月〜金曜日 18時54分〜19時00分


芭蕉と大阪 

 漂泊の俳人、松尾芭蕉(1644〜94)は各地に門人が多い。大坂にも多くの門弟がおり、句碑がたくさん建てられている。そして漂泊の俳人らしく故郷・伊賀上野から離れた大坂の地で、その生涯を閉じた。俳聖・芭蕉が大阪に残した足跡を句碑を頼りにたどってみた。


 
暗峠越え(東大阪市)  放送 2月24日(月)
 「菊の香に くらがり登る 節句哉」  (句碑所在地・東大阪市東豊浦町 勧成院境内)。
 元禄7年(1694)9月8日、芭蕉は郷里の伊賀上野を発ち、奈良の猿沢池近くの宿で1泊、9日朝早く奈良を発って暗峠(くらがりとうげ)を越え大坂に入った。旅の目的は対立する大坂のふたりの門弟を和解させるための仲裁であり、体調も思わしくない時だったので気の重い旅であったようだ。
 暗峠を越えるとき芭蕉は五節句のひとつ、重陽の節句の菊酒のことが脳裏をよぎったのであろう。「菊の香に…」の句は、菊酒は高いところへ登って飲めば厄除けになるとの中国の故事が思い出さる。生い茂る木々で昼間でも薄暗い険しい峠を越えるのも、苦にならずに登れた、との気持ちを詠んだのであろう。

勧成院

(写真は 勧成院)

峠の茶屋すえひろ(生駒市)

 勧成院の句碑は寛政11年(1799)地元・河内豊浦村(現東大阪市)の俳人・来耜(らいし)が芭蕉百回忌に暗峠に建てた。その後、山津波に巻き込まれ行方不明になっていたが、大正2年(1913)発見され勧成院境内へ移された。同じ句の碑が勧成院から100mほど山寄りにあり、この句碑は明治22年(1889)に俳人結社・六郷社有志によって建てられたものである。
 大阪と奈良を結ぶ最短距離の街道が暗越奈良街道。初めは鞍のような嶺の鞍ヶ嶺峠と呼ばれていたが、樹木が茂り暗い峠だったので、暗峠と呼ばれるようになった。江戸時代には大勢の人がこの峠を往来し、伊勢参りにもこの街道を利用した人が多かった。峠の頂上には今も風情ある石畳が残っており、この石畳の道を登り詰めると標高455mの暗峠に立つ。ここからは大阪の市街地、奈良盆地の両方が同時に眺められる。江戸時代にはこの峠に10軒余りの茶屋が建ち並び、峠を越える人たちが一息入れていた。

(写真は 峠の茶屋すえひろ(生駒市))


 
野崎観音・慈眼寺(大東市)  放送 2月25日(火)
 「涅槃会(ねはんえ)や 皺(しわ)手合わする 数珠の音」 「観音の いらか見やりつ 花のくも」  (句碑所在地・大東市野崎2丁目 慈眼寺境内)。
 大東市の慈眼寺は近松門左衛門の「女殺油地獄」、近松半二の「新版歌祭文」、落語の「のざきまいり」、東海林太郎の「野崎小唄」など、お染久松の恋物語の舞台となった野崎詣りで有名なお寺。境内にはお染久松の比翼塚がある。
 1300年前の昔に日本へ来たインドの僧が「野崎は釈迦が初めて仏法を説いたハラナの地によく似ている」と行基に言った。行基が白樺で十一面観音像を彫って安置したのがこの寺の始まりとされている。
 寺宝として釈迦涅槃図を蔵しており、境内の句碑の「涅槃会や…」の句は、この釈迦涅槃図開帳の時の様子を詠んだものである。

釈迦涅槃図

(写真は 釈迦涅槃図)

