月〜金曜日 18時54分〜19時00分


歴史街道メインルート 奈良・東大寺 

 歴史街道メインルートシリーズ第4週は、日本を代表する大寺・東大寺に焦点を当てる。今年は大仏の開眼供養会が行われてからちょうど1250年にあたり、世界文化遺産の東大寺がクローズアップされる年である。奈良国立博物館では、日ごろ拝観することができない仏像など東大寺の国宝や重要文化財の名宝を公開する展覧会「東大寺のすべて」を2002年7月7日(月曜日休館)まで開催している。 


 
大仏開眼1250年  放送 4月29日(月)
 凶作による飢饉や悪疫の流行による政情不安に悩まされ、人心の安定を迫られていた聖武天皇は、天平15年(743)大仏造立の詔を発した。万物を永遠に照らし、人びとを救う大仏造立は国家の大事業となった。
 大仏造立は初め近江の紫香楽宮で始まったが、不安定な世情のため天平17年(745)都が再び平城京へ遷され、大仏造立作業も現在の東大寺の場所へ移動した。巨大な大仏は下から上に向かい8回に分けて銅と錫の合金を流し込む方法が取られた。鋳造に使われた銅は499トン、錫8.5トン、鍍金(ときん)に使われた金は440kg、水銀2.5トンと言われている。世界最大の金銅製大仏は総重量が250トンもあり、高さ(座高)15m、顔の長さ5.33m、耳の長さ2.54m、掌の長さ3m、中指は1.3m、頭にある渦巻き状の頭髪・螺髪(らほつ)は、直径22cm、高さ21cmもあった。

盧舎那物(国宝)

(写真は 盧舎那物(国宝))

大仏殿(国宝)

 造立作業は難航を極め、当時の日本の人口の約半分に当たる人びとが寄進や造立作業など、何らかの形で大仏造りに関わったとされている。詔が出されてから10年、本格的な造立作業が始まってから約4年の歳月をかけ、天平勝宝元年(749)金色まばゆい大仏が完成した。
 天平勝宝4年(752)聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇のほか貴族、高官らが出席して盧舎那大仏開眼供養会が行われた。聖武天皇の悲願だった大仏の開眼だけに、その儀式は日本に仏教が伝わって以来、最も盛大なもので、1万人の僧が会場に集まり、会場の外にも多くの人があふれた。インド僧の開眼師・菩提僊那(ぼだいせんな)が大仏に目を入れた瞬間、参列者から感激のどよめきが起こったと伝えられている。
 本尊・盧舎那仏を安置している大仏殿(国宝)は大仏開眼供養会に合わせて完成したが、戦乱の兵火で2度焼失した。戦国時代の混乱期には大仏殿再建の見通しが立たず、大仏は約130年間も雨ざらしになっていたが、徳川5代将軍・綱吉らの援助を受け宝永6年(1709)に完成したのが現在の大仏殿。

(写真は 大仏殿(国宝))


 
法華堂(三月堂)  放送 4月30日(火)
 三月堂とも呼ばれる法華堂は天平12年(740)から同19年(747)の間の創建と考えられる東大寺最古の建物。法華堂の建つ地は東大寺の前身の金鐘寺があったところで、歴史的に由緒のある場所である。この堂は前方の礼拝読経する礼堂(らいどう)と後方の正堂(本堂)が合わさった形の建物。
 現在の礼堂は鎌倉時代初めの正治元年(1199)に改築されているが、450年以上の時を隔てている二つの堂が絶妙の調和を見せている。不空羂索(ふくうけんさく)観音像を本尊とすることから羂索堂と呼ばれていたが、毎年3月に法華会が行われたことから法華堂、又は三月堂と呼ばれるようになった。

正堂(国宝・天平時代)

(写真は 正堂(国宝・天平時代))

不空羂索観音像(国宝)

 堂内中央の八角須弥壇に3mをこえる本尊・不空羂索観音像が安置され、その左右に日光、月光菩薩像、周りに梵天、帝釈天、不動明王、地蔵菩薩像など、不空羂索観音像と合わせて計16体の仏像がところ狭しと立ち並んでいる。このうち12体が国宝で、残り4体が重要文化財と言う天平彫刻の宝庫とも言える堂内である。これらの仏像の群像の前に立つと、時を超えた天平仏教美術の世界に浸り、厳かな気分になる。
 不空羂索観音像は高さ3.62mで、額には縦に三眼の目、合掌した手の背後に6本の腕を持つ三目八臂(さんもくはっぴ)の姿をしている。羂索は古代インドの狩猟具でひもをよって索にしたもので、この投げ縄の羂索で衆生の悩みを救済してくださる仏様である。

(写真は 不空羂索観音像(国宝))


 
法華堂の仏たち  放送 5月1日(水)
 法華堂内には国宝、重要文化財の16体の仏像が立ち並んでいる。いずれもわが国の天平時代を代表する仏像ばかりで、天平仏教美術の最高傑作の至宝を一堂で拝観することができる。
 本尊・不空羂索(ふくうけんさく)観音像の両脇に立つ日光菩薩像と月光菩薩像は、細目でふっくらと優美な面立ち、やさしく語りかけるような表情で人びとの悩みや迷いを救い、怒りを鎮めてくれる。手にした羂索で人びとを悩みから救い、悟りの世界へ導いてくれる本尊の不空羂索観音像のご利益と相まって訪れた人たちの心を魅了してしまう。

