月〜金曜日 21時48分〜21時54分


西国三十三カ所巡り 

 京都・東山山麓に点在する西国三十三カ所の寺を訪ねた。寺の多い京都市内には六カ所の西国三十三カ所の寺があり、白装束の巡礼たちが線香の煙がたなびく中で御詠歌を唱え一心にお祈りしている姿が目につく。


 
第十五番札所・今熊野観音寺
(京都市) 
放送 3月25日(月)
 多くの歴代天皇、皇后、親王らが葬られ、皇室の香華院として知られ、御寺(みてら)の名で呼ばれている泉涌寺(せんにゅうじ)への道を進み、途中で左折、朱塗りの鳥居橋を渡って山門をくぐり参道をのぼると、泉涌寺の塔頭でもある今熊野(いまくまの)観音寺の本堂の正面に出る。
 天長年間(824〜33)に東寺で修行中だった弘法大師・空海は、月輪山中で熊野権現の化身と言う老翁に出会い「ここは観音に縁のある地だから現世利益、来世安楽を祈る寺を建て、観音さまをまつり人びとを救え」と十一面観音像を授かった。空海はこのことを嵯峨天皇に奏上し、勅旨によってその地に堂宇を建立、授かった観音像を体内仏として、自らが彫った十一面観音像を本尊としたのが観音寺の始まりと言う。

本尊十一面観世音菩薩(御前立)

(写真は 本尊十一面観世音菩薩(御前立))

本堂

 永暦元年(1160)後白河法皇が今熊野観音寺の山麓に熊野権現を勧請、当寺をその本地堂とした。この時に山号を新那智山観音寺とし、一般に今熊野観音寺と呼ばれるようになった。このころから熊野詣が盛んになり、これに合わせて観音寺も隆盛を極めたと言う。
 後白河法皇が持病の頭痛に悩み、観音寺の本尊に祈願したところ平癒したので、頭痛・中風平癒、厄除開運の観音として栄えた。室町時代の応仁の乱で全山が焼失し、泉涌寺の塔頭として再興された。現在の建物は正徳年間(1711〜16)に再建されたものである。
 観音寺境内は樹木が茂り、古くからカッコウの名所として知られ、静かな雰囲気の中でのんびりと参拝できる。寺を開いた時、弘法大師が錫杖(しゃくじょう)で岩を突くと清水がこんこんと湧き出てきた。この清水が五智水と名づけられ今も清らかな水が湧き出ている。
 御詠歌「むかしより たつともしらぬ いまくまの ほとけのちかい あらたなりけり」。

(写真は 本堂)


 
新熊野神社(京都市)  放送 3月26日(火)
 熊野信仰が盛んだった平安時代末期の永暦元年(1160)、後白河法皇は平清盛に命じて京都に紀州から熊野の神を勧請、熊野の新宮、すなわち新熊野(いまくまの)神社を創建した。
 後白河法皇は天皇時代を含め最も多く熊野詣をした上皇として有名で、熊野の神々に篤い信仰心を傾けていた。新熊野神社の社紋は梛(なぎ)の木に三本足の八咫烏(やたがらす)が描かれている。梛は古来から禍や災難をなぎ払い、海のなぎに通じ波静かな平和な状態を招来する霊樹とされている。八咫烏は神武天皇の東征の時、熊野から大和への悪路の先導役をしたとされ、旅の安全を守る大鳥と言われている。また、後白河法皇は社殿の造営には熊野の土砂や材木を使い、神域には那智の浜の小石を敷き詰めるほど熊野に心を寄せていた。

梛(なぎ)の樹

(写真は 梛(なぎ)の樹)

