月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京の庭 

 京都には離宮庭園、寺院庭園、神社庭園などの名庭園が多い。雅な王朝文化を楽しんだ朝廷人や貴族が遊んだ庭園、禅の心を現した禅寺の庭園、神の世界を現した神社の神苑などそれぞれに庭の趣がある。今週はその一部を紹介する。


 
正伝寺(京都市)  放送 4月14日(月)
 船山の西麓・西賀茂の静寂の中に建つ正伝寺は、宋から来朝した兀菴普寧(ごつたんふねい)禅師を開山として、兀菴の弟子・東巌慧安(とうがんえあん)禅師が文永10年(1273)に一宇を建立したのが始まりの禅寺。創建当時は烏丸今出川にあったが、天台宗の迫害を受けて破壊された後、弘安5年(1282)現在地に再建された。後醍醐天皇の勅願寺、室町幕府3代将軍・足利義満の祈願所となり隆盛だったが、応仁の乱で焼失するなどの非運にあい、その後、江戸時代になって再建された。

獅子の児渡し(小堀遠州作)

(写真は 獅子の児渡し(小堀遠州作))

障壁画(狩野山楽筆)

 白砂を敷きつめた方丈庭園は龍安寺の石庭に似た枯山水だが、龍安寺が一樹一草も使っていないのに対して、こちらは一石も使わない刈り込みばかりの珍しい庭園である。当時の作庭は石組を主としたものが多く、石をいっさい使わずに庭園美を創出した才能は非凡なものであると言われている。
 この庭は江戸時代初期、小堀遠州の作と伝えられ、ヒメクチナシ、サツキを使った刈り込みは、東の土塀沿いに北東に向かった斜面に7・5・3に配されている。今は比叡山が借景となっているが、作庭当時はこの地が森林地帯であったらしく意図されトいたものではなかったようだ。

(写真は 障壁画(狩野山楽筆))

 龍安寺の石庭が「虎の児渡し」と言われているのに比して、正伝寺の庭は「獅子の児渡し」と称されている。
方丈(国・重文)は伏見城の御成殿を承応2年(1653)正伝寺に移築したもの。
その部屋には狩野山楽の筆になる障壁画があり、今日に残る山楽の貴重な作品とされている。
 方丈の広縁の天井は血天井と言われ、天井の斑点は伏見城に立てこもって城を死守した徳川家康の重臣・鳥居元忠が、落城の際に割腹した血で染まった床板を使ったものとされている。この斑点は学者の鑑定で血液によるものであることが証明されている。

血天井

(写真は 血天井)


 
地蔵院(京都市)  放送 4月15日(火)
 洛西・桂の苔寺にほど近い衣笠山の東麓にある臨済宗の禅寺・地蔵院は、南北朝時代の貞治6年(1367)室町幕府の管領・細川頼之が夢窓国師を開山として創建、夢窓国師の高弟・宗鏡禅師が伽藍(がらん)を建立した。北朝歴代天皇の勅願寺となり寺運も隆盛だったが、応仁の乱の兵火で焼失し、江戸時代の宝永元年(1704)にようやく再建された。昭和時代に再建された本堂には伝教大師・最澄の作と伝えられる地蔵菩薩像を中心に夢窓国師、宗鏡禅師、細川頼之の木像が安置されている。

本堂

(写真は 本堂)

十六羅漢の庭

 地蔵院は「竹の寺」とも呼ばれ、境内はさわやかな竹林に包まれている。また参道の両側にはカエデの木立がそびえ、足もとに広がる苔とともにすがすがしさを参拝者にそそいでいる。
 方丈前の平庭式枯山水の庭園は、細川頼之遺愛のもので「十六羅漢の庭」の名があり宗鏡禅師の作。一面の濃緑の苔の上に十六羅漢の修行の姿を表した石が配されている。春には名椿が愛らしい花をつけ、秋は紅葉が映え、冬は千両の実がなる心和む庭である。

