月〜金曜日 18時54分〜19時00分


桜井市 

 桜井市は古代からの文化財の宝庫である。箸墓古墳をはじめ古い前方後円墳が集まっており、邪馬台国の有力候補地にあげられている。飛鳥時代の宮跡も数多くあり、大和朝廷の中心地であったことを物語っている。また、三輪山を御神体とする大神神社など古社寺も多い。市街地の東側山麓の日本最古の道・山の辺の道はハイカーの人気が高い。こんな桜井市を訪ねてみた。


 
長谷寺  放送 6月16日(月)
 真言宗豊山派の総本山・長谷寺は、朱鳥元年(686)に天武天皇の病気平癒を祈願して、飛鳥・川原寺の道明上人が西の岡(現・五重塔付近)に千仏多宝塔を建立したのが始まりと伝えられ、これを本長谷寺と言う。その後、聖武天皇の勅願により神亀4年(727)徳道上人が東の岡に一宇を建立し、十一面観世音菩薩立像を安置したのが現在の長谷寺。徳道上人は観音信仰に篤く、西国三十三ヶ所観音霊場巡礼の開祖ともされている僧である。
 仁王門から本堂までは、399段の石段からなる長い登廊(国・重文)が続く。登廊の天井には気品のある長谷型灯籠がつり下げられている。この登廊や本堂の建築美はこの寺ならではのものである。

登廊

(写真は 登廊)

十一面観世音菩薩立像

 本尊の十一面観世音菩薩立像(国・重文)は長谷型観音と言われ、観音菩薩と地蔵菩薩の徳を持ち合わせた霊験あらたかな観音さま。高さ10m余りもある現在の本尊は天文7年(1538)にクスノキの霊木で造られたわが国最大の木造仏。右手に錫杖と念珠、左手に蓮華を挿した水瓶を持った姿には慈悲深さが表れている。
 初瀬山中腹の断崖絶壁に建つ本堂(国・重文)は懸かり造りと言われ、京都・清水寺のように外舞台が崖の上に突き出た建築方式である。木造では東大寺大仏殿に次ぐ大建築の一つとされている。現在の本堂は慶安3年(1650)徳川3代将軍家光の寄進によって再建された。
本堂以外の建物は明治44年(1911)の火災で焼失後、大正年間に再建されたものである。

(写真は 十一面観世音菩薩立像)

 本堂の舞台から眺める四季の景色は素晴らしく、特に春の桜、初夏の新緑、秋の紅葉が参拝者の目を楽しませている。また長谷寺はボタンの寺とし有名だが、6月はアジサイの清楚な美しさに目が洗われる。境内の150種7000株のボタンは、中国・唐の皇妃・馬頭夫人が献木したことから始まったと言われる。本尊への供花と境内の荘厳花として栽培されるようになり、このボタンが咲き競うゴールデンウイークには、毎年ボタン見物の参拝者が絶えない。
 平安時代、貴族たちの間で観音信仰の初瀬詣が流行し、女御たちが長谷寺をたびたび参詣しており「源氏物語」「枕草子」「更級日記」「蜻蛉日記」などにその様子が描かれている。

五重塔

(写真は 五重塔)


 
談山神社  放送 6月17日(火)
 桜井駅からバスで約30分、多武峯(とうのみね)の談山神社は「関西の日光」と言われ、秋の紅葉が燃えるころは大変な人出でにぎわうが、普段はひっそりともの静かな神社である。
 ここは大化の改新の一方の主役・藤原鎌足(614〜669)の墓所で、鎌足を祭神とする神社である。鎌足は天智8年(669)に没し、摂津国の阿威山(現・茨木市)に葬られた。中国・唐に留学していた鎌足の長男・定慧が帰国して遺骨を多武峯に移し、十三重塔を建てその下に葬り妙楽寺と称した。別に大織冠廟(たいしょくかんびょう)=鎌足廟=を建てこの拝所を護国院とし、この二つを合わせて多武峯寺としたのが談山神社の起こり。

藤原鎌足画像

(写真は 藤原鎌足画像)

本殿

 現在の十三重塔(国・重文)は享禄5年(1532)に再建された。高さ約17m、木造十三重塔としてはわが国で唯一のもので、鎌足の塔婆である。
 南北朝時代に南朝方の拠点となったため、全山焼き払われる災禍にあった。明治維新の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で仏教色を一掃し、一山あげて神社に転じ談山神社となる。旧寺の聖霊殿が神社本殿(国・重文)、護国院が拝殿(国・重文)、常行三昧堂が権殿(国・重文)に変わった。
 朱塗りの極彩色が木々の緑と鮮やかな対象を見せている本殿や木造十三重塔が四季折々の自然に調和し、素晴らしい景観を創り出す。特に秋の紅葉のころには一幅の絵のような景色となり、参詣者の目を楽しませてくれる。

(写真は 本殿)