今熊野猿楽演能記念碑

 境内には当時、熊野から移され法皇お手植えと伝えられるクスノキが樹齢900年の巨樹となっている。神社では「大樟」と書いて「くすのき」と読ませ、健康長寿、病魔退散のご利益があるとされ、願いをかける参拝者が多い。
 今熊野神社も例にもれず、戦国時代には度々の兵火で社殿は焼失した後、約120年間廃絶同様の状態になっていた。江戸時代初め後水尾上皇の中宮・東福門院(2代将軍徳川秀忠の娘・和子)が、神社の復興を発願し、寛文3年(1663)聖護院宮・道寛親王(後水尾上皇皇子)が再建したのが現在の本殿である。
 境内に今熊野猿楽演能記念碑がある。これは能楽の大祖・観阿弥、世阿弥父子が、神社で足利3代将軍義満に「新熊野神事猿楽」を演じたところ、義満は父子の見事な芸を称賛して将軍家の式楽にした。これが今日の能楽隆盛の発端となったことを示すもので、新熊野神社は芸能上達の神として崇められている。

(写真は 今熊野猿楽演能記念碑)


 
第十七番札所・六波羅蜜寺(京都市)  放送 3月27日(水)
 醍醐天皇の皇子とも言われる空也上人(903〜972)は、京の町を念仏を唱えて歩き、井戸を掘り、橋を架け、民衆の救済に努め「市の聖」と慕われた。天暦5年(951)都に悪疫が流行した時、空也は十一面観音像を刻み、車に乗せて市中を引き歩き、小梅干しと結昆布を入れた茶を病人に飲ませて病を鎮めたという。この時の十一面観音像(国・重文、平安時代)をまつって開いた西光寺が後に六波羅蜜寺となった。この茶が現在も皇服茶(おうぷくちゃ)として伝わり、正月3日間授与されている。
 平安時代後期には平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を留めてから、清盛、重盛の時代に至り平家一門の邸宅が建ち並び、その数は5千200を超えたと言われた。平家没落に伴って寺も焼けたが本堂だけは焼失をまぬがれた。その後の度重なる戦乱の兵火で焼失の被害に見舞われ、現在の本堂(国・重文)は南北朝時代に再建されものである。

本尊十一面観音立像(御前立)

(写真は 本尊十一面観音立像(御前立))

皇服茶碗

 空也上人は鞍馬山で修行していた時、近くで鳴く鹿の声を愛していた。その鹿が漁師に射殺されたことを知り、これを悲しみ鹿の皮と角を譲り受け、皮は裘(かわごろも)として身につけ、角は杖頭として生涯身辺から離さなかった。やせた身に鹿の皮の裘を身にまとい鹿の角を杖頭につけた杖をつき、わらじばきで念仏を唱えながら街の中を歩いた空也上人の姿に、庶民は親しみを感じ「市の聖」と呼ぶようになった。空也の念仏を唱える教えが後には鉢やヒョウタンをたたき、鉦(かね)を鳴らして踊り歩く空也念仏となった。
 境内の宝物収蔵庫には口から六体の化仏が出ている有名な空也上人像(国・重文、鎌倉時代)や十一面観音立像など平安・鎌倉時代のすぐれた仏像や彫刻が保存されている。
 御詠歌「おもくとも いつつのつみは よもあらじ ろくはらどうへ まいるみなれば」。

(写真は 皇服茶碗)


 
寺町通りの老舗(京都市)  放送 3月28日(木)
 京都御苑の東南、寺町通りを南へ下って行くと骨董屋、菓子屋、雑貨店ほか、各種の店に次々とお目にかかれる。古めかしい店があれば当世風のしゃれた店もあり、古いものと新しいものがバランスを保っているユニークな通りである。
 その通りにある茶舗「一保堂」は江戸時代中ごろ、将軍が吉宗だった享保2年(1717)の創業。近江出身の渡辺伊兵衛が茶、茶器、陶器を扱う「近江屋」を蛤御門の傍らに開き、弘化3年(1846)「茶ひとつを保つように」と山階宮(やましなのみや)家から現在の屋号を賜った老舗。元治元年(1864)の蛤御門の変で店舗を焼失し現在地に移った。

一保堂茶舗

(写真は 一保堂茶舗)