(写真は 十六羅漢の庭)

 羅漢とは知恵を得、悟りを開いて世人から供養を受けるに足る聖者のことで、十六羅漢、十八羅漢、五百羅漢などがある。地蔵院の十六羅漢は八幡市男山の石清水八幡宮に願をかけている姿を現したもので、その方向に少し傾いている。境内墓地には細川頼之、宝鏡禅師の墓がある。
 方丈の縁側から眺める庭、その庭や境内をおおう苔、境内を取り囲むカエデの木立や竹林などが、清閑で落ち着いた雰囲気を醸し出している。

細川頼之之墓所

(写真は 細川頼之之墓所)


 
大山崎山荘美術館(大山崎町)  放送 4月16日(水)
 天王山の南麓、アサヒビール初代社長・山本爲三郎(1893〜1966)のコレクションである古今東西の陶磁器の名品を中心に展示しているのが大山崎山荘美術館。この美術館は元は山本と親交のあったニッカウイスキーの創業者のひとりで、関西の実業家・加賀正太郎(1888〜1954)が設計、大正時代初めから約20年をかけて建造した山荘であった。平成に入って荒廃していた山荘をアサヒビール社長・樋口廣太郎氏が、京都府、大山崎町の協力を得て保存、修復し、平成8年(1996)に美術館として再スタートさせた。

大山崎山荘美術館

(写真は 大山崎山荘美術館)

大山崎山荘美術館内部

 加賀が欧州遊学中に英国のウインザー城で眺めたテムズ川の流れを思い起こし、木津川、桂川、宇治川の三川が合流して淀川となる景色が望めるこの地に別荘を建設した。建物には中国産の石、欧州製のステンドグラスやシャンデリア、日本産の木材と庭石を用いて和洋中を、見事に調和させた英国風の建物である。室内には豪華客船を思わせるようなデザインも施されている。広大で変化に富んだ素晴らしい庭園は、自然石をあしらった池や四季折々に変化するさまざまな樹木を配し、自然の高低差の中に和洋さまざまの趣を見せている。

(写真は 大山崎山荘美術館内部)

 山荘内に展示されている山本コレクションには、中国や李朝の古陶磁器、西欧の陶磁器などの名品が多い。また山本は昭和初期に起こった民芸運動をバックアップ、その運動に参加した工芸作家の作品も数多く集めた。
 大山崎山荘美術館の新館は日本近代建築の第一人者・安藤忠雄氏の設計で、山荘と周囲の景観を配慮して展示室のほとんどが地下に埋められ「地中の宝石箱」と呼ばれている。
その新館にはフランス印象派の巨匠・クロード・モネの「睡蓮」「アイリス」「日本の橋」や欧米の現代彫刻などが展示されている。

庭園

(写真は 庭園)


 
勧修寺(京都市)  放送 4月17日(木)
 白壁の築地塀に沿って石畳の参道を進むと山科の古刹、勧修寺(かじゅうじ)がある。
昌泰3年(900)後醍醐天皇が、母・藤原胤子(いんし)の菩提を弔うため胤子の祖父・宮地弥益(みやじいやます)の邸跡に千手観音像を安置して寺としたのが起こりで、宮中とかかわりの深い門跡寺院。
 後醍醐天皇の祖母は山科の豪族で郡司の宮地弥益の娘・列子(たまこ)で、貴族の青年・藤原藤高に見そめられて玉の輿に乗った女性。その身分を越えた恋物語は「今昔物語」に残されており、列子の娘・胤子が宇多天皇の妃となり後醍醐天皇を生むと言う日本版「シンデレラ物語」である。

氷池園

(写真は 氷池園)

