月〜金曜日 18時54分〜19時00分


宝塚市 

 花と歌劇と温泉の町「宝塚」は、時代の変遷とともに生き、生まれ変わってきた。文化の町、行楽の町、住宅地としての機能を備えた宝塚には、大阪、神戸の代表的な近郊都市としての変遷を見ることができる。80年近い歴史を持ち親子連れが楽しんだ宝塚ファミリーランドは、客足の減少で2003年4月初めに閉園、新しい街へ生まれ変わろうとしている。今回はこんな宝塚を訪ねた。


 
歌劇と湯の街  放送 4月21日(月)
 宝塚市内にある古墳の中には玉や鏡など宝物が出土したものがあり、そのことから宝塚の地名の由来になったとされている。また古墳にお参りした人には幸いが訪れたと言われ「宝の塚」と名付けられたともいわれている。
 宝塚の温泉は鎌倉時代の歌人が貞応2年(1223)に小林の湯を訪れて詠んだ歌があり、すでに鎌倉時代初めに宝塚の温泉は京の人たちに知られていた。16世紀の室町時代に新しい温泉が発見され、皮膚病などに薬効があったと塩尾寺の由来記に記録されている。
明治時代にこの温泉を利用した湯治場が営業を始め、現代に続く宝塚温泉のスタートとなった。

宝塚温泉碑

(写真は 宝塚温泉碑)

箕面有馬電気軌道I型(模型)

 宝塚温泉は武庫川右岸に次々と温泉旅館が開業し、明治30年(1897)阪舞鉄道(現JR福知山線)の開通、さらに明治43年(1910)には宝塚温泉に着目して箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄宝塚線)が開通、温泉客は増え続けた。明治30年の大雨による武庫川の氾濫で、温泉旅館や浴場などが流失する不運に見舞われたが、すぐに立ち直り以前の活気を取り戻した。
 宝塚温泉の武庫川対岸には明治43年(1910)大理石造りの大浴場を備えた娯楽施設が誕生、こちらを宝塚新温泉と呼んだ。宝塚温泉が和風の温泉旅館に対し宝塚新温泉はハイカラな洋風建築と言う好対照を示した。

(写真は 箕面有馬電気軌道I型(模型))

 宝塚のシンボルとも言えるのが宝塚歌劇。宝塚少女歌劇は大正3年(1914)博覧会や宝塚新温泉客向けの余興として幕開けした。この少女歌劇をレベルの高いレビューに育てた立て役者が、阪急電鉄の創始者・小林一三(1873〜1957)であった。
火災で焼失した歌劇場跡に大正13年(1924)4000人収容の最新式大劇場を建築、昭和2年(1927)日本で初めてのレビュー「モンパリ」を上演した。その後上演された「パリゼット」の主題歌「すみれの花咲く頃」が宝塚歌劇団の団歌のようになり「清く正しく美しく」をモットーにした宝塚歌劇は、今も全国の根強いファンに支えられている。

小林一三像

(写真は 小林一三像)


 
中山寺  放送 4月22日(火)
 今から1400年前の昔、聖徳太子によって創建されたのが日本最初の観音霊場・中山寺。聖徳太子は非運な第14代仲哀天皇の先后・大仲媛とその子・忍熊王の霊を末長く鎮魂するため、紫雲山中山寺を開いたと伝えられている。
この地にそびえる紫の雲がたなびく三つの山のうち中の山を伽藍(がらん)建立の地と定められ、境内に大仲媛の墓と伝えれる古墳もある。
 現在も観音信仰の西国三十三カ所第24番札所として巡礼姿の参拝者が多い。一方、安産祈願の寺として全国に知られ「安産の腹帯」を授かるための女性の参詣者が多く、お腹の大きな妊婦を気づかい急な石段の参道脇にエスカレーターが設けられている。

聖徳太子勝鬘経講讃坐像(重文)

(写真は 聖徳太子勝鬘経講讃坐像(重文))

十一面観世音菩薩像(重文)

 インドの王后で仏教信者であった勝鬘(しょうまん)夫人は、女人救済とお産の苦痛を救うことを悲願したと伝えられている。本尊の十一面観音菩薩像は、勝鬘夫人を模して彫られたことから安産の観音さまとして広く信仰を集めた。
 「鐘の緒」は平安時代後期、中山寺の本尊が多田城主の妻の不信心と邪心を戒めたという伝説から「安産の腹帯」とされ、邪心や悪心のある女性でも中山寺の観音さまに祈れば許され、安産になるとの説から「安産の腹帯」を求めて各地から参拝する妊婦が増え、世継ぎの子宝に恵まれなかった豊臣秀吉が中山寺に祈願して淀君が懐妊、秀頼を授かったことや、明治天皇の生母が安産の腹帯を授かったことなどから安産信仰の寺として広く知られるようになった。

(写真は 十一面観世音菩薩像(重文))

