月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・平安京  

 京都は桓武天皇が平安京の都を造営してから明治維新まで、約1000年間にわたって都が置かれ、政治、文化の中心として栄えた。今も京都のいたる所に王朝文化の雅さが残っており、日本を代表する古都として世界に知られている。歴史街道2003年の幕開けに今に残る平安京の名残を訪ねた。


 
神泉苑  放送 1月6日(月)
 桓武天皇は延暦13年(794)長岡京から唐の長安を手本に造った新都・平安京へ遷都した。平安京の入口、羅城門は東寺の西方にあったが、そこから朱雀大路が北へ延びその北端が平安宮の大内裏だった。現在は千本丸太町の児童公園内に大極殿遺跡の石碑が立つのみで、遷都当時の平安宮の面影をしのぶものはなく、平安京のメインストリートの朱雀大路も千本通と名を変えている。
 大内裏の南東に隣接して大きな池を中心に作られた庭園が神泉苑で、今も平安京の雰囲気を漂わせている。神泉苑は昔からあった大池と周囲の林をうまく利用し、東西200m、南北400mの禁苑(皇居の庭)が作られた。大池の中に島を築き周囲には豪華な建物を建て、天皇はここへ行幸して朝廷人たちと歌を作ったり、舟遊びや遊宴を開いて楽しんだ。
現在の規模は当初の15分の1になっているが、桓武天皇が造営した当初の平安京の姿を今に残しているのは、この神泉苑と東寺のみである。

大極殿跡

(写真は 大極殿跡)

神泉苑

 神泉苑は弘法大師が天長元年(826)雨乞いの祈祷を行った場所としても知られており、この時、弘法大師が勧請した善女龍王が池の中央に祭られている。平安時代中期以後は宗教的な修法を行う場所となり、池の水は下流の田んぼのかんがい用水にも利用された。
 平安時代末期ごろからこの神泉苑は次第に衰微し始め、度重なる戦乱でますます荒廃して応仁の乱(1467)以後は、庭の一部が田畑や荒地となったり人家が軒を連ねるところも出てきた。江戸時代に入り、徳川家康が二条城を築城する際、神泉苑の北側4分の1を削り取り、池の水も城の堀に利用した。その後も京都が都市化するにつれて縮小され現在の姿になった。神泉苑の前を東西に延びる御池通は、神泉苑の池にちなんでつけられた名称である。

(写真は 神泉苑)


 
京都御所  放送 1月7日(火)
 桓武天皇が造営した平安京の大内裏は幾度か焼失と再建を繰り返した。当初の大内裏から約2km東の現在の京都御所は南北朝時代から天皇が政務や生活をする皇居になった。
延暦13年(794)から明治2年(1869)まで1075年間、京都が日本の都だった時代の後半、五百数十年間は現在の京都御所が皇居になった。現在の京都御所は当初の大内裏があったころの里内裏のひとつ、土御門東洞院殿だった。元弘元年(1331)光厳天皇がここで即位されて以来、この里内裏が皇居になった。
 五筋の白線の入った築地塀に囲まれた東西249m、南北448mの御所内には多くの御殿があり、即位礼などの儀式を行う正殿が紫宸殿である。

小御所

(写真は 小御所)

高御座

 紫宸殿内には即位礼の時に天皇が着座される高御座(たかみくら)と皇后が着座される御帳台(みちょうだい)が置かれている。皇居が東京に移ってからも明治天皇、大正天皇、昭和天皇の即位礼はこの紫宸殿で行われ、平成天皇の即位礼は、高御座と御帳台を東京へ運んで行われた。現在の紫宸殿は安政2年(1855)に建てられた木造高床式寝殿造で、ほかの建物もほとんど幕末に建てられたものだが、平安時代の優雅な宮廷の面影を残している。
 紫宸殿の北西に建つ清涼殿は天皇が日常の住まいとして使っていたところで、内部はふすまなどで仕切られた部屋が多い。京都御所の周囲には宮邸や公家の屋敷が建ち並んでいたが、東京遷都以後、ほとんど空き家になった。これらの屋敷を取り壊し、現在の京都御苑として整備された。

(写真は 高御座)


 
平安神宮  放送 1月8日(水)
 平安遷都1100年にあたる明治28年(1895)平安京の生みの親である桓武天皇を祭神として創建されたのが平安神宮で京都の祖神と言える。幕末の混乱期に京都で一生を終えた孝明天皇が、昭和15年(1940)に合わせて祭られ、平安京の最初の天皇と最後の天皇を祭った神社となった。
 丹塗りの色鮮やかな社殿は平安京大内裏の朝堂院を8分の5に縮小復元したもので、外拝殿は大極殿、神門は応天門を模して造られた。ほかに創建当時の建築物は蒼龍門、白虎楼がある。屋根の青い碧瓦、庭の白砂、丹塗りの建物が鮮やかんコントラスを描き、今も平安の都の華やかさと雅を感じさせてくれる。

應天門

(写真は 應天門)

泰平閣

 神域を囲むように東、中、西、南の四つ回遊式の庭が広がる約3万平方mの神苑は、明治時代の代表的な庭園。春はサクラ、夏はカキツバタ、ハナショウブ、秋はハギ、冬の雪景色と京都の四季折々の風情を見せてくれる。その中でも約200本の桜が花をつける春の神苑はは華やかで、特に南神苑の紅枝垂桜の美しさは別格で、池の水面にその姿を映す紅枝垂れ桜に神苑を訪れた人たちはうっとりと見とれる。谷崎潤一郎もその作品「細雪」の中でこの紅枝垂桜の見事さを描いている。また南神苑には源氏物語などに登場する草木を集めた「平安の苑」がある。
毎年10月22日の平安神宮の時代祭は、平安時代から明治時代にかけての時代絵巻を繰り広げる京都三大祭のひとつ。京都御所の建礼門を出発し京都の市街地を3時間にわたって練り歩き、平安神宮神門に到着する。この時代祭に使う衣装が境内の時代風俗館に陳列してある。

