月〜金曜日 18時54分〜19時00分


堺市 

 堺は弥生時代から高い技術を持った人びとが住み、わが国有数の古墳も存在する。南北朝時代から軍事的な要衝の位置を占め、経済的にも発展した。海外貿易港、さらに自治特権を認められた自由都市としての時期もあった。明治時代は伝統的な在来工業を基盤に鉄工、金属、繊維工業が発達し、戦後は埋め立て地を利用した堺・泉北臨海工業地帯を形成し、戦後の経済成長に貢献した。いつの時代も関西の経済、文化の一翼を担っていた堺市を訪ねた。 


 
夏を彩るゆかた  放送 6月17日(月)
 夏の女性をあでやかに彩るのがゆかた。ゆかたは日本の伝統的なファッションでゆったりとくつろいだ気分にさせる。そのゆかた地染めが堺市の伝統工芸のひとつ。石津川沿いで盛んだった綿織物の和ざらしと結びついて、戦後盛んになった。
 近畿地方では淀川沿いの大阪市東淀川区柴島(くにじま)の「柴島さらし」と並んで堺市の「石津さらし」は有名で、石津川沿いの毛穴地域を中心に和ざらしが盛んだった。和ざらしに必要な豊富な水と太陽の下で干すための広い土地に恵まれていたのが和ざらしを盛んにした。さらに泉州特産の綿織物が大阪の問屋に出荷される流通経路の中間に位置したことも大きな要因だった。江戸時代から石津川の豊富な水を利用していたが、戦後、石津川の汚れがひどくなって川の水が使用できず、今では大きな井戸を掘ったり、工業用水を使ってさらすようなった。

釜入れ・水洗い(武田哂工場)

(写真は 釜入れ・水洗い(武田哂工場))

糊置(本郷染工)

 ゆかたの染色業がこの地域で盛んになったのは、第2次世界大戦の戦災で大阪市内のゆかた染色業者が大きな打撃を受け、和ざらしの本場、堺に移転してきたのがきっかけになった。
 堺のゆかた染めの技法は、江戸時代に開発された注染(ちゅうせん)法(そそぎ染)と言う伝統的な手染め。この注染法は糊置(のりおき)防染法の一種で、和ざらし生地に絵柄を切り抜いた伊勢型紙を載せて防染のりを塗り、入念に生地を折り重ねる。折り重ねた生地の上から染料を注ぎ込み、防染のりのついていない柄の部分に染料を浸透させ、さらに反転させ裏からも染める。このように表と裏を同時に染めるのが注染法の特徴で、ゆかたを長く使用してもほとんど色あせしないのがこの注染法の優れたところ。
 ゆかたは平安時代に高貴な人たちが湯浴みの時に、湯気や汗をふき取る衣として用いたのが始まりとされている。その後、柄で競い合うようになりそれぞれの時代を反映する柄が流行した。本郷染工会社では注染による染色工程の実演を行っており、予約すれば見学できる。

(写真は 糊置(本郷染工))


 
自由都市  放送 6月18日(火)
 「堺」の地名は河内、和泉、摂津の境にあることに由来すると言われ、摂津、和泉の境は中央を走る大小路で北を摂津堺北荘、南を和泉堺南荘と呼んだ。海上交通の神として信仰を集めている開口(あぐち)神社は、当時、南荘の氏神で開口は海に向かって門戸を開いていることを意味する。
 大寺(おおでら)とも呼ばれていた開口神社は、神功皇后が朝鮮遠征に勝利しての帰途、塩土老翁神(しおつちおじのかみ)を祭ったのが起こりと伝えられている。神仏習合の時代には開口神社は寺と神社が同居していた。天平18年(746)には、行基が念仏寺と言う寺を建てており、昭和初めに撮影された写真にも三重塔が写っている。昭和20年(1945)の戦災で三重塔は焼失した。

薬師如来像(開口神社・薬師社)

(写真は 薬師如来像(開口神社・薬師社))

天領最中(南曜堂)

 南北朝時代から戦国時代にかけて堺の町は戦乱に巻き込まれた。堺の人びとは戦乱から町を守るため、海に面した西側以外の町の南北と東側の三方に深くて広い堀を作り、敵襲に備えた。さらに36人の町の代表者・会合衆(えごうしゅう)の合議によって自分たちの町を自分たちで治め、政治的中立の立場を堅持した。こうした堺の町を外国から来た宣教師たちはイタリアの自由都市・ベニスとなぞらえ「東洋のベニス」と呼んだ。
 天下を統一した豊臣秀吉は、大阪城のひざ元で堺の自由都市を認めるはずがなく、堀を埋めた。大坂夏の陣の時には、堺の町が徳川方に味方するのを恐れ、豊臣方は町に火を放ちことごとく焼きつくした。だが、関ヶ原の戦に勝利した徳川家康は、堺の町の重要性から秀吉が埋めた堀を掘り返して元に戻し、町を作り替えて徳川幕府の直轄地とし、堺町奉行を置いて堺の町を治めた。自治都市から徳川幕府の天領となって繁栄した堺の歴史にちなんで「天領もなか」と呼ばれる銘菓が、昭和になってから堺に登場している。