十一面観世音菩薩

 「観音の…」の句は芭蕉が江戸で詠んだもの。深川の芭蕉庵から浅草の浅草寺を眺め、持病の胃潰瘍に悩まされうつうつとした時の句である。慈眼寺近くに住んでいた地元の俳人・河城と言う人物が、野崎観音にちなんでこの句を選び句碑を建立したようだ。
 毎年5月1日から10日まで行われる無縁経法要に参詣するのを野崎詣りと言い、慈眼寺境内は全国各地からの大勢の参詣者でにぎわう。昔は野崎詣りに寝屋川の舟便で行く者と堤防を行く者がお互いに悪口を言い合うという奇習があった。
 本堂は幾多の戦乱で荒れたり焼失して何度も再建された。一条天皇の時代(986〜1021)に遊女・江口が、病気平癒を祈願して治ったお礼に本堂を再建したエピソードがある。本堂脇には「江口の君堂」があり江口像がまつられている。現在の本堂は昭和25年(1950)に再建されたもので、本尊・十一面観音像は白檀の一木彫り。

(写真は 十一面観世音菩薩)


 
升の市(大阪市)  放送 2月26日(水)
 「升買て 分別かはる 月見かな」  (句碑所在地・大阪市住吉区住吉町 住吉公園東入口)。
 元禄7年(1694)9月、対立する門弟どうしを仲裁するために大坂に入った芭蕉は、その双方の家に平等に泊まりながら同月13日、大勢の参拝者でにぎわう住吉大社の宝の市へお参りした。
 この宝の市は農家で使う升が売られたことから升の市とも呼ばれたが、折からの冷たい雨に悪寒を覚えた芭蕉は、その夜、招かれていた月見の句会には出席せず宿へ帰ってしまった。その翌日の句席で「升買て…」と詠み、「自分もついつい一合升を買ってしまった。
すると気分が変わって月見より宿に帰って早く寝た方が良いような気がしてしまった」と、洒落っ気を利かして前日の非礼を詫びたのであろう。

住吉大社

(写真は 住吉大社)

住吉公園

 その句碑が住吉公園内に建っており、元治元年(1864)芭蕉170回忌に大阪の俳句結社・浪花月花社が建てた。
 芭蕉は宝の市へ行った翌月の10月12日に死去しているので、住吉詣と升の市現物は芭蕉の最後の旅と言える。宝の市は神功皇后が馬韓・辰韓・弁韓の三韓からの貢物などで、市を立てたのが始まりと伝えられている。その後、黄金の升に新しい穀物を入れて供える住吉大社の神事としてして伝えられ、この市の日に社頭で升を売ったので升の市とも言われた。現在は新暦の10月17日に宝の市神事として、稲田の刈り取りの御祓いが行われ、新しく収穫した米が神前に供えられる。

(写真は 住吉公園)


 
閑寂の境地(大阪市)  放送 2月27日(木)
 「此道を 行人なしに 秋の暮」 「此秋は 何で年よる 雲に鳥」  (句碑所在地・大阪市天王寺区伶人町 大阪星光学院校内)。
 「此道を…」の句には、人の姿の絶えた秋の夕暮れの道のように、自分が生涯かけて追い求めてきた俳諧の道を共に歩んでくれる者は誰もいない、と寂寥の思いが込められている。死の直前とも言える元禄7年(1694)9月26日、上町台地の夕陽ケ丘に近い料亭「浮瀬(うかむせ)」で催されて句会で披露した。
 「此秋は…」の句には、ひとしお体の衰えが感じられ、年老いた寂しさが身にしみる。空行く雲のようにさすらいの旅を続け、老い朽ちて行くのが風雅に生きる自分の定めであろう、と思わず漏らした芭蕉の本音がよみとれる。

浮瀬(摂津名所図会)

(写真は 浮瀬(摂津名所図会))

芭蕉堂(梅旧院)