 桜井駅からのバスを終点の談山神社まで行かず手前の多武峯バス停で降り、杉木立の中の参道を登るのもよい。参道入口の檜皮ぶき屋根の屋形橋を渡ると、江戸時代に建てられた両袖付き高麗門の東大門をくぐる。門の手前には「女人堂道」と記された石碑が立っている。かつて多武峯も女人禁制であったことを物語っている。
 急坂の参道脇には苔むした石垣が多い。これは多武峯寺が隆盛だったころの塔頭や僧兵の屯所の跡である。参道途中に八角石柱の上に笠石を乗せた摩尼輪(まにりん)塔(国・重文、鎌倉時代)がある。この参道脇には1町(約109m)ごとに町石が立っている。52基あった町石のうち現在、31基が残っている。

神廟拝所

(写真は 神廟拝所)


 
大化の改新・談合の地  放送 6月18日(水)
 談山神社の祭神として祭られている藤原鎌足は皇極3年(644)30歳の時、法興寺(現・飛鳥寺)の庭で催された蹴鞠(けまり)の会で中大兄皇子(後の天智天皇)と出会う。皇子はまだ20歳前であったが二人は互いに敬愛、信頼しあい、当時権勢を誇り、専横の行いが目に余った蘇我氏の打倒を企てるにいたる。
 皇極4年(645)蘇我入鹿討伐の1ヶ月前、二人は藤の花が満開だった多武峯の山中で、蘇我氏打倒の重要な談合をした。この談合の後、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、大化の改新を断行して中央統一国家を完成させる偉業を成し遂げた。二人が談合した峯が「談(かたら)い山」とか「談所(だんじょ)が森」と呼ばれ、談山神社の名称となった。

多武峯縁起絵巻

(写真は 多武峯縁起絵巻)

十三重塔

 大化の改新を成し遂げるきっかけとなった藤原鎌足と中大兄皇子の出会いの蹴鞠の会をしのんで、毎年4月29日と10月の第3日曜日に十三重塔の下の広場で蹴鞠祭が行われる。烏帽子、狩袴、鞠靴姿の京都の蹴鞠保存会の人たちが、古式ゆかしく蹴鞠の妙技を披露し大勢の見物者でにぎわう。
 談山神社の北側に中大兄皇子と鎌足が蘇我氏打倒の密計を語りあった「談い山」と並んで標高607mの御破裂山(ごはれつやま)がある。桜井市街地から山頂が鶏の鶏冠(とさか)のように見えのは、山頂の円墳の上に植えられた樹木が遠くから見ると鶏冠のように見える。周囲85mのこの円墳が鎌足の墓所で、この山頂からは大和平野や周囲の山々が一望できる。

(写真は 十三重塔)

 国家に異変がある時にはこの山が鳴動し、聖霊殿に祭られている鎌足像が破裂したとの言い伝えがある。記録によれば平安時代中期の昌泰元年(898)の鳴動が最も古く、以後、江戸時代初期の慶長12年(1607)まで710年の間に37回、御破裂山が鳴動したとある。
 鳴動が起こると朝廷から勅使が派遣され、奉幣、告文を奏上して拝謝すると鳴動は治まり、破裂した像は元通りになったと言う。これは神格化した鎌足の神威を示そうとしたものと見られている。時にはこの神威を使って朝廷に強訴した時代もあったようだ。

藤原鎌足墓所

(写真は 藤原鎌足墓所)


 
安倍文殊院  放送 6月19日(木)
 安倍文殊院は知恵を授けてくださる「安倍の文殊さん」とか「知恵の文殊さん」として親しまれ、学業成就祈願や高校、大学の合格祈願に訪れる人が多く、願いを込めた絵馬が所狭しと架けられている。
 この寺は大化元年(645)孝徳天皇の勅願によって、大化の改新に功績のあった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が、安倍一族の氏寺として創建した安倍寺が起こりで、鎌倉時代に現在地に移された。南西300mの所に法隆寺式伽藍配置だった安倍寺跡があり、飛鳥時代の寺跡として国の史跡に指定されている。
 快慶作と言われる本尊の木造文殊菩薩像(国・重文)は、巨大な獅子に乗った高さ7mの堂々とした姿で日本最大の文殊像である。本尊のそばにはべり無心に合唱するあどけない童顔の善財童子像(国・重文)や優填王(うてんおう)像(国・重文)、須菩提(すぼだい)像(国・重文)も本尊と同じく快慶作である。

阿倍仲麻呂像

(写真は 阿倍仲麻呂像)

阿倍晴明像

 本堂前の文殊池の北側に昭和60年(1985)に建立した総金色仕上げの六角の金閣浮御堂には、文武2年(698)この地で出生した安倍一族のひとり安倍仲麻呂の像が安置されている。霊亀2年(716)仲麻呂が19歳の時、遣唐留学生に選ばれ第8次遣唐使の一員として中国へ渡った。唐の長安の大学で学び、優秀な中国人でも難関の科挙の試験に合格し、唐朝廷官吏のエリートコースを歩み玄宗皇帝に重用された。
 仲麻呂は37歳の時、玄宗皇帝に日本への帰国を願い出たが、優秀な人材を手放すのを惜しみ帰国は許されなかった。19年後、年老いた両親への孝養を理由に帰国を願い出て許され、遣唐使の帰国船で帰国の途についたが暴風雨で遭難、ベトナムに漂着し長安へ戻り、帰国の夢を果たせぬまま73年の生涯を終えた。別の船に乗っていた鑑真和上は鹿児島に漂着した。二人はそれぞれ別の道を歩んだが、いずれも日中友好の祖として今もその功績が讚えられている。