宇治茶

 一保堂は宇治茶の一番茶のみで抹茶、玉露、煎茶の高級品から番茶までを作り、徹底した品質管理をしている。お茶は湯の温度など、いれ方ひとつで味が驚くほど変わる。お茶をおいしく飲んでもらうため店内に喫茶室「嘉木(かぼく)」を設け、お茶のいれ方を説明しながらお客さん自身が茶をいれる。ここはお茶に対する知識を身につけ疑問を解決してくれる場所でもある。
 一保堂の包装紙は、茶経(ちゃきょう)をデザインしたもので、トレードマークのようになっている。茶経は西暦760年ごろ中国・唐の陸羽が著した茶の専門書。茶の歴史・製法・器具について記述した最古の書で、茶の功徳、種類から製法、その飲用方法、茶の産地まで詳しく記されている。

(写真は 宇治茶)


 
第十八番札所・六角堂(京都市)  放送 3月29日(金)
 京都の人たちに「六角さん」と親しまれている六角堂は、車が盛んに行き交う烏丸通に面しているが、昔はこのあたりは森だった。四天王寺建立の用材を求めてこの地へ来た聖徳太子が、清らかな池を見つけて沐浴(もくよく)した。沐浴後、池のほとりの木にかけておいた念持仏の如意輪観音像を取ろうとしたところ木から離れなかった。太子は観音さまがこの地に留まろうとしていることを知り、六角の堂を建立してまつったのが六角堂、正式名は頂法寺の始まりと言う。
 六角堂は創建以来、応仁の乱などの兵火や火災などで何度か焼失したが、その都度、町衆らの力で再建されており、現在の建物は明治8年(1875)に再建されたものである。

本尊如意輪観世音菩薩(御前立)

(写真は 本尊如意輪観世音菩薩(御前立))

へそ石

 遣隋使の小野妹子が隋から帰った後、太子沐浴の池のほとりに坊を建て、本尊の如意輪観音像を守護し、朝夕に花を供えた。池のほとりに坊があったので池坊と呼ばれ、仏への供花が妹子の子孫に受け継がれ、池坊華道へと発展し、わが国、華道界の一大流派となった。太子沐浴の池は今は狭められ、境内の一角に井戸としてその形をわずかに残している。
 平安遷都の時、六角堂が道路の中央にあったため「南北どちらかへ少し移ってもらえないでしょうか」と本尊に祈願したところ、一夜のうちに北へ約15m移動、道路を通すことができたとの伝えがある。移動前の六角堂の礎石と言われる直径約40cm六角形の石の中央にへそのような穴があり、これを「へそ石」と呼び京都のへそとも言われている。
六角堂前の茶店で名物の「へそ石餅」と抹茶を味わい、西国巡礼のみやげとして「へそ石餅」を求めて持ち帰る参拝者が多い。
 御詠歌「わがおもう こころのうちは むつのかど ただまろかれと いのるなりけり」。

(写真は へそ石)


◇あ    し◇
今熊野観音寺JR奈良線又は京阪電鉄東福寺駅下車徒歩15分。 
京都市バス泉涌寺道下車徒歩10分。
新熊野神社JR奈良線又は京阪電鉄東福寺駅下車徒歩8分。 
京都市バス今熊野下車徒歩3分。
六波羅蜜寺京阪電鉄五条駅下車徒歩8分。 
京都市バス清水道下車徒歩5分。
茶舗・一保堂京阪電鉄三条駅又は丸太町駅下車徒歩8分。 
地下鉄東西線市役所前駅下車徒歩5分。
京都市バス市役所前下車徒歩5分。
頂法寺六角堂地下鉄烏丸線又は東西線御池駅下車徒歩5分。 
京都市バス烏丸三条下車徒歩2分。
◇問い合わせ先◇
今熊野観音寺075−561−5511 
新熊野神社075−561−4892 
六波羅蜜寺075−561−6980 
茶舗・一保堂075−211−3421 
頂法寺六角堂075−221−2686 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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