月〜金曜日 18時54分〜19時00分


福井・越前の里 

 冬の越前と言えば越前カニ。この時期、越前はグルメには見逃せないエリアである。
だが、越前はカニだけではなく、早春の越前海岸沿いに越前スイセンがかれんな花をつけ咲き競っている。また、越前海岸の断崖、絶壁、奇岩、奇礁の雄大な海岸美も見逃せない。
日本海文化圏に関わる文化財も多く、越前焼の里もあり「食べる・見る・学ぶ」を体験できる越前海岸沿いの町や村を訪ねてみた。


 
越前海岸の伝承(越前町)  放送 1月27日(月)
 日本海に面した越前の海岸線は、海食崖や奇岩、奇礁などの荒々しい岩肌がいたる所にあり、勇壮な海岸美の景観を楽しませてくれる。越前町の越前岬は福井県の西端に位置し、高さ100mの断崖が切り立った岬は、福井県を代表する勇壮な海岸美の東尋坊とは異なった海岸景観である。付近の海岸段丘には群生している越前スイセンが3月まで可憐な花をつけ、冬の荒々しい日本海や海岸の岩壁とのコントラストが、訪れる観光客の目を楽しませている。
 越前岬の北約1.7kmにある「呼鳥門(こちょうもん)」は越前海岸の奇勝を代表するものだ。山から海へなだれ込むようにせり出した大岩が、長い歳月の間に風と波の浸食作用でポッカリと穴を開けられ天然トンネルになり、そこを国道が通り抜ける豪快な景観が自慢のトンネルである。

呼鳥門

(写真は 呼鳥門)

玉川洞窟観音

 越前岬灯台の少し南、奥行き30mの洞窟の奥に安置されている十一面観音像は玉川観音と呼ばれ、海上安全の守護仏として信仰されている。越前岬の海食洞の中にまつられていたが、平成6年(1994)の土砂崩れの際に現在地に移された。玉川観音は漁師が海中から網で引き上げた観音像をまつったのが始まりとか、仲哀天皇がこの沖合いを船で航行中、急に起こった風波を海中から龍に乗って現れた観音さまに鎮めてもらったので、この洞窟に観音像をまつったなど、いろいろな伝説が伝えられている。
 越前海岸の散策の疲れを癒すのに最適なのが、日本海を眼下に潮騒に耳を傾け、遠く漁火を眺めながら露天風呂に入れる越前温泉露天風呂「漁火」である。このほか町内には多くの温泉が湧き出ている。

(写真は 玉川洞窟観音)


 
越前ガニの宿(越前町)  放送 1月28日(火)
 冬の越前の味覚といえばカニをおいてほかにない。このカニの味が忘れられない人たちが、シーズンになると越前海岸を訪れ、カニ料理に舌鼓を打つ。バス会社や旅行会社もカニを食べ、みやげに大きなカニを買う「カニツアー」を組んでいる。
 冬の日本海の荒海へ出漁した漁船がカニを積んで港に帰り水揚げする。活きのよいカニは港で直ちにセリにかけられ、威勢のよいセリの声が響く。越前町の目抜き通りには「かに直売」などの看板が目立つ。通りに面した店頭では水揚げされたばかりカニをゆでる湯煙が立ちのぼり、寒さに震える観光客に温もりを与えてくれる。

越前漁港 小樟

(写真は 越前漁港 小樟)

開高丼(ふるさとの宿 こばせ)

 この越前ガニをこよなく愛し絶賛した人に、食通で知られ釣魚に関する名著もある芥川賞作家・開高健(平成元年没)がいる。祖父、父が福井県人だった開高が、福井・越前を訪れる度に旅館「こばせ」に立ち寄り、カニの味覚を満喫していた。ある日、宿の主人・長谷政志さんが「海の宝石箱をひっくり返してみました」と言って出した特別メニューのカニ丼を口にした時、開高は「ウーン」とうなって一気に食べてしまった。言葉にならないほどうまかったのだろう。この丼はセイコガニの身、卵、内子、外子、甲羅についている脂肪などをまんべんなく乗せ、特性の醤油ダレをまぶしたもの。このカニ丼は開高の3回忌に「開高丼」と銘打ってこの旅館のメニューに登場した。
 越前ガニにはズワイガニ(雄)とセイコガニ(雌)があり、ズワイガニは足を広げると70〜80cmにもなり、料亭、レストランのカニ料理、土産用に使われる。値段の安いセイコガニは小ぶりで20cm前後だが、卵巣やミソの味が格別だと言う食通が多い。「開高丼」はこのセイコガニのうまさを引き出したものと言える。

