月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都・加茂町 奈良市柳生の里 

 京都府と奈良県の境近く、木津川沿いの加茂町は聖武天皇が恭仁(くに)京を築いた所で、町内には古刹も多く古代の歴史を刻んだ里である。その加茂町の南には剣の達人を輩出した柳生の里がある。剣豪・宮本武蔵もこの柳生の里で剣の道への目を開いたと言われている。


 
恭仁京跡(加茂町)  放送 3月3日(月)
 平城京の都の北、木津川が東西に流れる加茂町は、かつて伊勢への道としてにぎわった。街道に沿う一帯は、地形が甕(かめ)に似ていたことから瓶原(みかのはら)と呼ばれた。ここに日本の都が置かれたのは天平12年(740)12月から16年までのわずか4年間だった。
 聖武天皇は太宰府で挙兵した藤原広嗣の乱で混乱に陥った平城京を出て、近江、信楽などを転々とした後、瓶原離宮があった所に橘諸兄に命じ、5500人の人夫を動員して恭仁(くに)京を築き遷都した。しかし恭仁京が完成しないうちに紫香楽宮の造営を始めたりするなど混乱のうちに、都は難波宮に遷りさらに天平16年(744)再び平城京へ戻った。転々とする都に不満を抱いていた宮廷人や官人らは、都が平城京へ戻ると先を争うようにして平城京へ移ったようだ。

恭仁宮大極殿軒先瓦

(写真は 恭仁宮大極殿軒先瓦)

和同開珎鋳型

 この間に費やされた莫大な費用、都の造営に駆りだされた人びとの苦労は計り知れない。この時代の聖武天皇の行動は不可解な部分が多く、歴史学者らの間でもその真意は解されていない。また、天平13年(741)には聖武天皇は全国に国分寺、国分尼寺の造営の詔を出しており、廃京になった恭仁宮跡は山城国分寺になり、大極殿はそのまま金堂に使われた。京都府教育委員会の発掘調査で大極殿・金堂跡、内裏跡、7重塔跡やその礎石などが確認され、山城国分寺すなわち恭仁京の全容が少しずつ解明されつつある。ほんのつかの間、都が置かれた地は京城の芝、京城前、天子森などの地名と恭仁京跡の石碑が、都の存在を物語っている静かなたたずまいの山村である。
 近くには山城国分尼寺跡や8世紀初めに鋳造された貨幣・和同開珎の鋳銭司(ちゅうせんし)跡などが確認され、和同開珎の鋳型などが出土している。

(写真は 和同開珎鋳型)


 
海住山寺(加茂町)  放送 3月4日(火)
 多くの歌にも詠まれた瓶原(みかのはら)を一望におさめる北側の海住山の中腹に海住山寺(かいじゅうせんじ)が建つ。創建は恭仁京遷都の5年前の天平7年(735)で、大仏造立を発願、その工事の無事を願う聖武天皇の勅を受けて良弁上人が一宇を建て、十一面観音像を安置したのが起こりで、創建当時の寺名は観音寺。
 保延3年(1137)火災で焼失して廃絶状態になっていたが、約70年後の承元2年(1208)笠置寺にいた貞慶上人が廃寺跡に草庵を結んで寺を復興、補陀落山(ふだらくさん)海住山寺と称した。境内から眺める瓶原やそのかなたの山並みを海になぞらえ、海上に浮かぶ浄土の補陀落山のように見立てて海住山寺の寺名がつけられたようだ。

本堂

(写真は 本堂)

文殊堂(重文・鎌倉時代)

 貞慶上人の遺志を継いだ覚真上人が伽藍(がらん)整備に尽力し、現在の国宝・五重塔を建保2年(1214)貞慶上人一周忌の供養に建立した。境内で目を引くこの五重塔は心柱が初層で止められている建築形式で知られ、初層に裳階(もこし)を付けた形は、ほかに法隆寺五重塔に見られるだけで珍しい。また初層の屋根が大きく各層がしだいに小さくなっている安定感のある姿をした塔である。
 その後、寺は大いに栄え塔頭58坊を数えたが、豊臣秀吉の検地で寺領を失い、現在の本堂を中心に整備され今日に至っている。山門をくぐったところに開ける広い境内は、往時の塔頭跡をしのばせている。
 本尊・十一面観音像(国・重文)は平安時代の作で、厄除け観音として知られる。広い境内には本堂や五重塔、文殊堂(国・重文・鎌倉時代)、奥の院、開山堂、鐘楼などの伽藍が整っており、境内からの眺望はすばらしく秋の紅葉など四季を通じて豊かな自然が満喫できる。

