月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都・大山崎町 

 天王山と言えば羽柴秀吉と明智光秀が天下分け目の山崎の合戦をした古戦場で有名。その天王山がある大山崎町は京都府と大阪府の境にあり、町内には天下分け目の戦いにまつわる史跡や社寺のほかにも文化財が多い。美しい竹林から生産される日本一の味を誇る「乙訓のタケノコ」の産地でもある。初夏の新緑が濃い大山崎町の天王山とその周辺を訪ねた。


 
秀吉の道  放送 5月12日(月)
 天王山(標高270.4m)は摂津と山城の国の境にあって京都の出入口に位置している。天王山と淀川が迫り最も狭い所ではわずか200mしかない。こうした大山崎の地形が軍事、交通の要衝とされ古くから何度も戦場となった。
 その中でも天正10年(1582)本能寺で主君・織田信長を倒した明智光秀と信長の弔い合戦に駆けつけた羽柴秀吉が激突した山崎の合戦が最も有名。この時、両軍が天王山の占領を争い、秀吉が天王山へ駆け登りってこの要衝を押さえ、戦いは羽柴軍の勝利に終わった。この合戦に敗れた光秀は近江へ落ち延びる途中、山科の小栗栖村で住民に襲われて死亡、光秀の三日天下と言われた。

天王山

(写真は 天王山)

「秀吉の道」陶板サイン

 この山崎の合戦が戦国時代の歴史を大きく変えたことから、後世には勝敗の分かれ目を“天王山”と言うようになった。天王山への登山道は今、歴史がしのべるハイキングコースとなっており、天王山山麓のアサヒビール大山崎山荘美術館から宝積(ほうしゃく)寺、三川合流展望広場、旗立松展望台、酒解(さかとけ)神社を経て山頂までの道を「秀吉の道」と名付けている。
 「秀吉の道」には、秀吉の天下取りを解説した6枚の陶板が設けられている。陶板は高さ1.8m、幅5mで、日本画家・岩井弘氏が合戦の模様を迫力あるタッチで屏風絵に描き、作家で元経済企画庁長官の堺屋太一氏が斬新な文章で秀吉の歩んだ道を解説している。

(写真は 「秀吉の道」陶板サイン)

 天王山に残る城跡は、羽柴秀吉が天下分け目の戦いで勝利したあと築城した山崎城(別名宝寺城)で、秀吉は天下統一の第一歩をこの城から踏み出した。
 天王山の頂上近くにある旗立松は、天王山をいち早く奪取した秀吉が、千成り瓢箪(ひょうたん)の旗印をこの松の木の上に高く立てて味方の士気を高め、戦いを勝利に導いたと言われている。当時の松は明治時代末ごろまで枯れ木ままの姿で残っていたが、その後新しい松が植樹され現在の松は6代目。旗立松のそばには展望台が設けられ、眼下に羽柴、明智の両軍が戦った古戦場が眺められる。

旗立松

(写真は 旗立松)


 
山に宿る神  放送 5月13日(火)
 天王山の中腹に美しい姿の三重塔(国・重文)が見えるのが、大黒天の打出と小槌で財福のご利益があると信仰を集めている宝積(ほうしゃく)寺、通称宝寺である。
この三重塔は山崎の合戦に勝利した羽柴秀吉が、一夜にして建立したとの伝説があり「一夜之塔」とも呼ばれている。桃山時代の特色をよく表した美しい姿の塔で、現在の塔は江戸時代初期の慶長9年(1604)に建立されたものである。
 宝積寺は奈良時代の神亀元年(724)聖武天皇の勅命で行基が建立し、中国・唐から伝えられたと言われる打出と小槌を聖武天皇が奉納したとの伝承がある。

宝積寺・三重塔(重文)

(写真は 宝積寺・三重塔(重文))

閻魔大王と眷属(重文・鎌倉時代)

 一般には財宝を打ち出すのを「打出の小槌」を言っているが、宝積寺のものは打出と小槌がそれぞれあり、打出は弁財天神、小槌は大黒天神の神器とされている。境内の小槌宮に大黒天と一緒にまつられている打出と小槌による財福、繁栄のご利益を求める参拝者でにぎわい、平安時代には多くの塔頭、子院を持つ大寺だった。
 境内の閻魔(えんま)堂に安置される閻魔大王像(国・重文)と眷族(けんぞく)像(国・重文)は、13世紀中期の作と見られ、その作風の評価は高い。わが国の閻魔大王像としては屈指の大像で、大王とその眷族の司録(しろく)菩薩、司命(しめい)菩薩の三体がそろっている点でも貴重だとされている。

(写真は 閻魔大王と眷属(重文・鎌倉時代))

