月〜金曜日 20時54分〜21時00分


国宝・彦根城 

 国宝・彦根城は彦根市の中心地の金亀(こんき)山(彦根山)にそびえている。彦根は歴史の節目にその名が登場する。関ヶ原の戦の西軍の将・石田三成は彦根・佐和山城主。
関ヶ原の戦い後、彦根藩主となった井伊氏は佐和山城を廃して彦根城を築く。以来、徳川幕府の重臣として幕政に関与し、大老・井伊直弼は開国を唱え江戸城桜田門外で討たれる。
今回はその井伊家の居城で名城として知られる彦根城を紹介する。


 
井伊直政の夢  放送 2月4日(月)
 JR彦根駅前の騎馬鎧(よろい)姿の武者像・井伊直政は“井伊の赤備え”として勇名をはせた。関ヶ原などの戦いで戦功をたて徳川の重臣として、西国の豊臣方大名の監視と京都守護を兼ねた重大な任務を担って彦根初代藩主となった。直政は石田三成の居城だった佐和山城に入ったが、関ヶ原の戦いで総攻撃を受けて炎上した佐和山城を廃城にし、新たな築城を計画した。しかし、関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷がもとで42歳の若さで他界、築城の遺志は子の直継、直孝が引き継ぎ、慶長8年(1603)築城工事が始められた。それから実に20年の歳月を費やし、名城・彦根城は元和8年(1622)に城は完成した。天守閣は当時のままの姿で残っており、昭和27年(1952)に国宝に指定されている。

関ヶ原合戦図屏風(彦根城博物館蔵)

(写真は 関ヶ原合戦図屏風(彦根城博物館蔵))

西の丸三重櫓(重文)

 彦根城は西国の豊臣恩顧の大名に備えた任務を負っており、築城に当たっては近江地方の豊臣色の一掃をかねて小谷、大津、安土、佐和山、長浜などの各城の石垣の石や木材などが用いられた。また、築城を急がなければならず、幕府の援助を得ながら近国の大名らにも築城の賦役が徳川家康から命じられた。
 井伊直政の祖先は遠江国の出身で、今川氏に仕えていたが今川氏が滅びた後、家康に仕えその武功によって頭角を現してきた。関ヶ原の戦いのころには直政は、酒井忠次、本田忠勝、榊原康政とともに徳川四天王と言われ、徳川譜代の中で武勇で知られていた。

(写真は 西の丸三重櫓(重文))


 
防御の策  放送 2月5日(火)
 城は本来、敵の攻撃を防ぐための建築物だった。小高い金亀(こんき)山(彦根山)に築かれた平山城(ひらやまじろ)の彦根城には、敵の襲撃に備えていろいろな防御の工夫が凝らされている。
 堀は二重にめぐらされ、内堀にかかる橋に平行して石垣が築かれている。これは橋を渡る敵を石垣の上から狙撃するために造られた。大手門、表門から天守閣に至るまでの石段は曲がりくねり、石段の高さも不規則で登りづらい。この石段の両側は石垣になっている。
山の尾根を断ち切って造られた堀切で、誰も堀の底を歩いているとは気づかない。この空堀を登ってきた敵を頭上の廊下橋、天秤櫓(てんびんやぐら)(国・重文)から攻撃する構造になっている。

二の丸住和口多聞櫓(重文)

(写真は 二の丸住和口多聞櫓(重文))

天秤櫓(重文)

 廊下橋は戦になればいつでも簡単に落とせる仕組みになっており、この橋を落とすと天守閣へは進めなくなる。天秤櫓にも戦に備えたいろいろな工夫が凝らされている。外から見るといくつもの狭間が見えるが、ほかにも隠し狭間があり、合戦時には内部から壁を突き破って使用できるようになっている。
 廊下橋を中央に天秤のように左右対称の建物になっている天秤櫓は、長浜城の大手門を移築したと言われている。石垣は右側が築城当時の牛蒡積(ごぼうづみ)、左側が改修によって切石積となった。一方、牛蒡積の石垣の上に築かれた天守閣にも戦に備えて矢狭間、鉄砲狭間、隠し狭間などが随所にある。

(写真は 天秤櫓(重文))


 
天守・乱世の美  放送 2月6日(水)
 彦根城の天守閣は三層三階、高さ21mと小ぶりだが、城郭本来の優れた防御機能と装飾的な意匠による外観の美しさを兼ね備えた名建築で、昭和27年(1952)国宝に指定されている。現存する天守閣で国宝に指定されているのは彦根城のほかに姫路城、松本城、犬山城だけ。天守閣の基礎部分とも言える石垣は、自然石を積んだ「牛蒡積(ごぼうづみ)」と呼ばれる工法で、一見すると粗雑な石垣に見えるが極めて堅固な石垣とされている。

牛蒡積(ごぼうづみ)

(写真は 牛蒡積(ごぼうづみ))

