月〜金曜日 18時54分〜19時00分


国生みの島・淡路 

 明石海峡大橋が平成10年(1998)に開通して以来、淡路島への往来が便利になり、多くの観光客が訪れるようになった。淡路島には国生み神話から始まり深い歴史が秘められている。また、淡路独特の文化を有しており、それが淡路島を訪れる人たちを魅了している。


 
和歌の路(淡路町)  放送 2月10日(月)
 淡路島の北端、淡路町には飛鳥時代から多くの歌人が訪れ、その美しい風景を詠んだ多くの和歌を残している。淡路島の最北端、明石海峡に臨む白砂青松の浜辺の松帆の浦は、かつては製塩が盛んだった所。朝の藻刈り、夕の藻焼きの風景が、都の貴族たちに強い印象を与えたのであろう。藤原定家は恋人を慕って焦がれる思いを、夕凪(ゆうなぎ)どきに焼かれる藻塩になぞらえて「来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」と詠んだ。
 松帆の浦には約500mの松林が続き、対岸の明石とは約3kmしか離れておらず、今は明石海峡大橋で結ばれた。明石海峡は潮の流れが速く、風が強い時が多い。昔はここで船が風待ちや潮待ちをしたことから「松帆」は「待ち帆」が転化したものだと言う。多くの歌人の心をとらえた松帆の浦は、小石が多い浜。打ち寄せる波が小石に吸い込まれ時の独特の音にも心が引かれる。

恵比寿神社

(写真は 恵比寿神社)

絵島

 岩屋港の南東に浮かぶ絵島は高さ20m、周囲400mの小島で、歌人・西行が「千鳥なく 絵島の浦に すむ月を 波にうつして 見る今宵かな」と、その美しさを讚える歌を残した。絵島は「平家物語」の月見の巻にも登場する小島で、古くから月見の名所として知られていた。また、伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の国生み神話で最初にできたおのころ島が、この絵島との説もある。波浪の浸食作用でできた島の岩肌には美しい紋様が現れており、絵島の名にふさわしい絵のような景観の島である。
 淡路町は歌に詠まれた町内の景勝地を遊歩道で結ぶ「淡路和歌の路」の整備を進めている。淡路町を訪れた人たちに、南の田の代海岸から最北の松帆の浦までの約4kmの遊歩道を、歌人らの心境で歩いてもらおうと言うのである。淡路町内の景勝地や史跡を詠んだ歌や俳句は約120首もある。これほどまでに多くの人が歌に詠んだのは、瀬戸内海の交通の要衝であるこの海峡を大勢の人が往来し、この地にしかない景観と風情に感動をおぼえたからであろう。

(写真は 絵島)


 
香りの町(一宮町)  放送 2月11日(火)
 淡路島西岸のほぼ中央、伊弉諾(いざなぎ)神宮が鎮座する一宮町は、年間の線香生産高6000トン、国内シェア70%を占める日本一の線香の町。町内に線香製造業者が16社あり、その下請け業者も含めるとかなり数になる。特に江井地区では4人に1人が線香にかかわっていると言われ、町内に漂う線香の香りは生活の香りでもある。
 この町で線香の生産が始まったのは約150年前の嘉永3年(1850)一宮町江井の田中辰造と言う人が、大阪・堺から線香製造の技術を熟練職人と共に一宮町に持ち込んだのが始まり。江井の港は良港として知られ、土地の人びとは漁業で生計を立てていた。しかし冬の季節風が吹くころは、漁に出ることができない日が続いた。この冬枯れ対策として堺から線香製造技術を持ち込み、7軒の船主が線香作りを始めたが、今や本家の堺をしのぐようになった。

一宮町 江井

(写真は 一宮町 江井)

線香の原料・タブの木皮

 明治時代初めにそれまで線香の原料だった杉葉粉から宮崎県特産のタブの木の皮を粉にした原料に変えて香料入線香の製造を始め、一躍需要を拡大した。線香の原料には杉葉粉、タブ粉、シナ粉のほかに沈香(じんこう)、白檀(びゃくだん)、桂皮、甘松、麝香(じゃこう)、青竹など50種以上もあると言う。
 線香、お香の歴史は古く、わが国へは仏教の伝来と共にインド、中国から伝わった。また推古天皇3年(595)淡路島に流れ着いた流木を漁師が燃やしたところ、すばらしい香りがたちこめたので、この流木を朝廷へ献上したと日本書紀に記されている。枯木神社はその伝承に由来し等身大の香木が御神体の香りの神様である。
 町内には香りの公園や香りの館・パルシェ、香りの湯など香りをテーマにした施設もあり、フランス香水の中心地・グラス市との交流も始まっている。平成13年(2001)環境省選定の「香り風景100選」にも選ばれた。

