月〜金曜日 21時54分〜22時00分


戦国〜江戸時代ゾーン 

 室町幕府の衰退で戦国大名が台頭し、織田信長から豊臣秀吉による全国平定、秀 吉亡き後の関ヶ原の戦で徳川家康が天下を取って江戸時代を迎える。天下泰平の江戸 時代約260年間の後、幕藩体制を覆す明治維新によって日本は近代国家へと歩み出 す。
 文化面でも織豊時代には西欧文化の影響を受けた。明治時代に入り 文明開化の波が一挙に押し寄せ、あらゆる部門で西洋化が進んだ。


 
細川ガラシャ  放送 3月27日(月)
勝龍寺城跡 戦国時代から織田・豊臣時代、関ヶ原の合戦にかけての戦乱による悲劇の女性のひ とりが、明智光秀の三女・細川ガラシャ(本名・玉)と言える。
 戦国時代、京都・本能寺で織田信長を討った明智光秀と羽柴秀吉が戦った「天下分 け目の戦い」と言われる山崎の合戦の時、明智光秀が本陣を構えたのが長岡京市の勝 龍寺城だった。その4年前、勝龍寺城の城主だった細川藤孝の長男・忠興のもとへ光 秀の娘・玉が16歳で嫁ぎ、この城で約2年間過ごしている。
 山崎の合戦の時には、細川忠興は妻を一時離縁して光秀の誘いを断った。細川ガ ラシャにとっては、嫁ぎ先の勝龍寺城を本拠にした父・光秀が戦に破れ、この城 から敗走していった。戦国の悲劇とロマンが秘められた城と言える。
(写真は 勝龍寺城跡)

細川ガラシャ夫人の墓 ガラシャの悲劇はまだ続く。関ヶ原の合戦で東軍の徳川家康に味方しようとした細 川忠興に対し、西軍の石田三成はガラシャを人質に取ろうとした。ガラシャはこれを 拒み、武将の妻らしく屋敷に火を放ち、自らを家老に討たせて命を絶った。そのガラシ ャの墓が大阪市東淀川区の崇禅寺にある。
 ガラシャが忠興とともに住み、命を絶った屋敷があった大阪市中央区森の宮(旧日生球場西)には 「越中井」と呼ばれる井戸が残っている。そのそばにはガラシャの辞世の歌の石碑も 建っている。
 また、近くの聖マリヤ大聖堂にはガラシャ夫人の像が建っている。
 勝龍寺城のある長岡京市では毎年秋に「長岡京ガラシャ祭」があり、悲劇の戦国女性・ガラシャを追悼している。
(写真は 細川ガラシャ夫人の墓)


 
松花堂庭園  放送 3月28日(火)
松花堂昭乗自画像 懐石料理を盛り付けた弁当として人々に親しまれている、松花堂弁当。その松花堂弁当ゆかりの地とも言えるのが八 幡市の松花堂庭園。神仏習合時代の石清水八幡宮の社僧だった松花堂昭乗は傑出した 真言密教の修行をした阿闍梨だった。また書、画、和歌、茶道に秀でた文人で もあり、近衛信尋、本阿弥光悦と共に「寛永の三筆」と言われた。なお近衛信尋ではなく 近衛信尹を取る三筆説もある。
 昭乗は晩年になって「松花堂」と名づけた草堂を男山に建てて住んだ。その後、明治になって松花堂や書 院、茶室、庭園を現在地に移築した。
(写真は 松花堂昭乗自画像)

