、浄土宗西山派の僧・立空桂叔和尚を開山として、塚のあった位置に慈舟山瑞泉寺を建立した。
 山号は高瀬川を往来する舟に因んで慈舟山とし、寺号は秀次の法名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から取った。建立から約70年後に角倉家から寄進を受け、本堂をはじめ現在の規模に近い堂宇が完成した。

(写真は 秀次公一族墓所)

 境内の秀次一族の墓所には5人の子と側室34人、秀次に殉じて自刃した家臣10人、合わせて49基の五輪塔が立ち、中央に秀次の石の首びつが安置されている。この墓所には戦国の世の犠牲になった大勢の女性の霊を慰めるように、四季の花が絶えることがない。
 墓所のすぐそばの地蔵堂には、祇園町に大雲院を開山した貞安上人が処刑場に運び、処刑される一人ひとりにその前で引導を授けたとされる引導地蔵像が安置されている。またこの堂内には一族、家臣49人の姿を写した極彩色の京人形も並んでいる。

地蔵堂

(写真は 地蔵堂)


 
川べりの風情  放送 5月11日(木)
 京の街へ生活物資を積んだ高瀬舟が往来した高瀬川に沿う木屋町には、初めは材木や薪炭を商う店が建ち、次いで穀物商、そして油屋、酒屋、醤油屋などが店を連ねていった。発展を続けた木屋町は、江戸時代中期には二条通から三条通まで上木屋町、三条通から四条通までを中木屋町、四条通から五条通までを下木屋町と上、中、下に分けて呼ぶようになった。
 こうした商店の商いが栄えるにつれ、江戸時代中期ごろから木屋町通を往き来する旅人や商人を目当てに料理店や旅籠(はたご)、遊興、娯楽などの店が増え歓楽街へと変貌していった。

高瀬川

(写真は 高瀬川)

木屋町通

 寛文年間1661〜73)に鴨川の河原が埋め立てられると、三条通から四条通の高瀬川と鴨川の間に茶屋や旅籠が建ち並び、これが遊廓となるものもあって先斗町が生まれた。今は夏の鴨川の川床が有名である。
 木屋町の商人たちのために洒落た商取引の場も必要となり、それに応えるように料理屋や料亭が繁盛するようになった。高瀬川の流れに生簀(いけす)を設け、生きた魚料理を売り物にした川魚専門の料理店が軒を並べ、生洲(いけす)町と言う町名も生まれた。元禄年間(1688〜1704)になると、遊廓などの色街が繁盛するようになり歓楽街への色彩を一層強くしたいった。

(写真は 木屋町通)

 高瀬川の開削以後、物流、運輸の町だった木屋町通だが、大正時代に高瀬川の舟運が完全に終わった時から新しい歓楽街として生まれ変わった。今は若者向けの店も増え、夜遅くまで歓声があがる若者の街へと変わりつつある。だがライトアップされた夜桜が美しい季節には、昔ながらの木屋町通の風情が醸し出され、花筏が浮かぶ高瀬川は京ならではの情緒ある光景と言える。
 現在の木屋町通は二条通から七条通まで延びているが、五条から七条にかけての川べりでは、お茶屋が風情あるたたずまいを見せ、四条から五条にかけての老舗料亭、旅館も健在である。

cafe&dinner mix

(写真は cafe&dinner mix)


 
ノーベル賞の原点  放送 5月12日(金)
 木屋町二条、高瀬川の起点のすぐ北の町家風の建物は島津創業記念資料館。島津製作所の創業者・島津源蔵は仏具職の次男に生まれたが、これからの新時代は科学立国でなければならないとの理想に燃え、家業を離れ明治8年(1875)に教育用理化学器械製作所を創業、未知の分野に果敢な挑戦を続けた。
 この創業の地の家屋を修復、改装した島津創業記念資料館は、医療用X線装置をはじめとする同社創業以来130年間に製造されたおびただしい数の機器や文献、資料を展示するため、島津製作所創業100周年の昭和50年(1975)に開設された。

島津創業記念資料館

(写真は 島津創業記念資料館)

有人水素気球飛場(明治10年)

 源蔵は創業から2年後の明治10年(1877)に、日本で初めて有人水素気球の飛揚に成功し、一躍その名が全国に知られるようになった。新しい機器の開発に情熱を注いでいた源蔵は55歳の若さで急逝、その遺志は2代目・源蔵に引き継がれた。
 島津製作所はこの2代目・源蔵の時代に大きく飛躍した。2代目・源蔵は15歳の時に「感応起電機」を完成させるなど、その才能には非凡なものがあった。彼は次々に新しい機器を発明・考案し、昭和5年(1930)に日本10大発明家に選ばれた。

(写真は 有人水素気球飛場(明治10年))

 ドイツの物理学者・レントゲンによってX線が発見された1895年の翌年、島津製作所はX線写真の撮影に成功した。これが契機となって医療用X線装置の開発に取り組むようになり、昭和9年(1934)国産のX線管を完成し「総合X線装置メーカー・レントゲンの島津」の地位を確立していった。
 このほか世界初とか、日本初と言った機器類の発明品が数多くあり、これらの機器が島津創業記念資料館に並んでいる。島津製作所のバックボーンとなっているチャレンジ精神が、遂に平成14年(2002)の田中耕一さんのノーベル化学賞受賞となって結実したと言える。

X線装置「ダイアナ号」

(写真は X線装置「ダイアナ号」)


◇あ    し◇
高瀬川一之船入跡、
酢屋(すや)龍馬ギャラリー、
島津創業記念資料館
地下鉄東西線市役所前下車徒歩5分。
京都市バス市役所前下車徒歩5分。
京阪電鉄三条駅下車徒歩10分。
土佐藩邸跡、
鳥彌三(とりやさ)、
瑞泉寺、cafe&dinner mix  
阪急電鉄京都線河原町駅下車徒歩5分。
京都市バス四条河原町下車徒歩5分。
京阪電鉄四条駅下車徒歩10分。
◇問い合わせ先◇
酢屋(すや)龍馬ギャラリー075−211−7700 
鳥彌三(とりやさ)075−351−0555 
瑞泉寺075−221−5741 
cafe&dinner  mix075−352−4300 
島津創業記念資料館075−255−0980 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
   倶楽部入会の資料をご希望の方は、
 ハガキにあなたのご住所、お名前を明記の上、
          郵便番号 530−6691
          大阪市北区中之島センタービル内郵便局私書箱19号
                  「 A係 」
へお送り下さい。
   歴史街道倶楽部の概要を解説したパンフレットと申込み用紙をご送付いたします。
       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会