(写真は 線香の原料・タブの木皮)


 
おのころ島神社(三原町)  放送 2月12日(水)
 淡路島の南部、海のない三原町には古くからおのころ島の地名があり、国生み神話の伊弉諾命(いざなぎのみこと)と伊弉冉命(いざなみのみこと)の二神を祭るおのころ島神社がある。神社の入り口には高さ21.7mの大鳥居がそびえており、平安神宮、安芸の宮島の鳥居と並んで日本最大の鳥居のひとつ。
 伊弉諾命、伊弉冉命の二神は、天と地をつなぐ天の浮橋の上で天の沼鉾(あめのぬぼこ)で海原をかき回したと伝えられている。その鉾の先からしたたり落ちたしずくの塩が固まってできたのがおのころ島。このおのころ島に降りた二神が、初めに淡路島、そして四国、本州とつぎつぎに日本列島を造ったと言うのが古事記、日本書紀に記されている国生み神話である。

大鳥居

(写真は 大鳥居)

せきれい石

 三原町のおのころ島神社の近くには国生み神話にまつわる天の浮橋遺跡、葦原国遺跡、御砂所、せきれい石などがある。「海のない三原町になぜおのころ島が…」と首をかしげるのも当然。昔は西側の海の入り江がもっと内陸部まで入っており、そこにおのころ島があった。その後、河川のもたらす土砂が堆積して海岸線が沖へ遠のき陸地になったとされている。
 この国生み神話に現れるおのころ島はこのほかに南淡町の沼島、淡路町の絵島、あるいは淡路島全体とか、いろいろな説がある。いずれにせよ淡路の海人族(あまぞく)の島生み神話が朝廷に伝わり、大和朝廷の起源を語る「古事記」「日本書紀」に取り入れられた。

(写真は せきれい石)


 
淡路人形浄瑠璃(三原町)  放送 2月13日(木)
 淡路島の貴重な文化財であり、観光客を楽しませているのが淡路人形浄瑠璃。今から約500年余り前の室町時代の末、西宮の戎神社に仕えていた百太夫と言う傀儡師(くぐつし)が、現在の三原町市三条の地で人形の操り方を伝えたのがそもそもの始まり。三条の八幡神社には百太夫を祭った社があり、淡路人形発祥地の石碑が立っている。
 浄瑠璃、三味線に合わせて人形芝居をするようになったのは江戸時代の初め。四国・阿波藩主蜂須賀家の保護を受け城内へ招かれて上演したり、東北から九州にかけて全国を巡業して回り大いに栄えた。江戸時代中期には淡路に40以上の人形座と人形遣いなど人形浄瑠璃に携わる人が900人もいた。隣の徳島県をはじめ全国各地に人形浄瑠璃が伝えられているが、それらの多くは淡路の人たちが伝えた。

「傾城阿波の鳴門 巡礼歌の段」

(写真は 「傾城阿波の鳴門 巡礼歌の段」)

式三番叟(淡路人形浄瑠璃資料館)

 明治時代になると新しい芸能に押されて淡路人形浄瑠璃は衰退した。今、淡路での人形浄瑠璃の公演は、三原町の南隣、南淡町の大鳴門橋記念館内の淡路人形浄瑠璃館だけになった。この浄瑠璃館では毎日7回の公演が行われており、淡路を訪れた観光客らが大阪の文楽とはちょっと趣が違う淡路人形浄瑠璃を楽しんでいる。
 昭和51年(1976)国の重要無形民族文化財に指定された淡路の伝統文化・人形浄瑠璃を、三原中学校の生徒ら若い力が次の世代へ伝えようと取り組んでいるのが心強い。
 三原町淡路人形浄瑠璃資料館には、淡路で最後まで残った市村六之丞座が使っていた淡路人形の頭(かしら)や衣装、小道具類が寄贈され展示されている。この展示資料で大阪の文楽と違う少し大きな頭、豪華な衣装など淡路人形浄瑠璃の特徴と歴史、芸術を知ることができる。

(写真は 式三番叟(淡路人形浄瑠璃資料館))