 豊満な姿の本尊・十一面観音菩薩像の脇には同じ姿の脇仏・十一面観音像が二体あり、この三体の観音像の顔を合わせると33面になるので、西国三十三カ所の霊場を巡拝したのと同じ功徳があると言われている。現在の本堂をはじめ境内の伽藍は、豊臣秀頼が自分の生誕に感謝して慶長8年(1603)に再建した建物である。
勝鬘夫人は釈迦の教えをことごとく会得した女性で、夫人が説いた勝鬘経を聖徳太子が教え説いた姿の太子像(国・重文)がある。また「親兄弟の顔が見たくば中山寺の五百羅漢堂にござる」と言われる羅漢堂には、いろいろな表情の羅漢像が安置されている。梅の名所として知られる中山寺だがサクラやツツジも見事である。

五百羅漢像

(写真は 五百羅漢像)


 
手塚治虫と記念館  放送 4月23日(水)
 2003年4月7日は鉄腕アトムの誕生日。手塚治虫(1928〜89)は1952年(昭和27年)から少年雑誌にアトムの連載を始めた。そのストーリーの中で鉄腕アトムは2003年に誕生し、21世紀を舞台に活躍した。手塚は50年先の将来を舞台に少年、少女たちにロボットが活躍する夢を描かせた。
 2003年3月1日からリニューアルオープンした宝塚市立手塚治虫記念館でも、鉄腕アトム誕生を祝うイベントが催された。

手塚治虫記念館

(写真は 手塚治虫記念館)

展示用図書棚

 50年前に鉄腕アトムを誕生させた手塚治虫は、5歳から24歳までの多感な少年時代と青春時代を宝塚で過ごした。手塚は豊中市で生まれ、5歳の時、宝塚の祖父の家へ引っ越した。
そのころの宝塚の町には自然があふれ、手塚は山や川、野原を駆けずり回り、昆虫採集に夢中になるうちに「自然への愛と生命の尊さ」を強く思う少年に育った。昆虫図鑑から「オサムシ」と言う昆虫がいることを知り、ペンネーム「手塚治虫」の「治虫」は本名の「治」に虫をつけ「おさむ」と読ませた。手塚の中には宝塚の生活から受けた感性がいっぱい詰まっており、鉄腕アトムをはじめ手塚の作品には「自然への愛と生命の尊さ」が基本になっている。

(写真は 展示用図書棚)

 宝塚市立手塚治虫記念館は手塚治虫のこの精神を基本テーマとして1994年(平成6年)にオープンした。そして2003年、鉄腕アトムの誕生の年を記念してリニューアルした。
手塚が描いた鉄腕アトムのように今、いろいろなロボットの誕生が現実化し、人間生活の中へ入り込んでいる。
 記念館には「鉄腕アトム」や「リボンの騎士」「火の鳥」など手塚作品を映像やパネルで見ることができる。アニメ工房ではアニメ製作が楽しめるなど館内は夢がいっぱい。屋上には手塚の未完の遺作となった「ガラスの地球を救え」をモチーフにした青いガラスの地球があり、それを支えるチタン張りの円筒部は未来をイメージしている。

火の鳥モニュメント

(写真は 火の鳥モニュメント)


 
小浜宿  放送 4月24日(木)
 宝塚市小浜(こはま)の町は武庫川支流の大堀川や池に囲まれた自然の要害を生かし、戦国時代の明応年間(1492〜1501)に浄土真宗・毫攝寺(ごうしょうじ)の寺内町として誕生した。こうした寺内町は戦国大名や他の宗派に対抗するために真宗寺院を核として近畿一円や北陸に生まれている。
 豊臣秀吉や秀次が有馬温泉へ行く途中に毫攝寺に宿泊し、寺の北にある山中家の井戸「玉の井」の名水で千利休に茶をたてさせたとの伝えもある。また、秀次が寺の住職の次女・亀姫を側室として迎えたが、秀次切腹の際に妻子、側室も処刑されるという悲劇にあい、毫攝寺も焼き打ちされた。

毫攝寺

(写真は 毫攝寺)

宝塚市立小浜宿資料館

 小浜は有馬温泉に通じる有馬街道、西宮の港に通じる西宮街道、京に通じる京伏見街道の三本の街道が交差する要衝の地だった。江戸時代には宿場町「小浜宿」として脇本陣、旅籠(はたご)、商家などが軒を連ね大いににぎわった。現在も虫籠(むしこ)窓や格子を持つ商家が20軒ほど残り、当時の雰囲気を漂わせている。
 江戸時代には「小浜流」と言う酒造りの技術を持った町でもあり、井原西鶴の「日本永代蔵」にもその「小浜流」が紹介されている。また腕の良い大工や左官のたくさんいた町として知られ、大工組「小浜組」を結成しており、禁門の変で壊れた京都御所の蛤御門の修理を引き受けたと言う。