(写真は 阿倍晴明像)

 平安時代の陰陽師の安倍晴明も安倍一族である。晴明は6代の天皇に仕え、一条天皇から天文陰陽博士の号を贈られている。その生涯は謎に包まれいろいろな伝説が残っており、生誕地についても讃岐国、河内国・安倍野、安倍文殊院のある桜井・阿部の地などがある。その中で晴明の母が和泉国(大阪府)の信太の森のキツネであるとの伝説がよく知られている。わが子にキツネの姿を見られた母が「恋しくば 訪ね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」の歌を残して姿を消した話が有名だ。
 阿部文殊院周辺には古墳も多い。文殊院西古墳(国特別史跡)は花崗岩を入念に加工した古墳築造技術の粋を集めた石室を持つ。ほかに艸墓(からとばか)古墳(国史跡)や文殊院東古墳(県史跡)などがあり、この地が安倍一族を含め古くから栄えた歴史を持つことを示している。

カラト古墳

(写真は カラト古墳)


 
山の辺の道  放送 6月20日(金)
 桜井市の三輪山の麓から大和平野の東側の巻向山、龍王山、高峰山、城山、高円山の山裾を縫うように北へ伸び、天理を経て奈良へと続く約26kmの山の辺の道は7世紀初めに作られた日本最古の道である。沿道には古社寺や古墳、道祖神、石仏、多くの伝説が残り、記紀、万葉の歌碑が点在する。
 現代、ハイカーたちに人気の高い山の辺の道は、桜井市の三輪山麓の金屋から天理市の石上神宮までの約15kmの道。古社寺や歌碑、石仏など眺め古代への幻想を広げながらミカンや柿、イチゴ畑の田園風景の中を歩くと疲れも知らずに歩き通せる。
石上神宮から奈良市の白毫寺あたりまでを「山の辺の道・北道」と言い、健脚な人は一気に26kmの山の辺の道を踏破してしまう。

桧原神社

(写真は 桧原神社)

川端康成書碑

 山の辺の道の途中に三輪山を御神体とする大神神社の摂社・桧原神社がある。御神体が三輪山なので社殿がなく、大神神社と同じく三ツ鳥居を通して三輪山を遥拝する。
 崇神天皇が皇居内に祭られていた皇祖神の天照大神をこの地に移して祭った。後の垂仁天皇の時代に倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神の鎮座地を求めて各地を巡行し、伊勢国の五十鈴川のほとりに祭ったのが現在の伊勢神宮。ここから桧原神社を「元伊勢」と地元の人たちは呼んで崇敬している。
 桧原神社境内からの眺めは素晴らしく、大和平野と大和三山、遠くに連なる金剛、葛城、二上、生駒の山並みが一望できる。この山並みに沈む夕日の美しさが格別で強い感動を与えられる。桧原神社近くの井寺池のほとりに大和の美しさを讚えた「大和は国のまほろば たたなづく青かき 山ごもれる大和し美し」の碑は、川端康成の筆になったものでハイカーたちに人気がある。

(写真は 川端康成書碑)

 桜井市はそうめんの里でもある。冬、戸外に天日干しされるそうめんは、冬の風物詩としてアマチュアカメラマンらに人気がある。
 三輪山山麓の三輪の里はそうめんの発祥地とされ、約1200年の歴史を持つ。昔、土地の人が小麦粉を練り、細いひも状にして大神神社に奉納したのが始まりといわれている。あるいは、大神神社の神主の子が飢饉に備え、保存食として農民に作らせたのが始まりという説もある。
そうめん作りには三輪山からわき出るきれいな水、極寒期の晴天続きと冷たい風がそうめん作りに適していた。江戸時代中期の宝暦4年(1754)に著された「日本山海名物図会」には「大和三輪そうめん名物なり、細きこと糸のごとく、白きこと雪のごとし…」と紹介されている。
 また、大神神社に参拝した人たちが、三輪そうめんのうまさを各地に語り伝え、製法を習って行く人もあって三輪そうめんの味と製法が全国に広まった。播州や小豆島のそうめんも元祖は三輪そうめんだと言う。

三輪そうめん

(写真は 三輪そうめん)


◇あ    し◇
長谷寺近鉄大阪線長谷寺駅下車徒歩20分。 
談山神社JR奈良線、近鉄大阪線桜井駅からバス談山神社下車徒歩5分。
安倍文殊院JR奈良線、近鉄大阪線桜井駅からバス安倍文殊院前下車。
桧原神社JR奈良線三輪駅下車徒歩35分。 
◇問い合わせ先◇
桜井市役所商工観光課0744−42−9111 
長谷寺0744−47−7001 
談山神社0744−49−0001 
安倍文殊院0744−43−0002 
桧原神社(大神神社)0744−42−6633
森正(そうめん処)0744−43−7411

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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