月〜金曜日 21時48分〜21時54分


奈良の世界文化遺産 

 奈良県では平成5年(1993)に法隆寺が世界文化遺産に登録され、続いて平 成10年(1998)に「古都奈良の文化財」のうち東大寺、興福寺、春日大社、元 興寺、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡、春日山原始林の8件の社寺、自然が世界文化遺 産に登録された。前回の京都に続いて古都奈良の世界文化遺産のうち5社寺を紹介す る。 


 
東大寺  放送 1月22日(月)
南大門(国宝) 天平時代、凶作による飢饉、悪疫の流行、政情不安に悩まされていた聖武天皇は、国家安泰を願い天平15年(743)に、大仏造立の詔(みことのり)を発した。
 正式には盧遮那仏(るしゃなぶつ)と呼ばれる大仏は、最初は近江で鋳造を始めたが、天平17年(745)奈良に造仏所を移して本格的な鋳造に着手した。巨大な大仏は下から上に向かい8回に分けて銅と錫の合金を流し込む方法が取られた。約4年の歳月をかけ天平勝宝元年(749)に完成、3年後の天平勝宝4年(752)に開眼供養会が行われ、聖武上皇、孝謙天皇も参列した。
 国宝のこの大仏は世界最大の金銅仏で、高さ(座高)15m、顔の長さ5.33m、耳の長さ2.54m、掌の長さ3m、中指は1.3mと言うビックな仏さま。鋳造に使われた銅は499t、錫8.5t、鍍金(ときん)に使われた金は440kg、水銀2.5tと言われている。
(写真は 南大門(国宝))

二月堂(国宝) 本尊の盧遮那仏(大仏)をまつっているので、大仏殿(国宝)と呼ばれているが正式には金堂。天平勝宝4年(752)の大仏開眼供養会に合わせて完成したが、平安時代末期の治承4年(1180)の平重衡の南都焼き討ちによって焼失した。朝廷や鎌倉幕府・源頼朝らの協力によって建久6年(1195)に再建された。この時、東大寺に多くの鎌倉美術を生みだした。その代表的なものとして南大門(国宝)や南大門に立っていて仁王さんと親しく呼ばれている金剛力士像(国宝)などである。
 再建された大仏殿は再び戦乱に巻き込まれ焼失する。戦国時代の永禄10年(1567)、三好、松永の乱で松永軍の焼き討ちにあい焼け落ちた。戦国時代の混乱期で大仏殿の再建は見通しが立たず、大仏は130年近くも雨ざらしになっていた。江戸時代の元禄年間になってようやく再建の動きが出て、徳川綱吉らの援助を受け宝永6年(1709)に完成したのが現在の大仏殿。創建当初の大仏殿に比べると規模はかなり縮小されたが、高さ48mで世界最大の木造建造物としてその威容を誇っている。
 約35万平方mの広い東大寺境内には数多くの建物が建ち並んでいる。これらの建物や仏像、書画の中には国宝に指定されているものが多く、国の重要文化財にいたってはかなりの数にのぼり、世界文化遺産にふさわしい日本を代表する寺院と言える。
(写真は 二月堂(国宝))


 
元興寺  放送 1月23日(火)
極楽堂(曼荼羅堂・国宝) 元興寺の前身は、6世紀中ごろ日本に仏教が伝来、崇仏派の蘇我馬子が崇峻天皇元年(588)飛鳥の地に日本で初めての仏教寺院として建立した法興寺(飛鳥寺)で、和銅3年(710)の平城遷都8年後の養老2年(718)に、飛鳥の地から移築され寺名を元興寺と改めた。当時は広大な寺域に金堂、講堂、五重塔、僧坊が建ち並び、南都7大寺のひとつとして栄えた。
 屋根瓦も飛鳥の法興寺から運んた。丸瓦を重ねてふく行基ぶきと言われる独特の屋根になっている。その名残は元興寺極楽坊本堂(国宝)と禅室(国宝)の屋根に見ることができる。この2棟の建物以外は、室町時代の宝徳3年(1451)の大和の徳政一揆で焼失、残っていた五重塔、観音堂なども江戸時代に焼失してしまった。焼け跡に民家が進出し、元興寺は町の中に埋もれてしまう形になり、南都7大寺の威容は見る影も無くなった。今は五重塔跡の礎石や基 壇、西小塔院跡などが残り、往時をしのぶことができる。
(写真は 極楽堂(曼荼羅堂・国宝))