松花堂昭乗愛用の四つ切りの箱 松花堂庭園は庭園と資料館からなっている。約2haの庭園の外園には「松隠」「竹 隠」「梅隠」と呼ばれる素晴らしい茶室があり、有料で一般に貸し出されている。茅 ぶき宝形造りの松花堂は一見すると仏堂のよう。室内の天井には極彩色の日輪と2羽 の鳳凰が描かれている。昭乗の交友範囲は広く、沢庵和尚、本阿弥光悦、小堀遠州な ど一流の文化人が、草堂を訪れ文化サロンのようになっていた。
 松花堂資料館には「寛永の三筆」と言われた松乗の見事な書や画など、その多才ぶ りを発揮した作品が展示されており、庭園の散策と合わせて観賞の価値がある。
 昭乗が絵の具入れにしていた内側が4つに仕切られた木製の箱をヒントにして、弁当にして 出したのが「松花堂弁当」と呼ばれるようになった。
(写真は 松花堂昭乗愛用の四つ切りの箱)


 
ハニワ工場(こうば)公園  放送 3月29日(水)
高槻新池のハニワ工場公園・ハニワ工場館内部 高槻市にある今城塚古墳は全長350m、二重の濠をめぐらした淀川北岸で最大 の前方後円墳で、継体天皇陵との説もある。隣りの茨木市にある太田茶臼山古墳が継 体天皇陵になっているが、古墳の築造年代などから疑問視されている。
 新池遺跡の発掘調査で、これらの古墳の埴輪を作っていた工場跡が明らかになっ た。この埴輪工場は今から1500年前の古墳時代の約100年間3期にわたって18基の窯 を築き埴輪を焼いていた。初めは西暦450年ごろ3基の窯で、継体天皇陵に指定されている太田茶 臼山古墳の埴輪を作っていた。480年ごろ、新たに5基の窯が築かれ、埴輪を作り続 けた。530年ごろになるとさらに10基の窯が作られ、今城塚古墳の埴輪を作り、 この頃が埴輪作りの最盛期になった。その後、大型の前方後円墳が築かれなくなり、550年ごろには埴 輪作りは終わったようだ。
(写真は 高槻新池のハニワ工場公園・ハニワ工場館内部)

高槻ハニワ工房跡 18基の窯や3棟の工房、工人の住居跡などが集中し、国の史跡に指定された新 池遺跡を後世へ伝え、楽しく見学できるようにと、高槻市は「ハニワ工場公園」とし て整備し、遺跡を一般公開している。
 公園内の「ハニワ工場館」には、今城塚古墳の埴輪を焼いた新池遺跡最大級の窯が 当時のまま展示されており、その規模の大きさがよくわかる。ほかに斜面を利用した 窯、斜面をトンネル状に掘り抜いて作った窯などが展示されている。工人たちが埴輪 を焼いた工房は茅と杉皮で屋根をふいて復元された。
 武人や家、動物などの埴輪も展示されているほか、ハニワ工場館ではビデオで古墳 や埴輪を紹介している。このハニワ工場公園にいると5、6世紀の古墳時代へタイム スリップしたような気になる。
(写真は 高槻ハニワ工房跡)


 
太閤の湯殿館  放送 3月30日(木)
有馬、温泉寺十二神将(鎌倉時代、重文) 有馬温泉の歴史は古い。飛鳥時代に舒明天皇が有馬温泉に行幸したと日本書紀に 記されている。その後、温泉は一時すたれたが、奈良時代に行基によって再興され た。鎌倉時代には僧・仁西が温泉再興に力を貸し、12の宿坊を建設している。現在 も有馬温泉に「坊」と呼ばれる旅館名が多いのは、昔の宿坊の名残りと言える。
 行基が創建したと伝えられているのが温泉寺。仁西が再興した後、火災で焼失した堂塔を 豊臣秀吉の妻の北政所(きたのまんどころ)が再建している。本尊には万病の薬とされる温泉にちなんで薬 師如来座像が安置されている。本堂にある十二神将のひとつ、波夷羅(はいら)大将 立像は鎌倉時代の重要文化財。
(写真は 有馬、温泉寺十二神将(鎌倉時代、重文))

