月〜金曜日 18時54分〜19時00分


歴史街道メインルート 宇治〜京都 

 都が奈良・平城京から長岡京を経て京都・平安京へ遷され、歴史の舞台は奈良から京都へと移る。歴史街道メインルートシリーズ第5週は、宇治や歴史の節目に必ず登場する京都・伏見、そして古刹、名刹が多い東山へかけてを訪ねた。


 
平等院(宇治市)  放送 5月6日(月)
 宇治市のシンボル・平等院は、平安時代中期の永承7年(1052)関白・藤原頼通が父・道長の別荘を寺院に改めて創建し、平等院と称した。翌年の天喜元年(1053)本尊・阿弥陀如来像(国宝)を安置する阿弥陀堂(国宝)が建立された。これが今に残る鳳凰堂である。その後も藤原頼通一族らによって諸堂が建立され、華麗な大寺院となった。
現在は鳳凰堂、観音堂、鐘楼などを残すのみとなったが、鳳凰堂は天喜元年の創建当時ままの華麗な姿を見せており、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。
 鳳凰堂は正面からの姿が羽を広げた鳥のように見え、屋根の棟飾りに一対の金銅製の鳳凰が飾られていることから鳳凰堂と呼ばれるようになった。周囲の阿字池とマッチした姿は末世、末法の世の始まりと言われたこの時代に、時の最高権力者だった藤原頼通が、極楽浄土の宮殿の具現を意図して造営したものと言われている。当時、境内に建ち並ぶ諸堂が、落日の夕日に照らし出された光景はこの世の極楽浄土を思わせたであろう。

鳳凰堂

(写真は 鳳凰堂)

雲中供養菩薩像

 鳳凰堂の本尊・阿弥陀如来坐像は鳳凰堂と同じ天喜元年の造立。当時、仏師として最も名声の高かった定朝(じょうちょう)の作で、現存する定朝の確実な作はこの像のみと言われている。この像は定朝が考案した寄木造りで、外来文化の影響を受けない和様の美しさを表しており、わが国の阿弥陀如来像の完成品とまで言われている。
 雲中供養菩薩像は、鳳凰堂内部の四方のなげし上の壁にある52体の像。このうち51体が国宝で本尊の阿弥陀如来を供養しており、雲に乗って合掌したり、印を結んだり、楽器を奏でたり、舞を舞ったりするなど、さまざまな菩薩像が彫り出されており、本尊と同じ天喜元年に造立された。
 平等院の出口から宇治川の川岸の方へ降りると宇治市営の茶室「対鳳庵(たいほうあん)」があり、一服の抹茶が楽しめる。

(写真は 雲中供養菩薩像)


 
宇治上神社(宇治市)  放送 5月7日(火)
 平等院と宇治川をはさむ対岸の仏徳山の山麓にある宇治上神社は、派手な色彩のない神さびた雰囲気の神社で、平等院と同時にユネスコの世界文化遺産に登録された。国宝の本殿は平安時代中期の建立と推定され、現存する神社建築では最古のものとされている。
この本殿は非常に特徴的で、一間社流造の社殿三棟が大きな建物の覆屋(おおいや)の中に祭られている。三棟とも覆屋で保護されているので保存状態はよく、平安時代の神社建築の特色をよく表している。対岸の平等院鳳凰堂と同じ時期の建立と見られている。
 三つの本殿は左が宇治の地名の由来となった菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、中央がその父・応神天皇、右が兄・仁徳天皇となっている。

縋破風(すがるはふ)

(写真は 縋破風(すがるはふ))

桐原水

 菟道稚郎子は幼少のころから聡明で、父・応神天皇から愛され兄を越えて皇太子となった。応神天皇の崩御後、皇位を後に仁徳天皇となった兄・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)に譲ろうとしたが、兄は父の遺志に背くとこれを固辞したため、3年間にわたって皇位は空位となってしまった。これを憂いた菟道稚郎子が「久しく生きて天下を煩らわさむ」と自害して兄に皇位を継がせた。宇治上神社付近は、古くは応神天皇の離宮や菟道稚郎子の桐原日桁宮(きりはらのひけたのみや)があった所とされている。
 本殿の一段下の拝殿も国宝で切妻造桧皮葺きで、左右にひさしを出し軒の隅を結ぶのに縋破風(すがるはふ)を用い、中央には板唐戸、左右に蔀戸(しとみど)があり、周囲に縁をめぐらした特徴的な建物で、宇治離宮の遺構を伝えている寝殿造形式の住宅建築となっている。鎌倉時代前期の建立と推定されるが、宇治離宮「宇治院」の建物が下賜されたのではないかとも言われており、当時の優れた匠の手によることがうかがえる。
 境内にある「桐原水(きりはらすい)」は、宇治七名水のひとつに数えられていたもので、他の六名水がなくなった現在、残っている唯一のものである。