 
成ヶ島と立川水仙郷(洲本市)  放送 2月14日(金)
 成ヶ島は洲本市由良の海岸線に向き合うように南北に約2km延びている細長い島。
無人島の成ヶ島には珍しい植物や貴重な植物が今も数多く残っており、植物研究者らは自然の宝庫として大切にしている。この中には絶滅が心配されているハマボウをはじめハママツナ、ハマウツボ、イワタイゲキ、クルマバアカネなどある。ハマボウは海岸の砂地に生える落葉低木で、夏にハイビスカスのような直径5cmほどの黄色い花をつける。海水に浸かるハマボウの林は、暖帯のマングローブとも言われている。各地のハマボウは臨海開発によって消失、群生地として残っているのはこの成ヶ島だけになった。
 幕末の黒船騒ぎの時に急きょ台場が作られ、明治時代には由良の海岸と合わせて陸軍の要塞としてつぎつぎに砲台が設けられた。一方、この成ヶ島は「淡路橋立」と呼ばれる自慢の美しい景観が、淡路を訪れる人たちを楽しませている。

旧陸軍施設監視台跡

(写真は 旧陸軍施設監視台跡)

立川水仙郷

 立川水仙郷は由良からほぼ直角に曲がった海岸線の急斜面にある。その斜面4ヘクタールに植えられた10万本のスイセンが可憐な花をつけて咲き乱れ、スイセン見物の観光客を迎えている。
 この立川水仙郷が実現するまでには、開拓農民の苦闘の歴史が秘められている。急斜面で石ころが多い立川は未開の地であったが、戦後、開拓地として入植者が入った。その中に東田芳高さんと言う開拓者がいた。東田さんは開拓地でいろいろな作物を試みたり、酪農を営んだが成功せず、どん底の境遇の時「隣の南淡町黒岩の灘水仙郷が成功しているなら…」とスイセンの栽培を決断した。初めは50アールに球根を植え、毎年栽培面積を増やしていった。3年目にようやく観光客に見せられる花が咲き、昭和45年(1970)初めて「立川水仙まつり」を開催した。ここまでこぎ着けるには東田さん夫妻の並々ならぬ苦労があった。
 立川水仙郷の花は、紅葉が終わる11月の早咲きから3月の遅咲きまで、花の時期が長いのが売り物。その中でも2月から3月中旬にかけては、早春の陽光を受けたスイセンの花が一番きれいな時である

(写真は 立川水仙郷)


◇あ    し◇
松帆の浦JR山陽線舞子駅から高速バス海峡シャトル線で
岩屋港下車、路線バスに乗り換えの帆の浦下車。 
絵島JR山陽線舞子駅から高速バス海峡シャトル線で岩屋港下車徒歩10分。
香りの町・一宮町大阪、三宮から洲本行高速バスで津名港下車、津名港から路線バス西浦線岩屋行に乗り換え郡家下車。 
香りの館・パルシェ郡家からパルシェ行バス。 
枯木神社津名港から路線バス西浦線岩屋行で枯木下車。 
おのころ島神社大阪、三宮から洲本行高速バス洲本下車、洲本から
路線バス湊行で榎列(えなみ)下車徒歩20分。 
淡路人形浄瑠璃資料館大阪、三宮から洲本行高速バス洲本下車、洲本から
路線バス福良行で市下車徒歩20分。 
淡路人形発祥地の碑
(三条八幡神社)
淡路人形浄瑠璃資料館から徒歩20分。 
淡路人形浄瑠璃館
(南淡町大鳴門橋記念館内)
三宮から福良行高速バスで福良下車、シャトルバス又は
タクシーで大鳴門橋記念館へ。 
成ヶ島大阪、三宮から洲本行高速バス洲本下車、洲本から
路線バスで由良下車、由良港から渡船で成ヶ島へ。 
立川水仙郷大阪、三宮から洲本行高速バス洲本下車、洲本から
路線バスで立川下車。(注:立川行路線バスは便数が
少ないのでダイヤの確認が必要)。             
◇問い合わせ先◇
淡路町役場0799−72−3111 
淡路町観光案内所0799−72−4624 
一宮町役場産業振興課0799−85−1122 
梅薫堂(線香)0799−86−1005 
三原町役場商工観光課0799−42−0266 
おのころ島神社0799−42−5320 
淡路人形浄瑠璃資料館0799−42−5130 
淡路人形浄瑠璃館(南淡町)0799−52−0260 
洲本市役所商工観光課0799−22−3321 
洲本市観光協会0799−22−0742 
立川水仙郷0799−27−2653 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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