温泉寺太閤の湯殿館 豊臣秀吉は有馬温泉がお気に入りで、9回も有馬温泉を訪れ千利休らをと茶会を 開いたり花見を楽しんでいる。古くから「有馬温泉には太閤さんの湯殿がある」と言 い伝えれていた。1995年の阪神淡路大震災で極楽寺の庫裏が壊れ、建て替え工事の時 に庫裏の下から秀吉の湯山御殿の一部の湯ぶねや庭園遺構、茶器などが発見された。
 太閤の湯殿館には、極楽寺から出土した湯ぶねの遺構や瓦、茶器などが展示されて いる。温泉でくつろいだ後に温泉好きの太閤さんのお風呂や茶道具を見るのも一興。
飛鳥時代から大宮人が好んだ有馬温泉は、今も関西の奥座敷として温泉客で にぎわっている。
(写真は 温泉寺太閤の湯殿館)


 
相楽園  放送 3月31日(金)
旧小寺家厩舎(明治43年、重文) 2haの相楽園は神戸市内の都市公園の中で唯一の日本庭園。元神戸市長 の小寺謙吉氏の先代・小寺泰次郎氏が明治18年(1885)ごろ築造に着手、明治 末にやっと完成させた回遊式林泉庭園。昭和16年(1941)に神戸市に譲渡さ れ、当時は春秋2回一般に公開されていた。
 園内の豪壮な本邸や付属建物は、太平洋戦争の戦火で焼失し、欧風スタイルの厩舎 や塀、門が残り、当初の名残りをとどめている。レンガ造りの円形の塔屋、豊富な切妻飾りなど変化 に富んだデザインの厩舎は、国の重要文化財に指定されている。庭園が完成した当時 「蘇鉄園」と呼ばれていただけに、園内の蘇鉄林は見事なもので樹齢2百年を超える ものもあると言う。
(写真は 旧小寺家厩舎(明治43年、重文))

旧ハッサム住宅(明治35年、重文) 北野町の異人館街にあった旧ハッサム住宅が、昭和36年(1961)市に寄贈 され、相楽園に移築・保存されている。イギリス人貿易商のハッサム氏が明治35 年(1902)にハンセルの設計で建築したもので、明治時代に建てられた外国人住宅の典型的な建物と されており、国の重要文化財。
 江戸時代、姫路藩主が川での船遊びに使っていた「川御座船」の屋形部分だけを陸に上げた船屋形(重文)が神戸市に寄贈され園内にある。 切妻造桧皮ぶき2階建てで1、2階とも3部屋ある。2階中央の部屋は上段の間と言われ、殿様用の部屋で木部は春慶塗と黒漆塗になっている。
 相楽園は定休日以外は一般公開されているが、旧ハッサム住宅の内部は春、秋に特別公開される。
(写真は 旧ハッサム住宅(明治35年、重文))


◇あ    し◇
勝龍寺城公園JR長岡京駅下車徒歩7分。 
崇禅寺阪急京都線崇禅寺駅下車徒歩5分。 
越中井大阪・地下鉄森の宮駅下車徒歩5分。 
松花堂庭園京阪八幡市駅又は樟葉駅からバス大芝下車。 
ハニワ工場公園JR摂津富田駅からバス上土室下車徒歩5分。 
太閤の湯殿館神戸電鉄有馬温泉駅下車徒歩10分。 
温泉寺神戸電鉄有馬温泉駅下車徒歩10分。 
相楽園JR・阪神元町駅下車徒歩10分。 
地下鉄県庁前駅下車徒歩5分。
◇問い合わせ先◇
勝龍寺城公園075−952−1146 
崇禅寺06ー6322−9309 
松花堂庭園管理事務所075−981−0010 
ハニワ工場公園0726−95−8274 
高槻市埋蔵文化財調査センター0726−94−7562 
温泉寺078−904ー0650 
太閤の湯殿館078−904−4304 
相楽園078−351−5155 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

@・・・ひょうごシンボルルート   
A・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
B・・・越前戦国ルート              
C・・・近江戦国ルート              
D・・・お伊勢まいりルート         
E・・・修験者秘境ルート           
F・・・高野・熊野詣ルート         
G・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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