月〜金曜日 21時48分〜21時54分


和歌山・太地町、那智勝浦町 

 太地町は入り組んだリアス式の海岸が熊野灘に面している町で、日本捕鯨の発祥の地として知られており、今はくじらの博物館など鯨を観光開発に生かしている。那智勝浦町は古くから熊野参詣の参拝客を目当てにした温泉町として栄え、今も熊野灘のきれいな海と温泉を売り物にした南紀の温泉地として人気が高い。また勝浦漁港は延縄漁法による生鮮マグロの水揚げ港としては日本一を誇っている。


 
鯨の山見(太地町)  放送 4月23日(月)
灯明台礎石 太地町の東に熊野灘に突き出た岬があり、これが東明崎。寛永13年(1636)日本で最初に灯台が設けられた所でもある。熊野灘を航行する船の安全を図るため紀州藩が設けたものとみられ、その当時の礎石と思われるものが残っている。それ以来、明治5年(1872)に灯台が廃止になるまで、航海の安全を保つ役割を果たしてきた。この岬は「室崎」と呼ばれ、後に「太地崎」となり、灯台ができて灯明がともされるようになってから「灯明崎」と変わり、現在では「東明崎」と呼ばれるようになった。
(写真は 灯明台礎石)

古式捕鯨狼煙場跡 捕鯨が盛んな太地の地にあって、太平洋の熊野灘が一望できる東明崎には「鯨の山見」が置かれていた。山見とは沖に現れた鯨を発見したり、見張り船から鯨発見を知らせる信号を受けると、それを鯨漁の総指揮を取っている山檀那(やまだんな)に伝え、総指揮者の命令を捕鯨の船団に伝える場所である。
 東明崎に「吉備真備(きびのまきび)漂着碑」がある。奈良時代の遣唐副使、吉備真備は唐からの帰国途中、遭難して紀伊国牟漏(むろう)崎(現東明崎)に漂着したと、続日本記に書かれており漂着碑が建立された。吉備真備はしばらく太地に滞在した後、都へ帰るが、その一族の与呂子右衛門がこの地に残り、太地の地を開拓したとの伝えがある。
(写真は 古式捕鯨狼煙場跡)


 
梶取崎(太地町)  放送 4月24日(火)
梶取崎灯台 東明崎の南に梶取崎がある。熊野灘を航行する船がこの岬を目標に梶を取るので梶取崎の名がついたとされている。ここにも鯨の山見が置かれ、捕鯨船団に指令を送るのろし場があった。
 この岬に明治32年(1899)に灯台が設置され、現在に至っている。芝生におおわれた岬に白亜の灯台が建ち、熊野灘をバックに美しい景色を見せている。初代紀州藩主・徳川頼宣が紀州にきた江戸時代初めの元和5年(1619)頃に梶取崎に船見御番所が置かれている。鎖国令がとられたため熊野灘を航行する船を見張る役割を果たしたのだろう。
幕末には黒船の来航によって黒船遠見番所に改められた。
(写真は 梶取崎灯台)

太鼓島 梶取崎に鳴子岩と呼ばれる巨大な岩石がある。この岩に石を投げつけると「グワーン」と余韻のある独特の音が出るのでこの名がついた。しかし天候によって鳴る音が違い、特に雨になる日は鳴らなかったと言われている。漁師たちがこの岩の鳴り方でその日の天候を占っていたのではないかとみられている。
 梶取崎の沖に太鼓島と呼ばれる岩礁がある。島の北面の岩に的(まと)のような形をした刻印があるので太鼓島と呼ばれるようになった。この刻印は原始宗教の太陽崇拝の遺跡ではないかといわれている。このような刻印が、国内からヨーロッパにかけて太鼓島と同じ緯度の地で発見されており、その謎を解こうと考古学者らが研究している。
(写真は 太鼓島)


 
維盛の太刀落とし(太地町)  放送 4月25日(水)
飛島神社 太地町立くじらの博物館のある鷹ノ巣崎の北に浮かぶ岩礁が「太刀落とし」。平清盛の孫、平維盛が那智勝浦町の沖にある山成島から太地の水ノ浦に渡る途中、この付近で太刀を落としたと伝えられることからこのように呼ばれた。後にこの付近で維盛が落とした太刀ではないかと見られる太刀がえび網にかかり、太地の飛鳥神社に奉納され神社の宝物として保管されている。
 太地に上陸した維盛は、滝の水で身を清めたことから「みすすぎ」から「水ノ浦」の地名となった。身を清めた維盛はこの後、森浦、市屋から太田川沿いに山深い那智勝浦町色川に入り、この地に隠れ住んだと伝えられている。
(写真は 飛島神社)

鯨骨の鳥居(蛭子神社) 熊野地方や熊野灘は平家落人にまつわる伝説が多いところで、これもそのひとつのようだ。維盛は富士川の戦いで水鳥の羽音を敵兵の襲撃と勘違いして敗走したエピソードのある武将で、屋島の戦いで敗れて出家した。その後、那智の沖で入水したとの伝えもある。
 維盛の太刀が納められた飛鳥神社は太地の氏神で、土地の人は近親感を込めて「宮様」と呼んでいる。また、維盛が上陸した水ノ浦近くの森浦の蛭子神社には、鯨の骨の鳥居がある。江戸時代、井原西鶴が「日本永代蔵」の中で太地の鯨骨の鳥居に驚いたことを書いている。
(写真は 鯨骨の鳥居(蛭子神社))