(写真は 文殊堂(重文・鎌倉時代))


 
浄瑠璃寺(加茂町)  放送 3月5日(水)
 浄瑠璃とは仏教の言葉で、薬師如来の東方浄土(浄瑠璃浄土)の世界のことを言い、薬師如来は現実の苦悩を除き阿弥陀如来の西方浄土(極楽浄土)へ送りだしてくれる仏さまである。
 浄瑠璃寺は梵字の阿字に似た阿字池をはさんで秘仏・薬師如来像(国・重文・平安時代後期)をまつる東の三重塔(国宝・平安時代後期)と九体の阿弥陀如来像(国宝・平安時代後期)を安置する西の本堂・九体阿弥陀堂(国宝・平安時代後期)が向かい合う浄土形式の伽藍(がらん)配置。浄土式庭園が広がり、その名の通り清浄で優美なたたずまいは心のやすらぐ空間である。浄瑠璃寺ではまず東の薬師如来に苦悩の救済を願い、その場で振り返り、池越しに彼岸の九体の阿弥陀如来に来迎を願うのが参詣の形である。九体の阿弥陀仏は現世で他人のために善行を積んだ人たちを九通りの往生の形で迎えてくれる仏で、平安時代の思想、文化を伝える貴重な仏像である。

三重塔(国宝・藤原時代)

(写真は 三重塔(国宝・藤原時代))

薬師如来像(重文・藤原時代)

 浄瑠璃寺の創建は天平11年(739)聖武天皇の勅願によって行基が創建した伝えられているが定かでない。ほかに天元年間(978〜83)に多田満仲が開いたとか永承2年(1047)義明上人が堂宇を建立したのが始まりなどの説がある。
 国宝の本堂と国宝の九体阿弥陀如来座像は平安時代の遺構を伝えている。灯火に照らされた九体の仏像が、阿字池に映る姿は浄土信仰の趣向で「九体寺さん」と呼ばれ、親しまれるわけもこのあたりにある。九体阿弥陀堂は平安時代中期に京都を中心に各地に建立されたが、現存するのは浄瑠璃寺の阿弥陀堂が唯一となった。
 このほか、同寺には彩色鮮やかな美人の秘仏・吉祥天立像(国・重文・鎌倉時代)や四天王立像(国宝・平安時代後期)など優れた仏像や建造物、書画などの文化財が多い。秋には紅葉が三重塔、本堂、阿字池にマッチして美しい景色を創出し、参詣者の目を楽しませてくれる。

(写真は 薬師如来像(重文・藤原時代))


 
剣聖の里(奈良市)  放送 3月6日(木)
 奈良の市街地から柳生の里まで約17kmの柳生街道は、宮本武蔵や柳生十兵衛ら多くの剣豪、武芸者が踏み歩いたころの面影を今に残し、石仏や不思議な巨岩も見られる。
奈良市内から春日山原生林の中を抜けるこの柳生街道は、昭和の初めごろまで柳生方面から米や薪、炭を牛馬の背に乗せて奈良へ運び、日用品を乗せて柳生への帰路についた道だった。今は柳生へのハイキングコースになり、途中の朝日観音、夕日観音、首切り地蔵、地獄谷石窟仏などの石仏などを楽しみながら歩くハイカーが多い。
 途中に柳生街道随一の名刹・円成寺(えんじょうじ)があり、疲れた足を休めて憩うには絶好の場所である。ここら約9km歩くと柳生新陰流の剣聖の里・柳生に着く。柳生の里の入口に当たる所に「ほうそう地蔵」と呼ばれ、元応元年(1319)の銘がある古い石地蔵がある。ほうそう除けに作られた石仏で、地蔵の右下に借金棒引きの徳政一揆の銘文が刻まれていることで有名だ。

一刀石

(写真は 一刀石)

