診察室
診察日:2004年11月2日
テーマ: 『本当は怖いむせ返り〜静かなる悪魔〜』
『本当は怖いかすり傷〜悪魔の待ち伏せ〜』

『本当は怖いむせ返り〜静かなる悪魔〜』

A・Sさん(男性)/70歳(当時) 会社経営
東京の下町で、工作機械の小さな工場を経営するA・Sさん。
ある日、味噌汁を飲もうとして突然むせ返ってしまいました。
その時は、急いで飲み込んだためだと気にもかけていなかったのですが、その後、さらなる異変が襲います。
(1)むせ返り
(2)力が入らない
(3)倦怠感
(4)返事をする気力もない
(5)失禁
(6)爪が青黒くなる
(7)唇が青黒くなる
誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)
<なぜ、むせ返りから誤嚥性肺炎に?>
「誤嚥性肺炎」とは口の中の細菌が肺に入ってしまい、肺炎になる恐ろしい病。A・Sさんの場合、それは肺炎球菌という細菌でした。空気中に存在する肺炎球菌は、呼吸とともに吸い込まれ、口の粘膜にとりつきます。しかし通常は唾液に含まれる酵素が殺菌してしまうため、肺炎球菌は口の中には残りません。ところがA・Sさんの場合、高齢のため唾液の酵素が少なく、殺菌力が低下。肺炎球菌が生き残ってしまったのです。では、この肺炎球菌、一体いつ肺の中に侵入したのか?その魔の瞬間こそ、あの「むせ返り」でした。健康な人は、口の中に食べ物が入ると、脳の指令により喉頭蓋(こうとうがい)というフタが気管の入り口を塞ぎ、誤って食物が入ることを防いでいます。しかしA・Sさんの場合、脳の指令が喉頭蓋に正しく伝わっていなかったのです。原因は高齢になると多くの人に起きる動脈硬化。それが脳の細い血管で起きていました。動脈硬化を起こした血管は時間が経つにつれ徐々に詰まっていきますが、A・Sさんの脳ではそれがあちこちで起きていました。そのため脳の指令が喉頭蓋に正しく伝わらなくなっていたのです。その結果、気管の入り口にうまくフタをすることが出来ず、食べ物が誤って流れ込む「誤嚥」という現象を起こしてしまいました。そして起きたのが、あの「むせ返り」。「むせ返り」は間違って気管に入った異物を吐き出すために必要な反応ですが、A・Sさんは高齢のため、吐き出す力が弱く、味噌汁が気管の奥へ流れ込んでしまったのです。入ったのは口を通る際に肺炎球菌をたっぷり含んでしまった味噌汁。しかもこの時、A・Sさんは仕事が忙しく、身体に無理を重ね、抵抗力が弱まっていました。そのため肺に入りこんだ肺炎球菌はたちまち増殖、炎症を起こした結果、様々な症状を引き起こしたのです。最初力が入らなくなり、その後、ひどい倦怠感に襲われたのは、肺が炎症を起こし、血液に酸素を十分送り込めなくなったのが原因。全身の筋肉が酸素不足に陥り、運動能力が低下してしまったのです。さらに妻の問いかけに返事をする気力もなくなり、ついには失禁してしまったのは、脳を流れる血液の酸素が不足し、脳細胞の活動が低下していたせいでした。肺炎にも関わらず、高い熱や咳が出なかったのは、年をとって発熱などの体の反応が鈍くなっていたため。事実この病気にかかった高齢者の3人に一人は高熱や咳といった症状が出ていません。そのため、病気のサインを見落としてしまうことが多いのです。その結果、A・Sさんの爪や唇は青黒く変色してしまいました。これは血液中の酸素が異常に減り、血液の色が黒ずんだために起きた現象。ここまで来ると、もはや肺は機能停止寸前。ついには呼吸不全を起こし、帰らぬ人となってしまったのです。
現在、肺炎で死亡する人は、年間およそ9万5000人。うち96%が65歳以上の高齢者であり、そのほとんどが誤嚥性肺炎と言われています。
『本当は怖いかすり傷〜悪魔の待ち伏せ〜』
Y・Hさん(女性)/68歳(当時) 無職
夫を亡くし長男夫婦と暮らし始めてから、嫁との間でぎくしゃくした関係が続いていたY・Hさん。植木の手入れの最中、あわてて割れた鉢植えを片付けた際、腕にかすり傷をおってしまいました。
その後、傷口は治りますが、様々な異変が起こり始めます。
(1)アゴが疲れる
(2)味がわからない
(3)肩のこり 首の張り
(4)呼吸しづらい
(5)口がひきつる
(6)全身けいれん
破傷風(はしょうふう)
<なぜ、かすり傷から破傷風に?>
「破傷風」とは、傷口から侵入した破傷風菌が原因で身体中の神経が冒される病気。50年前までは年間1000人以上が死亡していた恐ろしい病です。その後、衛生環境の改善やワクチンの接種で患者数は激減しましたが、今でも毎年およそ100人が発症、その死亡率は20%近くある恐ろしい病です。では一体いつY・Hさんの身体に破傷風菌が入り込んだのでしょうか?魔の瞬間は植木の手入れの際に、転んだ時。この時腕に出来たかすり傷に、ほんのわずかな土の粒が付着。実はこの土に破傷風菌がついていたのです。破傷風菌はどんな土の中にも50%の確率で存在している細菌。屋外でケガをすると傷口から入ってしまうことがよくあります。たとえ破傷風菌が入っても通常の免疫力があれば発病することはありません。しかし、Y・Hさんは高齢なことに加え、環境の変化や家庭で受けるストレスなどによって免疫力が極端に低下していました。そのため白血球の力が弱く、破傷風菌を全て退治することが出来なかったのです。そして高齢であることがさらなる災いを招きました。ケガで壊れてしまった血管がなかなか再生しなかったのです。そのため傷口には酸素が行き渡らなくなり、無酸素状態に。それが引き金でした。実は破傷風菌は無酸素状態になると突然増殖する性質があり、その時、猛毒の神経毒素を生み出してしまうのです。この毒素が最初に襲いかかるのが、アゴの神経。Y・Hさんが最初に感じたアゴの疲れや味噌汁の味がわからなかったのは、アゴや舌の神経が毒素に冒されていたことが原因。そしていつにも増して感じた肩のコリと首の張り、さらに呼吸がしづらくなったのも、増殖した毒素が、肩や首、さらには呼吸筋にまで入り込み、筋肉を硬直させてしまったため。あの異様な口の引きつりも、増え続けた毒素がアゴの筋肉を麻痺させてしまったことが原因でした。そしてついに最悪の瞬間。破傷風菌の毒素に冒された神経は、音や光の刺激に過剰に反応する性質があります。不運にも、口が引きつった姑の姿を見た嫁の悲鳴が、全身けいれんを引き起こしてしまったのです。
小さなかすり傷からも発症する破傷風。その患者の7割が免疫力の低下した60歳以上の高齢者です。