(写真は 桐原水)


 
宇治の茶づくし(宇治市)  放送 5月8日(水)
 宇治の名産は何と言っても茶である。茶は中国南部の雲南省付近が原産地で、鎌倉時代初め栄西禅師が茶の種を中国・宋から持ち帰ったのが、日本での本格的な茶の栽培の始まりとされる。京都栂尾・高山寺の明恵上人が栄西禅師から茶の種を譲り受け境内で栽培すると共に、気候、土質が茶の栽培に適した宇治を選んで植えたのが宇治茶の始まり。今も宇治の茶業者が毎年、新茶を高山寺の上人の御廟に献茶している。
 室町時代にはいり茶道が興隆し、喫茶の風習が貴族、武士、僧侶の間に広まった。足利3代将軍・義満は「宇治七名園」と呼ばれる茶園を作っている。江戸時代には宇治茶が徳川将軍や各地の大名に献上された。中でも将軍に献上されるお茶の行列は「お茶壺道中」として有名で、大名行列も道を譲ったほど格式の高いものだった。「ズイズイズッコロバシゴマミソズイ 茶壺に追われてドッピンシャン 抜けたらドンドコショ…」の童謡は、お茶壺道中にあわてふためく様子を歌ったものである。

お茶壺道中

(写真は お茶壺道中)

辰巳屋・抹茶料理

 平等院近くに茶に関する資料を展示している上林記念館がある。安土桃山時代に海外から渡来した呂宋(ルソン)壺や徳川将軍に献上するお茶を壺に詰める作業やお茶壺道中を描いた絵、茶の歴史、茶の製法など、茶に関する知識を得ることができる。記念館の建物は宇治茶の生産、流通を支配したきた茶師で、戦国時代からの歴史がある上林家の長屋門を転用した。上林家は元は京都・丹波上林郷(綾部市)の出身で、戦国時代の永禄年間に宇治に移住し、茶の生産を始め、茶業界で重要な地位を占めるようになった。
 宇治茶は全国に占める生産量は少ないが、抹茶、玉露、煎茶が主製品で、その歴史の古さと品質の高さを売り物にしている。今は宇治茶を多方面に活用し、宇治の平等院や万福寺、源氏物語の宇治十帖の旧跡を訪ねる観光客らに茶だんご、茶そば、抹茶料理など、茶をさまざまな形でアレンジしたものを賞味してもらっている。これらは若い人たちの間でも人気を集め、ほのかな茶の香りと味が楽しめる。

(写真は 辰巳屋・抹茶料理)


 
京の酒どころ(京都市)  放送 5月9日(木)
 伏見郷の鎮守社・御香宮(ごこうのみや)神社は、平安時代初期の貞観4年(862)に境内から香りのよい水が湧き出たので、清和天皇から「御香宮」の名を賜ったと言う由緒ある神社。
 この御香水は飲めば病気が治るという薬用の霊験もあり、今も水を汲みに来る人びとが絶えない。特に元日の若水汲みには長い行列ができるほどだ。一時、水が涸れたが昭和57年(1982)井戸を掘り下げて再び水が湧き出るようになった。
 この神社は豊臣秀吉や徳川幕府の崇敬を受け、本殿(国・重文)は徳川家康が造営し、表門(国・重文)は水戸徳川家の家祖・頼房が伏見城の大手門を移築、紀州徳川家の家祖・頼宣は拝殿と石鳥居を寄進している。また、秀吉が朝鮮出兵の際、戦勝を祈願して奉納した太刀(国・重文)など、当時の権力者との関わりを示すものが多い。

御香宮神社・御香水

(写真は 御香宮神社・御香水)