 宝積寺から天王山の頂上へ向かうと「山崎合戦之地」の石碑が立っている所がある。その傍らの展望台から見下ろすと羽柴軍と明智軍が天下分け目の戦をした古戦場が広がり、目を転ずれば木津川、宇治川、桂川が合流して淀川となる三川合流の地域が望まれる。
 この近くの酒解(さかとけ)神社は長岡京遷都の時、橘氏が祖神を勧進して創建したとされている。正式名は自玉手祭来酒解(たまてよりまつりきたるさかとけ)神社と言う古社で、人の気配もなく神さびた空気が漂う。この神社の神輿庫(みこしぐら=国・重文・鎌倉時代)は、三角形の木を積み上げる校倉(あぜくら)形式ではなく、厚さ12cmの厚板を積み上げた珍しい校倉形式で、現存するこの形式の校倉遺構としては最古のものである。

酒解神社・神輿庫(重文・鎌倉時代)

(写真は 酒解神社・神輿庫(重文・鎌倉時代))


 
旬を食す  放送 5月14日(水)
 乙訓地方の西部、天王山の山麓一帯に広がる竹林は、地元の人たちが「日本一の味」と自慢する「乙訓の筍(たけのこ)」の名産地として知られている。筍が食用に供されるようになったのは江戸時代中期以降で、食料として注目された明治時代に増産が図られた。
 筍を産する孟宗竹(もうそうちく)は中国の江南地方が原産で、鎌倉時代に曹洞宗を開いた道元禅師が中国から持ち帰り、長岡京市の海印寺寂照院に植えたのがわが国での栽培の始まりとの伝えがある。史料では日本への渡来は江戸時代中期に島津藩へ入ったのが最初のようで、その後全国へ広がり、乙訓の寂照院付近にもこのころに移植されたようだ。

筍

(写真は 筍)

三浦芳次郎顕彰碑

 孟宗竹は初め竹の美しさを眺める観賞用だったが、後に筍を食用とするようになり、おいしい筍を生産するために竹林の手入れや栽培方法に工夫が凝らされるようになった。筍掘りは独特の道具を使って土中の筍を傷めないように掘りあげる。筍の新鮮味を失わない早朝の朝掘りが一般的だが、最近は鮮度を保つために活性炭を詰めて出荷するようになり、午後に掘る宵掘りでも鮮度が落ちなくなった。
 明治時代に入って筍が生産過剰になり値崩れが起きた時、旧円明寺村の三浦芳次郎が鉄道を利用して筍の販路を広島や名古屋方面にまで広げ、乙訓の筍の危機を救った。
その功績をたたえ明治26年(1893)に現在の大山崎町円明寺に顕彰碑が建立された。

(写真は 三浦芳次郎顕彰碑)

 乙訓の筍は非常に柔らかく淡泊な味が特徴で、このためゆがく時間も短く、さまざまな形でいただける筍料理はまさに旬の味。筍は京料理の代表的食材で、他の食材との組み合わせで料理のバリエーションが広がる。旬の味としてグルメに喜ばれ料理人の腕の見せどころである。淡泊な味の料理を好む関西人の舌にあった料理の食材で、新緑の初夏にもてはやされる料理のひとつである。
 大山崎町の老舗の料理旅館・三笑亭は四季の旬の食材を使った天ぷら料理が自慢で、中でも日本一の味を誇る地元、乙訓の筍を使った天ぷらなどの筍料理は三笑亭自慢の初夏の逸品。

三笑亭

(写真は 三笑亭)


 
妙喜庵  放送 5月15日(木)
 妙喜庵は室町時代の連歌師・山崎宗鑑が隠棲した草庵で、これを東福寺の僧・春嶽禅師が譲り受け臨済宗の寺院にし、国宝の茶室・待庵(たいあん)があることで名高い。山崎合戦の時、羽柴秀吉が千利休を呼んで茶室を造らせ、茶を陣中の慰めとしたと言う。この茶室を後に解体して妙喜庵に移したのが待庵。利休が独特の構想で建てた唯一の遺構で、現存する茶室では日本最古である。
 国宝の茶室はこの待庵のほかに如庵(犬山市有楽苑)、密庵(京都市大徳寺竜光院)の三つだけである。また、これまでの茶室は四畳半だったが、それをさらに狭くしたもので小間の茶室の原点と言われている。

千利休像

(写真は 千利休像)

待庵(国宝・桃山時代)

 室内はたった2畳の空間だが、部屋の隅の壁を丸く塗り込めて狭い室内を広くみせているほか、随所に工夫が凝らされ、わび、さびの心を表した利休の心の宇宙とも言えよう。
 淀川のヨシを使った壁の下地に壁土を塗らず、そこを窓にした下地窓は農家の窓をヒントにしたようだ。また茶室に窓が作られたのは待庵が初めてで、室内の明るさを考えてのこととされている。にじり口はやや広く、淀川の屋形船の入口を参考にしたと考えられている。室内の壁は壁土にまぜるワラを壁の表面に出した塗り方で、これによってわびの心を出そうとしたのであろう。