 
鯨の町(太地町)  放送 4月26日(木)
鯨杯 古事記に「神武天皇に鯨の肉を奉った」との話が出ており、太地の捕鯨の歴史は古く、捕鯨発祥の地として有名である。本格的な捕鯨は慶長11年(1606)和田忠兵衛頼元が鯨をモリで刺して捕殺する刺手組を組織して、大々的な突捕漁法で成果をあげた。その後、鯨を網に追い込む網取り漁法を考案し、太地捕鯨は飛躍的な発展を遂げた。だが、明治11年(1878)捕鯨作業中に強風に見舞われ、百余人の犠牲者を出す大惨事もあった。
 その後、西洋式の捕鯨砲による近代的な捕鯨技術が発達し、太地沖への鯨の回遊も少なくなり太地捕鯨は衰退していった。だが、伝統の太地の捕鯨術は南氷洋捕鯨に生かされ、腕のよい砲手がキャッチャーボートの乗組員として南氷洋で活躍した。
(写真は 鯨杯)

捕鯨船資料館 1988年に商業捕鯨は中断され、太地の近海調査捕鯨も水産庁の厳しい監督のもとで細々と続けられてる。太地の人々の捕鯨に対する強い情熱は、捕鯨を観光に行かすことへ向けられ、昭和44年(1969)に町立くじらの博物館がオープンした。セミクジラやシャチなどの骨格の展示や古式捕鯨を映像で紹介したりしている。ほかに捕鯨に関する道具や資料を展示し、捕鯨のことなら何でもわかるというのが自慢。
 すぐそばには捕鯨船をそのまま陸にあげた捕鯨船資料館や博物館の付属施設として海洋水族館、ラッコ館などがあるほか、ショープールではイルカやシャチ、アシカなどの芸が楽しめる。
 捕鯨で生計をたててきた太地の人々は、鯨の霊を慰霊するため江戸時代には東明寺に鯨供養塔を建て、近年、梶取崎公園にくじら供養碑を建立し、毎年、くじら供養祭を行い、鯨の霊を慰めている。
(写真は 捕鯨船資料館)


 
南海の幸(那智勝浦町)  放送 4月27日(金)
勝浦漁港 延縄漁法による生鮮マグロ水揚げ日本一をを誇る勝浦港は土曜日をのぞく毎朝、マグロのセリ市が行われ活気がみなぎっている。1本100〜200kgの生きのよいマグロが、多いときには1日200〜300本並ぶ。尾の身を見てそのマグロの善し悪しを判断、競り落とす値段を決める。長年にわたる経験と勘がものを言う。競り落とされたマグロは京阪神や東京方面へトラックで運ばれ、料亭や料理店、家庭の食卓にのぼる。
 現在、勝浦港はマグロが水揚げの大部分を占めているが、かつてはサンマ漁が盛んでサンマの水揚げで活況を呈していた時もあった。JR紀伊勝浦駅前には佐藤春夫の「秋刀魚(さんま)の歌」の詩碑がある。
(写真は 勝浦漁港)

マグロの尾ひれ 勝浦港は遠洋マグロはえ縄漁業の基地として西日本では有数の漁港だが、マグロのほかに熊野灘の新鮮が魚介類も水揚げされ、勝浦温泉の観光旅館や家庭の食卓にのぼっている。
 刺し身やすしなどマグロは日本人にとっては最もなじみの深い深い魚である。赤身、大トロ、中トロとその部位によって味も違い、那智勝浦町内にも腕自慢の板前をそろえたマグロ料理の店が多い。町では“マグロ祭り”を行い、観光客らにマグロの消費拡大のPRもする。町内の料理店には刺し身やすしのほかに「マグロ汁」やマグロの頭をそのまま焼く「かぶと焼」などがある。また、目玉や尾ひれなども料理に利用され、捨てるところはほとんどないほどだ。
(写真は マグロの尾ひれ)


◇あ    し◇
東明崎JR紀勢線太地駅からバス平見公園下車徒歩10分。 
梶取崎JR紀勢線太地駅からバス梶取崎下車。 
飛鳥神社・東明寺JR紀勢線太地駅からバス太地町下車。 
蛭子神社JR紀勢線太地駅からバス森浦下車。 
くじらの博物館・捕鯨船資料館 JR紀勢線太地駅からくじらの博物館下車。
勝浦漁港JR紀勢線紀伊勝浦駅下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
太地町役場0735−59−2335 
太地町立くじらの博物館・捕鯨船資料館 0735−59−2400
飛鳥神社・蛭子神社0735−59−2502 
東明寺0735−59−2220 
那智勝浦町観光経済課0735−52−0555 
勝浦漁業協同組合0735−52−0951 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
   倶楽部入会の資料をご希望の方は、
 ハガキにあなたのご住所、お名前を明記の上、
          郵便番号 530−6691
          大阪市北区中之島センタービル内郵便局私書箱19号
                  「テレホンサービス係」
へお送り下さい。
   歴史街道倶楽部の概要を解説したパンフレットと申込み用紙をご送付いたします。
       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会