(写真は 天領最中(南曜堂))


 
堺打刃物  放送 6月19日(水)
 堺の伝統産業の中で最も有名なものは打刃物の包丁と言えよう。堺には日本最大の前方後円墳・仁徳天皇陵をはじめ多くの古墳がある。その古墳から鉄製の武具や道具などが多く発見されており、堺での鍛冶の始まりが極めて古いことを示している。
 戦国時代の天文12年(1543)ポルトガルの船が種子島に漂着し、鉄砲が日本に伝わった。これがいわゆる“種子島”と呼ばれる火縄銃で、製鉄、金属加工の技術が発達していた種子島では、鉄砲伝来の翌年には鉄砲を作っている。外国貿易を営んでいた堺の商人・橘屋又三郎が種子島に2年間留まり、鉄砲の製法を習得して堺へ帰り鉄砲の製造、砲術を伝えた。これが堺での鉄砲製造の始まりで、堺の優れた鍛冶技術が性能のよい鉄砲を量産した。以後、合戦の戦術に大きな変化を与え、堺の鉄砲鍛冶と鉄砲を商う堺商人の存在がクローズアップされた。

水野鍛錬所

(写真は 水野鍛錬所)

タバコ包丁(堺HAMONOミュージアム)

 鉄砲伝来の後、ポルトガル人によってタバコが日本に伝えられ、豊臣時代にはタバコが栽培されるようになった。タバコの葉を刻む切れ味のよいタバコ包丁を、堺の鍛治工が長年培った技術を生かして作った。タバコ包丁の売れ行きに目をつけた徳川幕府は、堺のタバコ包丁に「堺極(さかいきわめ)」の刻印を刻むことを許し、幕府の専売品として全国に販売、これが堺の刃物を全国的ブランド商品に定着させた。
 タバコ包丁で堺の刃物が全国的に知られた後、堅い魚の骨も切れる出刃包丁が堺で考案された。その後も堺の刃物鍛冶たちが料理用の刃物をつぎつぎに考案、今ではそれぞれの食材に合わせた料理用包丁を作り出した。プロの料理人が使う包丁の全国シェア90%を占め、堺の包丁の切れ味の良さをプロが証明している。
 堺の刃物の歴史とその良さを知ってもらおうと堺刃物商工業協同組合連合会が「堺HAMONOミュージアム」を平成12年(2000)にオープンした。館内には堺で製造されている包丁やはさみ、工具類がずらりと並べらているほか、刃物作りの実演、体験コーナー、料理教室なども開かれ、刃物の知識を楽しみながら学べる。

(写真は タバコ包丁(堺HAMONOミュージアム))


 
情熱の歌人  放送 6月20日(木)
 与謝野晶子は明治11年(1878)、堺の和菓子商「駿河屋」の鳳(ほう)宗七の三女として生まれ、名は「志よう」といった。古い因習の束縛を受けながら育ったが、やがて読書、文芸に己の道を見出した。
 明治33年(1900)与謝野鉄幹らが中心になって新詩社をつくり「明星」を創刊した。晶子は新詩社の同人になり「明星2号」に6首の歌を発表したが、鉄幹はその歌に晶子の才能を見出した。この年、大坂・北浜で鉄幹と晶子は会い、その後、京都や住吉大社などで遊び、鉄幹への恋心を燃え上がらせた。翌年の明治34年、家族らの反対を押し切りひとりで上京、妻子ある鉄幹の家へ入った。やがて鉄幹は離婚し晶子と結婚、その年晶子は初めての歌集「みだれ髪」を出し好評を得た。
 晶子が「やは肌の あつき血潮に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」と歌ったこの「君」は、晶子の歌の友だちで、大坂で鉄幹と晶子を引き合わせた人物の覚応寺の先代住職・河野鉄南。覚応寺の境内には、歌集「みだれ髪」のある「その子はたち くしにながるる……」の歌碑がある。

覚応寺

(写真は 覚応寺)

歌碑「君死にたまふことなかれ」(大阪府立泉陽高等学校)