(写真は 待庵(国宝・桃山時代))

 また妙喜庵書院(国・重文)は開山の春嶽禅師が創建した室町時代の書院造りで、仏間正面には聖観音像、左に利休像が安置されている。一説には山崎宗鑑の住居を移したとも伝えられている。この書院は柱などの用材は細い木材を使っているが、強度を十分に持たせたところに特徴がある。縁側にある「妙喜庵」の額は、東福寺南宗流と言う書道の流派の開祖が書いたとされている。
妙喜庵はJR、阪急電鉄の駅前にあり、国宝、重要文化財の建物がある寺とは気づかないが、一歩境内へ足を踏み入れると別世界のような雰囲気がある。妙喜庵の拝観は往復はがきで1ヶ月前に申し込みが必要で、後日、拝観日が連絡される。拝観は大学生以上の大人で、高校生以下は拝観できない。

書院(重文・室町時代)

(写真は 書院(重文・室町時代))


 
悠久の里  放送 5月16日(金)
 天王山の北東山麓の大山崎町円明寺(旧円明寺村)はのどかな田園風景が広がる地域で、薬師三尊をまつって地元の信仰を集めている円明教寺がこの地にある。奈良時代末期の修験僧・泰澄が創建した寺と伝えられ、当初は円明寺と称していたが、いつの時代からか円明教寺と改称した。その後寺は一時荒廃し、平安時代中期、一条天皇の時代(986〜1011)に小野僧正・仁海が中興したと言われる。
 この周辺は住宅団地の開発が進み大阪、京都のベッドタウンとなっているが、まだ円明教寺付近は天王山山麓の静かで豊かな自然が残っている。

円明教寺

(写真は 円明教寺)

お茶屋池

 西園寺公経は鎌倉幕府との強いつながりで京都政界の中心人物となり、権力と財力を備え太政大臣を務めた。公経が寛喜2年(1230)この円明教寺を譲り受け、現在お茶屋池と呼ばれている池を配し、寺の境内を取り込んだ広大な「円明山荘」を造営した。公経が造った多くの庭園の中で、現在もその面影を伝えているのは「金閣寺の庭園」と「お茶屋池」だけとなっている。
円明山荘はその後、公経の娘婿・九条道家に譲られ、さらにその四男で一条家の始祖・一条実経に伝わった。実経は関白、摂政を歴任、当時の政界の中心人物で、花鳥風月の道にも通じ、当時の最高の文化人と言われ円明寺関白とも号した。

(写真は お茶屋池)

 実経は関白を辞任した後の晩年をこの円明教寺で過ごしている。実経没後になるが、風光明媚なこの山荘に伏見法皇、後伏見院が行啓して一日を楽しんでいる。戦国時代には京都周辺での戦乱に巻き込まれ、たび重なる兵火で焼かれ衰退し現在に至った。今、平安時代の壮大な寺院をしのぶものは、当時の大門があったと思われる場所に建つ山門や広大な庭園の池だったお茶屋池などとなっている。
 本堂には本尊・薬師如来座像、日光、月光両菩薩像の薬師三尊が安置されているほか、地蔵菩薩像、毘沙門天像もまつられ、地元の人たちは「お薬師さん」「お地蔵さん」と親しみを込めて呼び、信仰している。

本尊・薬師如来坐像

(写真は 本尊・薬師如来坐像)


◇あ    し◇
天王山JR東海道線山崎駅、阪急電鉄京都線大山崎駅下車徒歩40分。
宝積寺JR東海道線山崎駅、阪急電鉄京都線大山崎駅下車徒歩10分。
酒解神社JR東海道線山崎駅、阪急電鉄京都線大山崎駅下車徒歩30分。
三笑亭(料理)JR東海道線山崎駅、阪急電鉄京都線大山崎駅下車徒歩2分。 
妙喜庵JR東海道線山崎駅、阪急電鉄京都線大山崎駅下車徒歩2分。 
円明教寺、お茶屋池阪急電鉄京都線長岡天神駅からバス円明寺団地下車徒歩10分。
大山崎町歴史資料館JR東海道線山崎駅、阪急電鉄京都線大山崎駅下車徒歩3分。 
◇問い合わせ先◇
大山崎町役場075−956−2101 
大山崎町歴史資料館075−952−6288 
宝積寺075−952−2318 
三笑亭075−956−0217 
妙喜庵075−956−0103 
円明教寺075−957−5521 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

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     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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