五重小塔(国宝) 元興寺極楽坊は元は僧坊のひとつだった。奈良時代終わりごろ、浄土信仰に心を寄せていた元興寺の僧・智光が表した智光曼荼羅(ちこうまんだら)を本尊として安置していたので、極楽坊、極楽堂、曼荼羅堂などと呼ばれるようになった。
 禅室(国宝)も元興寺創建当時の僧坊のひとつで念仏道場だった。鎌倉時代に改築されており鎌倉時代の僧坊の遺構をよく残している貴重な建物とされている。
 元興寺収蔵庫の五重小塔(国宝)は、高さわずか5.6mで製作年代ははっきりしないが、様式や手法から奈良時代と推定されている。元興寺五重塔の10分の1の大きさで五重塔の模型ではないかと言われているが、西小塔堂の本尊の西塔そのものではないかとの見方もある。
(写真は 五重小塔(国宝))


 
春日大社  放送 1月24日(水)
中門(重文) 春日大社は和銅3年(710)の平城遷都の際に藤原不比等が氏神の武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祭ったのが起こりと伝えられている。また一説には奈良時代後期の神護景雲2年(768)に藤原永手が、常陸国の鹿島神宮から武甕槌命、下総国の香取神宮から軽津主命(ふつぬしのみこと)、河内国の枚岡神社から天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめかみ)の4神を招いて祭り、氏社としたのが春日大社だとも言われている。
 平安時代に入り藤原氏が、天皇の外戚となるなど朝廷との結びつきが強まり、強大な権力を持つようになるにつれ、春日大社も現在のような形を整え隆盛を極めた。天皇の行幸も多くなり貴族の春日詣も盛んになった。国宝の本殿は東から同じ建築様式の第1殿(武甕槌命)第2殿(軽津主命)第3殿(天児屋根命)第4殿(比売神)の4棟が並んでいる。この建築様式は春日造と言われるもので、従来の神社建築にないものがあり仏教建築の影響を受けている。
(写真は 中門(重文))

直会(中旬の献) 参道脇の約2000基の石灯ろうや社殿や回廊の約1000基の釣灯ろうは、武家や商人、庶民から寄進されたもので、根強い春日信仰を示すものだ。節分と8月15日の中元に、3000基全部の灯ろうに灯がともされる「春日万灯ろう」は有名だ。
 春日大社に対する信仰が篤かった天皇、貴族、武家から奉納された神宝類や武具、絵巻、絵画、工芸品などが多く保存されており、平安の正倉院とも言われている。国宝、重要文化財に指定されたものだけでも520点にのぼり、宝物館で年4回、テーマを変えて特別展が開かれている。
 大和路に師走を告げる「春日若宮おん祭」は、春日大社の祭礼の中でも最大のもので、古都奈良に時代絵巻の行列を繰り広げる。
(写真は 直会(中旬の献))


 
薬師寺  放送 1月25日(木)
薬師如来像(国宝) 奈良・西ノ京に東西ふたつの三重塔がそびえる薬師寺は、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒(へいゆ)を祈願して藤原京に造営を初め、天皇の死後、その遺志を継いで持統天皇が持統11年(697)に完成させた。平城遷都にともなって飛鳥の諸大寺が奈良へ移ったのと同じように、養老2年(718)薬師寺も現在地に移転した。この移転に関しては、藤原京から全伽藍(がらん)や仏像をそっくり移したとする説と、建物や仏像は新たに造立したとの説があり、いまだにはっきりしていない。
 南都7大寺のひとつの薬師寺は、南大門から見ると東西に三重塔、中央に中門、金堂、講堂が一直線に並び、中門と講堂を結ぶ回廊が周囲で囲む薬師寺式伽藍配置を持つ大寺だったが、数度に及ぶ火災で堂塔は焼失、創建以来の建物は国宝の東塔だけとなってしまった。
(写真は 薬師如来像(国宝))