(写真は 泰平閣)


 
睛明神社  放送 1月9日(木)
 桓武天皇の平安遷都は怨霊から逃れるためであったが、その平安京もやはり怨霊や鬼、妖怪が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する百鬼夜行の都だった。源頼光の家臣・渡辺綱が鬼女に出会い、片腕を切り落としたとの伝説が残る一条戻橋あたりは、恐ろしい所と京の人びとに恐れられていた。平安京をこうした魑魅魍魎(ちみもうりょう)から守ったのが、一条戻橋のすぐそばに住む陰陽師・安倍晴明。
 陰陽道は現代の星占いで、晴明は6代の天皇に仕え、一条天皇から天文陰陽博士の号を贈られている。安倍晴明は実在した人物だが、その生涯は謎に包まれいろいろな伝説が残っており、その中で最も良く知られているのが出生にまつわるものである。

安倍晴明像(晴明神社蔵)

(写真は 安倍晴明像(晴明神社蔵))

晴明墓所

 晴明の母は和泉国(大阪府)の信太の森の老キツネであると言うものだ。老キツネは遊女に化けて旅をし、常陸国の筑波山麓猫島で安倍仲丸(遣唐使・安倍仲麻呂)の子孫と出会い、一緒に暮らして晴明を生んだ。しかし、晴明が3歳の時、キツネの姿を見られ「恋しくば 訪ね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」との歌を残して姿を消した。京に出てきた晴明が信太の森を訪ね母と再会し、母が信太森葛葉稲荷神社の信太大明神だったことを知る。
 晴明は京で陰陽師の賀茂忠行から陰陽道を習ったが、幼少のころから陰陽師としての素質があり、その才能を見込んで賀茂は陰陽道の奥義を授けた。清明神社は寛弘4年(1007)一条天皇の勅旨により晴明邸に創建された。今は連日若い女性が次々と詰めかけ、占いや願いごとをかなえてくれるお守り、絵馬、勾玉つきストラップなど、星形の晴明桔梗の紋がついた晴明グッズなどを買い求めている。

(写真は 晴明墓所)


 
二条城  放送 1月10日(金)
 二条城は徳川家康が関ヶ原の戦いに勝って天下を取り、江戸に幕府を開いた慶長8年(1603)京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として、平安京の史跡である神泉苑を削って現在の二の丸御殿部分を造営した。その後、3代将軍家光が寛永3年(1626)伏見城の建物を移築すなどして本丸、天守、二の丸などを完成させた。豊臣秀吉が伏見城に残した遺構と家康が建築した御殿、家光が制作させた絵画や彫刻など桃山時代の建築、芸術様式の数々をこの城で見ることができる。
 本丸の5層天守閣は寛延3年(1750)落雷で焼失、さらに本丸御殿も天明8年(1788)の大火で焼失した。現在の二条城は京都御所から明治27年(1894)に移築した旧桂宮御殿の本丸御殿(国・重文)、二の丸御殿(国宝)の2つの御殿と、二の丸庭園(国・特別名勝)、清流園の2つの庭園からなっており、伏見城から移した唐門は二の丸御殿の正門にあたる。

二の丸御殿

(写真は 二の丸御殿)

二の丸庭園

 この壮麗な二条城は徳川の威勢を天下に示し、大坂冬の陣、大坂夏の陣では徳川方の軍議が開かれ、軍事的にも重要な役割を果たした。だが、慶応3年(1867)徳川最後の将軍・慶喜が諸大名を集め大政奉還を発表し、265年の徳川幕府の歴史に幕を下ろした舞台が、この二条城だったことは奇しき因縁だろうか。
 二の丸御殿には33もの部屋があり、畳の数は800畳。各部屋には狩野派の絵師によるふすま絵、欄間の彫刻、飾り金具など、その内部は豪華を極めている。二の丸庭園は池の中央に蓬莱島、その左右に鶴亀の島を配した池泉回遊式庭園で、さまざまな石組みに表れた力強さは豪壮な城郭建築によく調和しており、小堀遠州の作と伝えられている。清流園は江戸時代初期の豪商・角倉了以の屋敷から建物の一部と庭石約800個を譲り受け、さらに全国から集めた銘石300個を加え、茶室などを配して昭和40年(1965)に完成した庭である。

(写真は 二の丸庭園)


◇あ    し◇
神泉苑JR山陰線二条駅下車徒歩8分。
地下鉄東西線二条城前駅、京都市バス神泉苑前下車。
京都御所地下鉄烏丸線今出川駅下車、京都市バス烏丸今出川
又は烏丸一条下車。
平安神宮地下鉄東西線東山駅下車徒歩10分。
京都市バス京都会館・美術館前下車。
京阪電鉄三条駅又は丸太町駅下車徒歩15分。
晴明神社京都市バス堀川今出川下車徒歩5分、
一条戻り橋下車徒歩5分。 
二条城JR山陰線二条駅下車徒歩5分。
地下鉄東西線二条城前下車、京都市バス二条城前下車。
◇問い合わせ先◇
京都市観光協会075−752−0225 
神泉苑075−821−1466 
宮内庁京都事務所
(京都御所)
075−211−1215 
平安神宮075−761−0221 
晴明神社075−441−6460 
元離宮二条城
事務所
075−841−0096

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
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