天守閣I国宝)

 彦根城の天守閣は築城が始まって3年後の慶長11年(1606)ごろには完成したと見られる。井伊年譜には「天守は京極家の大津城の殿守也」とあり、四層五階の大津城の天守閣を三層三階と小さくして再建したものと見られている。
 天守閣の規模は小さいが、屋根は切妻千鳥破風、入母屋千鳥破風、唐破風をバランスよく配置し、2階、3階の壁には寺院などに使われる曲線が美しい花頭窓、3階には高欄付廻縁を四隅に取り付けるなど、変化に富んだ姿の天守閣となっている。
 この名建築の彦根城は周囲の緑と調和してその姿は美しい。月明かりに浮かぶ城の美しさは格別と言われ、今も「月明・彦根の古城」として琵琶湖八景のひとつになっている。

(写真は 天守閣I国宝))


 
城主のやすらぎ  放送 2月7日(木)
 城主は城内の私邸の御殿や庭園で政務の疲れを癒したり、引退後の隠居生活を楽しんでいたようだ。彦根城内にもこのような御殿や庭園が造られた。
 彦根城の北側の内堀に面した旧三の丸跡に建つ楽々園は槻(けやき)御殿とも呼ばれ、4代藩主・直興(なおおき)が延宝年間(1673〜81)に造った下屋敷である。槻御殿には広書院、紅葉の間、雀の間、地震の間、雷の間など、大名の御殿にふさわしい部屋の名前がつけられている。書院前の枯山水の石組みの庭は、江戸時代初期の大名庭園の名残をよくとどめている。

楽々園地震の間

(写真は 楽々園地震の間)

玄宮園

 槻御殿の東側には池泉回遊式の庭園・玄宮園が広がる。これも直興が楽々園と同じころに造営したもので、中国・洞庭湖の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模し、竹生島や沖の白石を表現するため樹木や岩石を配置した縮景園となっている。
瀟湘とは中国湖南省洞庭湖の南にある瀟水と湘水のことで、瀟湘八景は瀟水、湘水付近の八カ所の素晴らしい景色をさしていう。近江八景、金沢八景はこれにならったものである。
 この庭の池を手前にして丘の上の天守閣を望む構図は彦根城を代表する景色で、春のサクラ、夏の蝉しぐれ、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の風情が楽しめる名庭園と言える。

(写真は 玄宮園)


 
開国の父・井伊直弼  放送 2月8日(金)
 彦根藩初代藩主・井伊直政が徳川幕府が開かれた時代の井伊家のヒーローなら、井伊直弼は徳川幕府末期のヒーローと言える。
 直弼は11代藩主・直中の14男として文化12年(1815)楽々園で誕生したが、5歳で母を失い、17歳で父を亡くした。多くの兄を持つ直弼は藩の掟に従い300俵の捨て扶持で暮らす部屋住みの庶子だった。
 17歳から15年間暮らした屋敷を自分の不遇になぞらえて「世の中を よそに見つつも 埋もれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」と和歌に詠み「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけた。直弼は埋木舎で、国学や和歌、禅、武道、槍術、茶道、華道などの修養の日々を送っていた。その中でも「茶、歌、ポン(鼓、能)」とあだ名されたほど、茶道、和歌、能は達人の域の文化人で、この埋木舎での青春時代が幕末のの大人物を作りあげたとも言える。

埋木舎(うもれぎのや)

(写真は 埋木舎(うもれぎのや))

桜田事変絵巻(彦根城博物館蔵)

 嘉永3年(1850)養父となっていた兄の死によって思いがけず13代藩主に就任した。嘉永6年(1853)6月、ペリーの浦賀来航に対して幕府が諸大名に対処策を諮問したのに応えて、直弼は「初度存寄書(しょどぞんじよりがき)」「別段存寄書(べつだんぞんじよりがき)」の意見書を提出している。
 その後、大老に就任して日本を開国に導くが、安政7年(1860)江戸城へ登城中に桜田門外で攘夷派に討たれ、46歳で生涯を終えた。埋木舎で培った高い教養が、世界の中の日本を見る確かな目を養い、当時としてはグローバルな考えを持つ人物として開国を断行した。
 埋木舎は中級藩士の居宅程度の簡素な武家屋敷で、直弼が生活していたままの姿の居間、茶室などがよく保存されており、一般公開されている埋木舎で直弼の生活をかいま見ることができる。

(写真は 桜田事変絵巻(彦根城博物館蔵))


◇あ    し◇
彦根城、楽々園、玄宮園
JR彦根駅下車徒歩15分。
JR彦根駅からバス彦根城下車。
埋木舎JR彦根駅下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
彦根市観光課0749−22−1411 
彦根観光協会0749−23−0001 
彦根城、玄宮園0749−22−2742 
彦根城博物館0749−22−6100 
埋木舎0749−23−5268 

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(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
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