左・月光菩薩立像(国宝),右・日光菩薩立像(国宝)

(写真は 左・月光菩薩立像(国宝),右・日光菩薩立像(国宝))

秘化執金剛神立像(国宝)

 日光、月光両菩薩像の穏やかな表情とは対照的なのが、忿怒(ふんぬ)の相をあらわにした金剛力士阿形(あぎょう)像、怒りを内に秘めた金剛力士吽形(うんぎょう)像である。仏法に災いする者に金剛杵(こんごうしょ)で一撃を加えようとする秘仏・執金剛神(しゅこんごうじん)像は、本尊・不空羂索観音像の背後にある壁で隔てられた厨子内に北面して立っている。仏法を護るための神通力を持っている神とされ、国の非常時にはこの執金剛神像の前で怨敵調伏(おんてきちょうふく)の祈りがささげられた。右手に持っている金剛杵からこの名がつけられている。
 法華堂内にはこのほか梵天像、帝釈天像、不動明王像、地蔵菩薩像、弁財天像、吉祥天像、増長天像、持国天像、広目天像、多聞天像が不空羂索観音像を取り囲むようにして立ち並んでおり、厳かな雰囲気を醸し出している。

(写真は 秘化執金剛神立像(国宝))


 
戒壇堂  放送 5月2日(木)
 中国・唐の僧・鑑真和上が日本に招かれ、天平勝宝6年(754)大仏殿前に戒壇を築き、わが国で初めて正しい戒律を伝えた。この時、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇をはじめ多くの人びとが鑑真和上から受戒した。この戒壇の土を移して造営したのが戒壇院で、鑑真和上を住まわせた。創建当時の戒壇院は戒壇堂(金堂)、講堂、僧坊、食堂などからなる伽藍を形成していたが、平安、室町時代の2度の兵火で炎上し、現在は江戸時代に再建された千手堂、戒壇堂、庫裏だけになった。
 東大寺に戒壇が築かれた後、天平宝字5年(761)に下野国(栃木県)の薬師寺、筑紫国(福岡県)の観世音寺にそれぞれ戒壇が設けられ、東大寺の戒壇と合わせて「天下の三戒壇」と呼ばれた。戒壇が設けられてからは「天下の三戒壇」のいずれかで、受戒しない限り正式の僧として認められなくなったので、東大寺の戒壇堂からも多くの僧が受戒を終えて巣立って行った。

広目天像(国宝)

(写真は 広目天像(国宝))

持国天像(国宝)

 戒壇堂内には仏法の守護神である四天王像が、東西南北のそれぞれの方角に安置されている。いずれも天平時代の塑像を代表するものとして有名な像で、四天王像とも甲(よろい)で身を固め邪鬼を踏まえている。カッと目を見開き口を開いて戟(げき)持った増長天。
身を見開き口を一文字に結び剣を握る持国天。眉を寄せ目を細めてにらみ筆と巻子本(かんすぼん)を両手に持つ広目天。細い目で見つめ右手に多宝塔を捧げる多聞天。どの武将もその目は鋭く、真実を見抜くかのようでその前に立つ者は気圧される。
 この四天王像は写実的な天平彫刻の傑作で、全身に彩色文様の跡があり、天平時代に花開いた崇高な仏教美術の華麗さをしのばせている。

(写真は 持国天像(国宝))


 
東大寺夕景  放送 5月3日(金)
 昼間は大勢の観光客や修学旅行の生徒らでにぎわう東大寺。その境内から人影が少なくなるたそがれ時に訪ねると、また一段と味わい深いものがある。
 毎年、古都奈良に春を告げるお水取りの舞台として有名な二月堂は山の斜面に建っている。その舞台から見下ろすと、生駒山に沈む夕日に照らされた奈良の市街地を向こうにして、前方の大仏殿の甍(いらか)が輝き、やがてシルエットになって薄闇にまぎれていく。
この二月堂からの夕日の眺めが東大寺では秀逸だと折り紙をつける人、この景色をカメラに収めるカメラマンも多い。

二月堂(重文)

(写真は 二月堂(重文))

金剛力士像阿形(国宝

 7月から10月までの間、日が沈むと大仏殿、中門、南大門がライトアップされる。
ライトの光を受けて夜空に浮かびあがる大仏殿は、昼間とは異なった荘厳な雰囲気を醸し出し、夕涼みがてらにそぞろ歩きする人たちは夏の夜に見せる東大寺の姿を楽しんでいる。
 8月15日の東大寺万燈供養会は大仏さんに燈火を供え、諸霊を供養する東大寺のメイン仏事。大仏殿周囲の石畳には約2000基の灯ろうが並び、幻想的な雰囲気の中で大仏殿の窓が開かれ、外から大仏さまの夜の顔が拝めるのはこの日だけである。また、この夜は午後7時から午後10時まで大仏殿が開放され無料参拝ができ、夜の大仏殿の中の雰囲気を肌で感じ取ることができる。

(写真は 金剛力士像阿形(国宝)


◇あ    し◇
東大寺JR大和路線奈良駅、近鉄奈良線奈良駅から市内循環バス大仏殿・春日大社前下車。 
近鉄奈良線奈良駅下車徒歩15分。
◇問い合わせ先◇
東大寺0742−22−5511 
奈良国立博物館0742−22−3331 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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