(写真は 開高丼(ふるさとの宿 こばせ))


 
海が編んだ歴史(河野村)  放送 1月29日(水)
 海に面していながら山地、原野が約90%を占める河野村では山地が海岸に迫り、切り立った崖の海岸線が続いている。荒波にもまれる漂流船を守った白竜の伝説が残る滝は、急峻な崖を流れ落ちており河野村の地形を物語っている。この海岸線には越前スイセンが3月まで咲き競っている。
 海食洞窟のひとつ、甲楽城(かぶらぎ)地区にある下長谷洞窟は、延元2年(1337)敦賀金ヶ崎城の落城の時、後醍醐天皇の皇子・恒良(つねよし)親王は気比神宮の神官に連れ出され船で脱出、この洞窟に一時身を隠したと伝えられている。だが、まもなく北朝方の軍勢にとらえられ、京都へ送られ非運な一生を終えた。洞窟は奥行き約20m、高さ7m、幅5mほどで奥に進むにつれて狭くなっている。最奥部の岩壁に矢じりで彫った「延元二年……恒良云々」の文字があると言われているが、今はほとんど判読できない。

下長谷洞窟

(写真は 下長谷洞窟)

北前船主の館・右近家

 山を背にして建つ切妻造り二階建ての主屋と数棟の土蔵は、江戸時代中期からから明治時代にかけて大阪(上方)と北海道(蝦夷地)の交易に活躍した北前船の船主・右近家の館。右近家は幕末には日本海五大船主のひとりで、最盛期には30数隻の船を所有していた。主屋は明治34年(1901)に建て替えられており、上方風の豪勢なたたずまいの中に、繊細な造作がほどこされている。背後の山腹には昭和8年(1933)に建てられた1階はスパニッシュ風、2階はスイスのシャレー風、内部は和洋折衷の西洋館と庭がある。また、この山腹にある展望台からの眺めも素晴らしく、遠く敦賀半島、若狭の青葉山、丹後半島の経ヶ岬まで見え、日本海に沈む夕日は絶景だと言う。
 右近邸は河野村に管理が委ねられ、現在、北前船の資料館「北前船主の館・右近邸」として一般公開されている。館内には右近家のシンボル船「八幡丸」の模型や北前船に関する船具や資料が展示されている。

(写真は 北前船主の館・右近家)


 
信長一族のふるさと(織田町)  放送 1月30日(木)
 緑の山々に囲まれた織田町は織田信長のルーツの地であり、町の観光物産館前には織田信長像が立っている。織田氏の祖は町の中心に鎮座する劔(つるぎ)神社の神官だった。
室町時代の応永年間(1394〜1428)に越前の守護・斯波義重氏が、常昌と言う神官を家臣として取り立て尾張へ派遣した。常昌は故郷の村・織田を姓として名乗るようになった。
 織田氏は尾張で次第に勢力を伸ばし守護代にまでなり、信長の時代には尾張一円を掌握するまでになっていた。戦国時代の乱世に生きた織田信長は、劔神社を氏神として深く尊崇して武運を祈り、神領を寄進したり社殿を建立するなどその発展と保護に力を入れた。
越前を掌握した時には安堵状を出して織田の人たちの安全を保証したと言う。

織田造り(越前二の宮劔神社)

(写真は 織田造り(越前二の宮劔神社))

織田信長安堵状(織田町歴史資料館)