 浮瀬は当時大阪を代表する料亭で美食家や文人が集まったが、明治20年(1887)ごろ廃業。今その場所は大阪星光学院の敷地となっている。
 大阪星光学院はカトリック系の男子名門校で第33期生が卒業記念に校内に「浮瀬俳路蕉蕪(しょうぶ)園」を造園。園内には芭蕉や蕪村の句碑が建立されている。「此道を…」の句碑は第28期生、「此秋は…」の句碑は第29期生がそれぞれ卒業記念と芭蕉290回忌追善供養を兼ねて建立した。いずれも蕉蕪園内にあり、学校に事前に申し込めば蕉蕪園の散策もできる。
 大阪星光学院のすぐ北にある梅旧院には芭蕉堂がある。芭蕉が南御堂近くの花屋仁左衛門宅で亡くなった時、当時の梅旧院の和尚がお経を読んだと花屋日記にあり、芭蕉と梅旧院との深いかかわりを示している。

(写真は 芭蕉堂(梅旧院))


 
永遠の旅人(大阪市)  放送 2月28日(金)
 「旅に病で 夢は枯野を かけまはる」  (句碑所在地・大阪市中央区久太郎町4丁目 南御堂境内)。
 24時間、疾走する車の絶える間がない大坂のメインストリート・御堂筋の南御堂前の分離帯に「此付近芭蕉翁終焉之地」の石標が立っている。
 元禄7年(1694)体調不良のまま故郷の伊賀上野から大坂入りした芭蕉は、門弟の仲裁の合間、体調のよい時には、住吉大社の升の市や四天王寺近くの浮瀬(うかむせ)亭での句会など、あちこちへ出かけていた。しかし、その後体調をくずし、大坂へ来た約1ヶ月後の10月12日、南御堂そばの花屋仁左衛門方の座敷で息を引き取り、51歳の生涯を閉じた。亡き骸は芭蕉の遺言で生前愛した風光明媚な琵琶湖岸にある義仲寺(大津市膳所)境内に葬られた。

『芭蕉の夢』直原玉青筆

(写真は 『芭蕉の夢』直原玉青筆)

真宗大谷派難波別院(南御堂)

 辞世の句を望んだ門人に対して芭蕉は「平生即ち辞世なり」とことさら辞世の句を与えていない。芭蕉は「きのうの発句はきょうの辞世、きょうの発句はあすの辞世、一句として辞世ならざるはなし」と言ったと花屋日記にある。この言葉に芭蕉の人生と芸術に対する厳しい姿勢、たえず死を念頭に置いて生きた人生観がうかがえる。
 「旅に病で…」の句は、亡くなる4日前の10月8日に詠んだもので、この時も門人の支考を枕元に呼び「旅に病で なをかけまはる 夢心」と、どちらがよいかとたずねたそうだ。死期が迫っていた時でも推敲を重ねる厳しい態度を崩していなかったと言える。
 南御堂の句碑は裏面に刻まれた3人の中に天保年間に活躍した俳人の名があり、天保14年(1843)の芭蕉150回忌を記念して建立されたものと見られている。

(写真は 真宗大谷派難波別院(南御堂))


◇あ    し◇
暗峠近鉄奈良線生駒駅から生駒ケーブル宝山寺下車
徒歩40分。 
勧成院近鉄奈良線額田駅下車徒歩10分。 
野崎観音慈眼寺JR片町線(学研都市線)野崎駅下車徒歩10分。 
住吉大社、住吉公園南海本線住吉大社駅下車。 
大阪星光学院、梅旧院地下鉄谷町線四天王寺夕陽ヶ丘駅下車。 
真宗大谷派別院南御堂地下鉄御堂筋線本町駅下車。 
◇問い合わせ先◇
峠の茶屋・すえひろ0743−76−8495 
勧成院0729−81−2107 
野崎観音慈眼寺072−876−2324 
住吉大社06−6672−0753 
住吉公園06−6671−2292 
大阪星光学院06−6771−0737 
梅旧院06−6771−1667 
真宗大谷派別院南御堂06−6251−5820 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

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を目指し,
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