氷室の池

 勧修寺の庭は氷池園と呼ばれ、6600平方mもある「氷室の池」と呼ばれる大きな池を中心に、南東に醍醐の山々、南西には東山連峰を借景とした池泉式庭園で千年以上昔の眺めを伝えている。
 池の中央には小島があり、晩春から夏にかけてカキツバタ、ハナショウブ、スイレン、ハスが次々と花をつけて水面を彩る。この池は京都に残る池の中でも最も古い池のひとつで、平安時代には池に張った氷が宮中に献上され、氷の厚さでその年の豊凶を占ったと言われる。

(写真は 氷室の池)

 書院(国・重文)、宸殿は明正天皇の旧御殿を移築したもので、本堂も霊元天皇の仮内侍所を移築したとされている。書院の部屋には土佐光起・光成父子の筆による「近江八景図(光起筆)」「龍田川紅葉図(光成筆)」などの豪華なふすま絵があり、参拝者の目を楽しませてくれる。
 書院の前庭にある灯籠は水戸光圀が寄進したもので「勧修寺型灯籠」と言われ、ユーモラスな形で有名だ。この灯籠を覆うように生えているのが樹齢750年と言われるハイビャクシン。

近江八景図(土佐光起筆)

(写真は 近江八景図(土佐光起筆))


 
西国三十三カ所第十番札所・
三室戸寺(宇治市) 
放送 4月18日(金)
 花の寺として知られ観音信仰の白装束巡礼姿の女性参拝者の絶えない三室戸寺。この寺は宝亀年間(770〜780)に宇治山の奥から黄金の光を放っていた千手観音像が見つかり、光仁天皇が宮中の御室を移してこの観音像を安置し、御室戸寺としたのが始まりと言われ、後に現寺号の三室戸寺に改められた。
 平安時代初期から中期にかけて朝廷の厚い庇護を受けて寺は栄えたが、火災による伽藍の焼失、織田信長による寺領没収などで寺運が衰退した時期もあった。

本堂

(写真は 本堂)

枯山水庭園

 現在の本堂や阿弥陀堂などは江戸時代後期の文化年間(1804〜18)に建立されたものである。この寺の起こりに由来する本尊・千手観音菩薩像は、脇侍の釈迦如来立像(国・重文)、毘沙門天立像(国・重文)とともに本堂に安置され、巡礼姿の参拝者らを迎えている。また、阿弥陀如来座像(国・重文)の両脇侍の観音、勢至菩薩像(いずれも国・重文)は、両ひざを折って跪座(きざ)した来迎像である。この来迎像は平安時代後期に流行した来迎芸術の数少ない仏像のひとつとされている。

(写真は 枯山水庭園)

 山門を入って参道のほとりに広がる池泉回遊式と枯山水を組み合わせた庭園は昭和時代に作られた庭。枯山水の石庭は中心に阿弥陀三尊の三尊石を配して観音浄土を表現し、池泉回遊庭園は池に蓬莱島を配し板石橋を架けた庭である。
 これらの庭園にはツツジ1万株、アジサイ5千株があり、これから初夏にかけての開花が待たれる花の寺で、参拝者も花の時期に合わせて寺を訪れる。
 御詠歌「よもすがら つきをみむろと わけゆけば うじのかわせに たつはしらなみ」。

池泉回遊式庭園

(写真は 池泉回遊式庭園)


◇あ    し◇
正伝寺京都市バス神光院前下車徒歩15分。 
地蔵院阪急電鉄京都線上桂駅下車徒歩13分。 
京都市バス苔寺道下車徒歩10分。
京都バス苔寺下車徒歩3分。
大山崎山荘美術館JR東海道線山崎駅下車徒歩10分。 
阪急電鉄京都線大山崎駅下車徒歩10分。
勧修寺京都市バス勧修寺北出町下車徒歩3分。 
京都市営地下鉄東西線小野駅下車徒歩10分。
三室戸寺京阪電鉄宇治線三室戸駅下車徒歩15分。 
◇問い合わせ先◇
正伝寺075−491−3259 
地蔵院075−381−3417 
大山崎山荘美術館075−957−3123 
勧修寺075−571−0048 
三室戸寺0774−21−2067 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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