 劔神社は神功皇后の時代の創建と伝えられ、敦賀気比神宮に次ぐ越前国二の宮として信仰を集めている。仲哀天皇の皇子・忍熊(おしくま)王が、このあたりの悪賊退治をした際に、危機にひんした。その時、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が夢枕に現れ剣を授け無事悪賊を退治したという。忍熊王がこの剣を納め建立したのが劔神社の始まりと伝えられている。
境内には平重盛、織田信長の二人の武将を祭る摂社・小松建勲神社もある。
 神社に伝わる宝物の梵鐘(国宝)は奈良時代の光仁天皇の奉納と伝えられ、この鐘によって土地の人びとが何度も火難からまぬがれたので「火伏せ鐘」とも呼ばれている。
 劔神社の近くにある織田町歴史資料館には、信長書名の書状や劔神社を中心に発展してきた織田町の歴史や神社に伝わる文化財、日本六古窯の越前焼などが展示されている。

(写真は 織田信長安堵状
(織田町歴史資料館))


 
雪国にねざすもの(宮崎村)  放送 1月31日(金)
 越前・宮崎村は山に囲まれた雪国。積雪に備える切妻の瓦屋根に白壁と壁面の黒い柱が美しいコントラストを描いている。こうした家並みの家々が集落を形成し、屋根の上の煙出し部分が独特の情緒をかもし出す美しい農村風景を現出している。この風景が「美しい日本の村景観コンテスト」で農林水産大臣賞を受賞した。
 朝倉氏ゆかりの相ノ木氏の邸(国・重文)は、18世紀の建築と見られ福井県下で最古の民家と言われる。入母屋造り、茅ぶきで内部には3部屋が並列して並ぶ6部屋があり、この地方の標準的な民家と言える。相ノ木家は朝倉氏35家族のひとつで、朝倉氏滅亡後、この地に郷士として住みついた。古い民家の証しとして柱などには手斧ではつられた跡や、槍カンナで仕上げられた跡が残っている。

相ノ木邸(重文)

(写真は 相ノ木邸(重文))

福井県陶芸館

 宮崎村で産する陶土を使った越前焼は、平安時代末期に古曽原の丘陵地に最初の窯を築き、焼き始めのが始まりで、日本六古窯(瀬戸、常滑、信楽、丹波、備前、越前)のひとつに数えられる伝統のある焼物。その後、隣の織田村でも窯が築かれ、宮崎村とともに壺、大型の甕(かめ)、すり鉢などの生活用品を中心に越前焼を生産していた。
 この越前焼発祥の地に福井県陶芸館がある。古越前から現代作品までの作品が展示されている。予約すれば越前焼が体験できる。紐状にした粘土を積み上げていく手ひねりコース、電動ろくろコース、絵付けコースがある。陶芸館のある所は12haもある広大な越前陶芸公園。公園内には岡本太郎のモニュメント「月の顔」、イサム・ノグチの作品「レインマウンテン」などの陶彫作品15点が点在している。また公園中央部にある越前陶芸村文化交流会館では毎月、展示内容が替わる陶器の常設展があり、この公園は陶芸ファンには見逃せないスポットである。

(写真は 福井県陶芸館)


◇あ    し◇
越前岬JR北陸線武生駅からバス灯台下下車徒歩3分 
呼鳥門JR北陸線福井駅からバス呼鳥門下車。 
玉川観音JR北陸線武生駅からバス玉川下車徒歩3分。
漁火JR北陸線武生駅からバス大浜下車徒歩3分。    
越前町旅館「こばせ」JR北陸線武生駅からバス海浦下車。 
下長谷洞窟JR北陸線武生駅からバス甲楽城北出下車。 
北前船主の館・右近家JR北陸線武生駅からバス河野村役場前下車。 
劔神社、織田町歴史資料館JR北陸線武生駅からバス織田下車徒歩5分。 
相ノ木邸JR北陸線武生駅からバス古曽原下車徒歩10分。 
福井県陶芸館JR北陸線武生駅からバス陶芸館下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
越前町役場商工観光課0778−37−7714 
越前温泉露天風呂「漁火」0778−37−1873 
旅館「こばせ」0778−37−0018 
河野村役場産業観光課0778−48−7705 
北前船主の館・右近家0778−48−2196 
織田町役場企画振興課0778−36−1111 
劔神社0778−36−0404 
織田町歴史資料館0778−36−2288 
宮崎村商工観光課0778−32−3200 
相ノ木邸0778−28−1650 
福井県陶芸館0778−32−2174 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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