 晶子の歌碑は全国各地にあるが、生まれ故郷の堺にはなかった。家族の反対を押し切って鉄幹のもとへ走った晶子への反発があったのであろう。死後、20年後に堺の市民たちは郷土の偉大な歌人を温かく迎え、生家跡に「海恋し 潮の遠鳴り かぞえつつ 少女(おとめ)となりし 父母(ちちはは)の家」の歌碑が立てられた。その後、堺市内のあちこちに数多くの歌碑が建立された。
 明治37年(1904)日露戦争に弟が出征したとき「君死にたまふことなかれ」の詩を明星に発表した。この詩が非国民との批判を浴びたが、晶子は「本当の心を歌うのが歌人であり、後世の人に笑われないよう、本当の心を歌った。親兄弟が無事で帰れと願うのはしごく当然なことだ」と文章で反論、生身の人間として真実の叫び声をあげた。晶子が学んだ堺女学校(現泉陽高校)にこの「君死にたまふことなかれ」の歌碑が立っている。
 明治、大正、昭和の三代を通じて文学に、恋愛に、女性解放運動に情熱を燃やし、昭和17年(1942)65歳で生涯を終えるまで精一杯生きた女性であった。

(写真は 歌碑「君死にたまふことなかれ」(大阪府立泉陽高等学校))


 
泉北の古城跡  放送 6月21日(金)
 泉北ニュータウンの中央部、眺望の開けた高台に「小谷城跡」の碑が立っており、これが堺で一番古い城の跡である。小谷氏は平清盛に源頼朝の命乞いをして助けた逸話で有名な池禅尼の孫の平頼晴が、鎌倉時代にこの地に城を築いたのが始まりだった。南北朝時代には南朝方につき、金剛山の麓の千早城であげた烽火(のろし)を小谷城で受け、浜寺にいる味方へ中継して伝える役目を果たした。
 この時代の城は山全体が砦のような形をしており、小谷城の近くに東山城、西山城があり、この3つの城を合わせて鼎(かなえ)城と呼び小谷氏の居城だった。戦国時代に入り織田信長が紀州の根来衆を攻めたとき、根来党であった小谷城も攻められ、天正3年(1575)落城した。

小谷城跡の碑(阪和第一泉北病院)

(写真は 小谷城跡の碑(阪和第一泉北病院))

小谷城郷土館

 小谷城落城後も小谷氏の子孫が郷士となって、城跡を取り入れた館を建てこの地に住み着いた。大坂冬の陣、夏の陣には徳川方として参戦している。
 江戸時代初めの建築と言われる小谷氏の館の一部が「小谷城郷土館」として公開されている。郷土館には小谷家に伝わっている古美術品や鉄砲、甲冑(かっちゅう)などの武具、大阪府下の山村で使用していた民具、農具、郷土玩具、和泉地方で出土した古瓦、須恵器、土師器などの考古学資料などが展示されている。
 近くの泉北ニュータウン・竹城台の町名も小谷城にちなんでつけられたことを知っている住民は少ないのではないだろうか。烽火の中継地点であっただけに、堺の町が一望でき城跡付近からの眺めはよい。ニュータウンの人びとも、鎌倉時代から続いていた城跡を散歩がてらに訪ねれば、歴史の息吹が感じ取れるかも知れない。

(写真は 小谷城郷土館)


◇あ    し◇
本郷染工会社JR阪和線津久野駅からバス毛穴なかよし橋下車徒歩2分。 
開口神社阪堺電気軌道阪堺線宿院駅下車徒歩5分。 
南海電鉄本線堺駅、南海電鉄高野線堺東駅下車徒歩10分。
堺HAMONOミュージアム 阪堺電気軌道阪堺線妙国寺前駅下車徒歩3分。 
南海電鉄本線堺駅下車徒歩10分。
与謝野晶子生家跡阪堺電気軌道阪堺線宿院駅下車徒歩2分。 
南海電鉄本線堺駅下車10分。
与謝野晶子ギャラリー南海電鉄本線堺駅下車。 
覚応寺阪堺電気軌道阪堺線神明町駅下車徒歩5分。 
小谷城郷土館泉北高速鉄道泉ケ丘駅からバス豊田南下車徒歩5分。           
◇問い合わせ先◇
堺文化観光協会0722−33−5258 
堺注染和晒興業会0722−73−2147 
本郷染工会社0722−71−0456 
開口神社0722−21−0171 
堺HAMONOミュージアム 0722−27−1001 
覚応寺0722−38−6835 
与謝野晶子ギャラリー0722−22−7227 
小谷城郷土館0722−96−8435 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会