(写真は 宝塚市立小浜宿資料館)

 寺内町、宿場町として栄えた小浜に平成6年(1994)宝塚市立小浜宿資料館がオープンした。小浜地域の民俗資料や歴史資料などを保存、紹介し、江戸時代後期の小浜の町並みを復元した模型を展示している。この資料館は戦国時代の武将・山中鹿之介を祖先とする山中家の協力で西半分を宝塚市が買い取り資料館にした。
 宝塚市立歴史民俗資料館の旧和田家住宅は、江戸時代から庄屋を務めていた和田家が住宅を平成8年(1996)に宝塚市へ寄贈した。宝塚市内で現存する江戸時代中期の建物としては最も古く、太閤検地の写しなど約4000点の古文書も残っており、住宅とともに当時の様子を知る貴重な資料である。

宝塚市立歴史民俗資料館・旧和田家住宅

(写真は 宝塚市立歴史民俗資料館・
旧和田家住宅)


 
老舗ホテルの宝のメニュー 放送 4月25日(金)
 阪急・今津線宝塚南口駅前の宝塚ホテルは大正15年(1926)5月に開業した。
現在も瀟洒(しょうしゃ)な洋館5階建ての建物が、本館として開業時の面影をとどめている。宝塚はすでに「歌劇と湯の街」として全国に知られていた。大正13年(1924)オープンした宝塚大劇場やルナパーク(後の宝塚ファミリーランド)、宝塚温泉が阪神間の行楽地として人気を集めており、そこにハイカラな宝塚ホテルが新名所として仲間入りした。周囲を六甲の山々と武庫川の清流に包まれ、大阪、神戸からの交通の便もよく、昭和時代の初めは食事やダンス、ゴルフ、テニスなどを楽しむ紳士、淑女、名士たちの社交場としてにぎわった。

宝塚ホテル

(写真は 宝塚ホテル)

レストラン

 自然に恵まれた環境が気に入り長期滞在をする人や別荘がわりに使う人もいた。当時のホテルの部屋の値段表に「月極めは阪急電車全線定期券進呈」とあり、長期利用者に全線定期券をサービスしていた。
 昭和時代初めの金融恐慌による不況時代も何とか乗り切ったが、やがて戦時色が濃くなり、食料品や燃料の入手に奔走しなければならない時代になった。
第2次世界大戦の戦火はなんとか免れたが、終戦後、全館が米軍将校の宿舎として接収されてしまった。昭和30年(1955)やっと接収が解除され、再びホテル経営が始まり、近代ホテルとしての施設を整え、宝塚の名門ホテルの面目を発揮した。

(写真は レストラン)

 宝塚ホテルに“宝米”と言う食材があった。
戦時色が濃くなり始めた昭和13年(1938)ごろ、世間では米を節約する「節米」の声が高まっていた。こうした時に宝塚ホテルの名シェフ・杉本甚之助が3年の歳月をかけて編み出した米とそっくりの代用食がこの“宝米”である。
 杉本のねらいは「形も味も白米とそっくりの代用食をジャガイモから作る」だった。蒸したジャガイモをつぶしたり、こねたりして苦心の末、3年後に宝米が完成した。ピラフやバターライスにしてなじみ客に食べてもらったところ、誰も材料がジャガイモだと気づかず、阪急百貨店で販売された折には長蛇の列ができたほどだった。

宝米のピラフ

(写真は 宝米のピラフ)


◇あ    し◇
宝塚大劇場JR福知山線、阪急電鉄宝塚線宝塚駅下車徒歩5分。 
中山寺阪急電鉄宝塚線中山駅下車徒歩5分。 
JR福知山線中山寺駅下車徒歩15分。
宝塚市立手塚治虫記念館JR福知山線、阪急電鉄宝塚線宝塚駅下車徒歩8分。
毫攝寺、宝塚市立小浜宿資料館JR福知山線、阪急電鉄宝塚線宝塚駅からバス小浜下車。
阪急電鉄宝塚線売布神社駅下車徒歩15分。
宝塚市立歴史民俗資料館
旧和田家住宅
JR福知山線、阪急電鉄宝塚線からバス小浜下車
徒歩5分。
阪急電鉄宝塚線売布神社駅下車徒歩10分。
宝塚ホテル阪急電鉄今津線宝塚南口駅下車。 
◇問い合わせ先◇
宝塚市観光商工課0797−77−2012 
宝塚市教育委員会0797−77−2029 
宝塚市総合観光案内所0797−81−5344
阪急電鉄広報室06−6373−5092 
宝塚温泉旅館組合0797−86−2017 
中山寺0797−87−0024 
宝塚市立手塚治虫記念館0797−81−2970
毫攝寺0797−86−2424 
宝塚市立歴史民俗資料館
旧和田家住宅
0797−86−2752
宝塚市立小浜宿資料館0797−81−3655
宝塚ホテル0797−87−1151 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会