月桂冠大倉記念館

 伏見の地名は“伏水”からきたと言われ、豊富で良質な地下水は御香宮神社の御香水と同じ水脈と言われている。伏見ではこの良質の水と盆地特有の冬の寒暖の差を利用しての酒造りが盛んになり、兵庫・灘と並ぶ酒どころとなった。今も宇治川の支流沿いには酒蔵が並び、その風景は昔ながらの情緒を醸し出している。
 白壁土蔵の酒蔵が並ぶ一角にある「月桂冠大倉記念館」では、酒蔵の歴史や酒造りの工程を見せてくれる。江戸時代初期の寛永15年(1637)創業の蔵元・月桂冠が、明治42年(1909)に建築された古い酒蔵を改装して昭和62年(1987)にオープンしたのがこの記念館。
 館内には京都市の有形民俗文化財に指定されている酒造用具6120点のうち、代表的な用具約400点を展示している。玄関を入ると昔の帳場があり、酒造の工程順に用具が並んでいる。酒樽を作る道具や明治、大正時代の酒のPR用品、明治時代末に駅売りとして売り出されたコップ付きの小びんなど、懐かしい品々ががいっぱい並んでいる。酒香房では酒造りの様子が年間を通じて見られ、きき酒もできる。

(写真は 月桂冠大倉記念館)


 
泉涌寺(京都市)  放送 5月10日(金)
 東山三十六峰の月輪山山麓の泉涌寺(せんにゅうじ)は、大門から広い境内の諸堂の屋根を見下ろせる珍しい造りになっている。天長年間(824〜834)弘法大師がこの地に庵を結び法輪寺と名づけたのが始まりで、後に仙遊寺と改称された。建保6年(1218)月輪大師が中国・宋の法式を取り入れて大伽藍(がらん)を造営した。この時、境内の一角から湧き出た泉から泉涌寺と改められた。今もこの泉は尽きることなく湧き出ており、この泉を覆う屋形は仏殿と同じ寛文年間(1661〜73)のものと言われている。
 創建当時の諸堂は応仁の乱の兵火でほとんど焼失した。徳川4代将軍・家綱によって再建された重層入母屋造の本堂の仏殿(国・重文)は唐様建築の代表作だと言われている。仏殿内の釈迦、阿弥陀、弥勒の三尊仏は運慶作と伝えられ、三世にわたって人類の安泰と幸福を祈る人びとの信仰を集めている。

泉涌寺水屋形

(写真は 泉涌寺水屋形)

御座所庭園

 観音堂の楊貴妃観音座像(国・重文)は、中国・唐の玄宗皇帝が亡き妃の冥福を祈って彫らせた像と言われ、月輪大師の弟子・湛海によって宋から日本へ持ってこられた宋様式寄木造の等身像。美人の代表と言われる楊貴妃像だけに人の心をとらえて離さない美しい姿をしている。
 泉涌寺は別名「御寺(みてら)」とも呼ばれ、皇室の香華院として信仰を集めた。仁治3年(1242)四条天皇が泉涌寺に埋葬されてから歴代の天皇、皇后、親王がこの寺の境内の御陵に葬られることが多く、ここから「御寺」の呼び名が生まれた。境内奥に四条天皇ら12人の天皇の月輪十二陵、後光厳天皇ら3人の天皇の泉涌寺陵、光格天皇ら2人の天皇の後月輪陵、孝明天皇の後月輪東山陵、英照皇太后の後月輪東山東北陵などがある。

(写真は 御座所庭園)


◇あ    し◇
平等院、対鳳庵、上林記念館京阪電鉄宇治線宇治駅、JR奈良線宇治駅下車徒歩15分。 
宇治上神社京阪電鉄宇治線宇治駅下車徒歩10分。JR奈良線宇治駅下車徒歩20分。 
御香宮神社京阪電鉄伏見桃山駅、近鉄京都線桃山御陵前駅下車徒歩3分。 
月桂冠大蔵記念館京阪電鉄中書島駅下車徒歩5分。近鉄京都線桃山御陵前駅下車徒歩10分。 
泉涌寺JR奈良線、京阪電鉄東福寺駅下車徒歩15分。市バス泉涌寺道下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
宇治市役所商工観光課0774−22−3141 
宇治市観光協会0774−23−3334 
平等院0774−21−2861  
対鳳庵(宇治市営茶室)商工観光課又は観光協会。 
宇治上神社0774−21−4634 
上林記念館0774−22−2513 
御香宮神社075−611−0559 
月桂冠大蔵記念館075−623−2056 
泉涌寺075−561−1551 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会