東塔(国宝) 天平2年(730)に建立された創建当寺の姿を伝える東塔は、アメリカの美術研究家のフェノロサが「凍れる音楽」と評したように美しい三重塔として知られている。各層の屋根の下に裳階(もこし)がついているので、一見すると六重の塔のように見える。塔頂の相輪部の水煙には、飛天の透かし彫りが施されており、西域の文化がシルクロードを通じて奈良に伝わったことを示している。この水煙の実物大複製が東院堂におかれている。
 焼失して姿を消していた西塔は昭和56年(1981)に再建され、西ノ京に両塔の姿がよみがえった。仮金堂も昭和51年(1976)に再建され、青丹(あおに) の色も鮮やかによみがえった。新しい金堂には白鳳期の傑作といわれる金銅製の薬師如来像、両脇に日光、月光菩薩像が安置されている。薬師如来像の台座にはギリシャの葡萄(ぶどう)唐草文、インドの福神像、中国の四神の青竜、白虎、朱雀、玄武、ペルシャ(イラン)の蓮華文などが浮き彫りにされており、シルクロードの終着地・ 奈良の地で白鳳文化に国際色を加えた。
(写真は 東塔(国宝))


 
興福寺  放送 1月26日(金)
北円堂(国宝) 藤原氏の氏寺として隆盛を極めた興福寺は、平安時代には春日大社も権力下に置く南都七大寺の中でも最大の力を持つ寺だった。
 この興福寺の前身は飛鳥時代に藤原鎌足が大化改新の成就を祈願して釈迦三尊像を造ったが、安置する寺を創建しないうちに没した。夫人の鏡女王(かがみのおおきみ)が京都・山科に山階(やましな)寺を創建した。その後、都が飛鳥に移され山階寺も飛鳥の厩坂(うまやさか)に移され厩坂寺となった。さらに平城遷都にともなって鎌足の子・不比等が現在地に再度移し、寺名も興福寺と改めた。不比等は最初に金堂(中金堂)を建立して鎌足がつくった釈迦三尊像を安置した。文武天皇の夫人になった不比等の娘の宮子が聖武天皇を生んだ。さらに宮子の異母妹の光明子が聖武天皇の光明皇后になるなど、不比等は天皇の外戚となって皇室とのつながりを強めた。こうした中で興福寺は天皇や皇后、藤原氏の手で次々に堂塔が建てられ大寺に発展していった。
(写真は 北円堂(国宝))

阿修羅像(国宝) 不比等が建立した中金堂に続いて聖武天皇が東金堂、五重塔(いずれも国宝)、さらに光明皇后が西金堂を建立した。その後も北円堂(国宝)、三重塔(国宝)など堂塔の建設が続いた。こうして一大伽藍を築き南都最大の寺院になり、春日大社の神木をみこしに乗せ京都の朝廷へ強訴するなどの力を持った。
 権勢を振るっていた興福寺も源平の戦いの初期の治承4年(1180)、平重衡の南都攻めで焼き討ちをかけられ全伽藍が焼失した。その後、堂塔は再建され中世には大和一円を支配していた。しかし、武士階級が台頭するにつれその勢力は衰え、明治維新の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で決定的な打撃を受けた。一時は廃寺同然の姿となり、五重塔などが売りに出される話まで出たほどだった。
 現在は鎌倉時代以降に建てられた堂塔や平安時代の隆盛ぶりをしのぶ礎石などが残っている。建物や仏像、書画、仏具など国宝、重要文化財はおびただしい数ののぼり、国宝館などに展示されている。そのひとつ、阿修羅像は3つの顔と6本の手を持つ三面六臂(ぴ)の像で、愁いを含んだ表情と少年のような体つき、手の配置が美しい像として知られている。
(写真は 阿修羅像(国宝))


◇あ    し◇
東大寺JR大和路線奈良駅、近鉄奈良線奈良駅から市内循環バス大仏殿・春日大社前下車。       
近鉄奈良線奈良駅下車徒歩15分。
元興寺JJR大和路線奈良駅下車徒歩20分。 
春日大社JR大和路線奈良駅、近鉄奈良線奈良駅から市内循環バス春日大社表参道下車徒歩 10分。            
近鉄奈良線奈良駅下車徒歩30分。
薬師寺近鉄橿原線西ノ京駅下車徒歩3分。 
興福寺近鉄奈良線奈良駅下車徒歩5分。JR奈良線奈良駅下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
東大寺0742−22−5511 
元興寺0742−23−1377 
春日大社0742−22−7788 
薬師寺0742−33−6001 
興福寺0742−22−7755 
奈良市観光課0742−34−1111 
奈良市観光センター0742−22−5200

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
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◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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