旧柳生藩家老屋敷

 柳生の里には巨石、巨岩にまつわる伝承が多い。巨大な4つの巨石がご神体の天乃石立(あめのいわだて)神社や7m四方ほどもの巨石が中央から真っ二つに割られている「一刀石」。山中で剣の修行中に天狗と立ち会った柳生石舟斎が天狗を一刀のもとに切り捨てた。しかし、その場にあったのは二つに割れた巨石だったという伝説から「一刀石」と呼ばれるようになった。柳生十兵衛が諸国へ旅立つとき植えたのが十兵衛杉だが、樹齢350年余を過ぎて落雷に見舞われ立ち枯れ状態になってしまった。
 見事な石垣の上に建っている武家屋敷が柳生藩幕末の家老、小山田主鈴の柳生藩家老屋敷。小山田は足軽から出世して家老に抜擢され、優れた経済的な才覚を発揮して藩の財政を建て直した。昭和39年(1964)作家の山岡荘八氏がこの家老屋敷を買い取り、小説「春の坂道」の構想をここで練った。山岡氏の死後、遺族から奈良市に寄贈され、現在は資料館として藩士の武具や山岡氏の直筆原稿などが展示されている。

(写真は 旧柳生藩家老屋敷)


 
柳生一族(奈良市)  放送 3月7日(金)
 柳生の里には剣豪、剣聖を輩出した柳生一族ゆかりの史跡、文献、資料が多く残されている。元柳生家の居城の地にあり柳生の里を一望に見下ろす芳徳禅寺は、寛永15年(1638)柳生但馬守宗矩が父・石舟斎の供養のため沢庵和尚を開山として創建、以後柳生家代々の菩提寺となった。本堂には本尊・釈迦如来像を中心に左に宗矩、右に沢庵和尚の木像が安置されている。
 明治維新後の廃藩で荒廃し、明治末には無住となり廃寺の危機にさらされていた。大正10年(1921)ごろ柳生家の後裔らが資金を寄進して本堂の復旧をはかり、昭和初めに住職も来住して寺域の整備、建物の増築がはかられ寺を後世に伝えることができた。寺には柳生家ゆかりの古文書や柳生新陰流の兵法書、武具などが展示されている。

柳生宗矩座像

(写真は 柳生宗矩座像)

柳生家墓所(左から宗冬、宗矩、十兵衛)

 柳生新陰流を創始した柳生石舟斎の剣の極意は「剣は人を斬るに非ず、人を活かすにあり」と説く活人剣で、無刀取り、世に言う「真剣白刃取り」の極意が編み出された。活人剣のけいこには禅の心を取り入れた剣禅一体の精神修養に重きが置れた。
 石舟斎と立ち会った徳川家康は無刀取りで刀を難なく奪われてしまった。石舟斎は家康に師範役を請われたが固辞して五男の宗矩を推挙した。宗矩は家康、秀忠、家光の3代の将軍の剣法指南役を務め、柳生新陰流の活人剣の極意は徳川幕府を確たるものとする礎となった 現在、この柳生新陰流を教えるのが柳生正木坂剣禅道場。再興された芳徳禅寺の橋本定芳住職がこの道場を起こし、住職を引き継いだ子息の橋本紹尚住職が道場主を務め、剣を通じた人間形成を道場を訪れる少年少女剣士や大人たちに教えている。
 芳徳禅寺の裏山に柳生家一族の墓所がある。墓所の中心に柳生宗矩を中央に石舟斎、十兵衛、宗冬の墓石があり、その周りに80数基の苔むした墓石が整然と並んでいる。

(写真は 柳生家墓所
(左から宗冬、宗矩、十兵衛))


◇あ    し◇
恭仁京・山城国分寺跡JR関西線加茂駅からバス岡崎下車徒歩10分。 
JR関西線加茂駅から徒歩30分。
海住山寺JR関西線加茂駅からバス岡崎下車徒歩30分。 
JR関西線加茂駅から徒歩50分。
浄瑠璃寺JR関西線加茂駅からバス浄瑠璃寺前下車。 
JR関西線奈良駅、近鉄奈良駅からバス
浄瑠璃寺前下車。(便数少ない)
柳生の里(旧柳生藩家老屋敷、芳徳禅寺、旧柳生藩陣屋跡、正木道場、一刀石など)JR関西線奈良駅、近鉄奈良駅からバス
柳生下車。(便数少ない)
◇問い合わせ先◇
加茂町観光協会0774−76−2970 
加茂町役場産業課0774−76−3611 
海住山寺0774−76−2256 
浄瑠璃寺0774−76−2390 
柳生観光協会、旧柳生藩家老屋敷0742−94−0002
奈良市観光協会0742−22−3900 
芳徳禅寺0742−94−0204 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
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