月〜金曜日 21時48分〜21時54分


京都・妙心寺 

 北に衣笠山、西に双ヶ丘(ならびがおか)を望み、東南には京都の市街地から宇 治、淀あたりまで見渡せる京都市右京区花園の景勝の地に、臨済宗妙心寺派の大本山 ・妙心寺がある。花園は都が平安京へ移ってから四季折々の花が咲き競う地として多 くの人に愛されてきた。この静寂の地に禅宗様式の七堂伽藍(しちどうがらん)が建 ち並ぶ妙心寺は、日本の禅宗寺院でも傑出した存在と言える。


 
臨済宗妙心寺派大本山  放送 6月19日(月)
妙心寺 妙心寺は全国に約3500の末寺を持つ臨済宗妙心寺派の大本山。南北朝時代の 建武4年(1337)、禅宗に深く帰依していた花園法皇が、この地にあった離宮を 寄進して禅寺にし、大徳寺を開いた大灯国師の弟子・関山慧玄(かんざんえげん)を 美濃国から招いて開いたのが始まり。
 開山以来660年、花園法皇の「報恩謝徳 興隆仏法」の志を綿々を今日に伝える 禅宗寺院として信仰されている。慧玄は形式的な読経や規則にとらわれず、伽藍(が らん)の整備より学問、人材の育成に力を注ぎ、その指導は非常に厳しいものだっ た。
(写真は 妙心寺)

左より、仏殿、法堂、大方丈 妙心寺は丹塗り(にぬり)の三門、仏殿、法堂(はっとう)が一直線上に並ぶ、禅 宗特有の伽藍配置となっている。その奥には大庫裏、大方丈、仏殿の東に経蔵、南に 浴室が建っており、これらの建物はいずれも国の重要文化財。また広い寺域には塔頭 (たっちゅう)寺院が40余あり、境内の通路はすべて花崗岩の石畳で連なってい る。
 松の緑におおわれている広い境内は国の史跡に指定されており、国宝、重要文化財 に指定されている寺宝も数多い。
(写真は 左より、仏殿、法堂、大方丈)


 
玉鳳院と開山堂  放送 6月20日(火)
花園法皇像 花園法皇は離宮を寄進し、関山慧玄(かんざんえげん)を招いて妙心寺を開山、 自らも妙心寺で参禅、修行するため、寺のすぐそばに建てた建物が玉鳳院。当時の建 物は応仁の乱で焼失し、現在の建物は明暦2年(1656)に再建されたもの。
 院内には開山堂をはじめ方丈、庫裏、鐘楼、豊臣秀吉の第一子・棄丸(すてまる) の霊屋・祥雲院殿などを擁し、妙心寺開山以来の由緒のある塔頭(たっちゅう)のひ とつ。また、法皇がいかに禅に対して傾倒していたかを記した「往年の宸翰(しんか ん)」(国・重文)が残っている。また、豊臣秀吉が妙心寺で棄丸の葬儀を行った際 に寄進した、棄丸の木造玩具船(国・重文)などもある。
(写真は 花園法皇像)

開山堂(重文) 開山堂「微笑庵(みしょうあん)」は、妙心寺を開いた関山慧玄像をまつってい る。妙心寺境内で最も神聖な場所で、山内で現存する最古の建物で玉鳳院と渡り廊下 でつながっている。開山堂は室町初期に建てられた京都・東山の東福寺の建物を譲り 受け、天文6年(1537)に移築した。用材には東福寺の刻印が残っているものも 見受けられる。
 関山慧玄は晩年も雲水の指導に専念していた。延文5年(1360)、開山堂と玉 鳳院とを結ぶ渡り廊下の北にある庭園に今も残る、風水泉わきの老樹の下で息を引き 取った。その時も行脚の旅姿だったと言う。
(写真は 開山堂(重文))


 
法堂(はっとう)・雲龍図  放送 6月21日(水)
法堂(重文・江戸初期) 妙心寺で最も大きい建物の法堂は、明暦2年(1656)に建立されたもので、 新年を迎える時の儀式や開山忌などの重要な儀式が行われる所。この大きな建物を建 てるのに、建築用材の確保に苦労したようだ。柱は富士山麓のケヤキ、屋根の大梁2 本は日向国(宮崎県)の松を京都・淀まで船で運び、淀から1本にづつ車に乗せ、そ れぞれ70頭の牛に引かせて京都まで運んだ。京の町の辻では民家を壊さなければ回 りきれなかったなどのエピソードが残っている。
(写真は 法堂(重文・江戸初期))

雲龍図(狩野探幽) 法堂の天井は板が一面に張られた禅宗独特の平らな天井で鏡天井と言われる。そ の天井には必ず丸い形の龍が描かれことになっており、妙心寺の法堂の天井にも狩野 探幽が、霊雲に囲まれた円の中に黒雲の中から出現する巨龍を描いた。堂内のどの位 置にいても龍がにらんでいるように見える八方にらみの龍で、350年過ぎた今もそ の迫力は 衰えていない。龍は仏法を守護する空想上の獣とされている。
 妙心寺は謝礼に白銀200枚を出したが、狩野探幽は「謝礼と言うなら白銀千枚や 2千枚に値する」と言い、出された200枚の白銀を寺に喜捨したと伝えられてい る。
(写真は 雲龍図(狩野探幽))


 
浴室  放送 6月22日(木)
三門(重文・桃山時代) 妙心寺の三門(重文)は最近、丹塗り(にぬり)が塗り替えられたので、赤 い丹色がいっそう鮮やかに目に映る。この禅宗様式の三門は1階に比べ2階がやや小 さい構えが、全体のバランスを見事に保っている。三門は空・無相・無作の3つの解 脱を現す。慶長4年(1599)の建立で、2階には観音菩薩像や十六羅漢像が安置 されている。
(写真は 三門(重文・桃山時代))

浴室(重文・江戸初期) この三門のすぐ東側に屋根に煙出しのある建物が浴室(重文)で、別に「明 智風呂」と呼ばれている。明智光秀が本能寺の変を起こす前、一時、妙心寺に滞在し ていたことがあり、その縁で天正15年(1587)、光秀の菩提を弔うため密宗和 尚が建てた。現在の建物は明暦2年(1656)に改築されたもので、浴槽は当時の 習わしから、すのこ板のすき間から上がってくる蒸気で温まる蒸し風呂形式で、洗い 場や休憩室も設けられている。
(写真は 浴室(重文・江戸初期))


 
大庫裏と妙心寺鐘  放送 6月23日(金)
大庫裏内部(重文・江戸初期) 妙心寺の大庫裏(重文)は他の大寺院の庫裏に比べても大きい。庫裏は寺の 台所でこのような大型の庫裏は、寺の大きな仏事や法要の時に何百人もの食事を作る ときに使う。初めの大庫裏は享禄元年(1528)に建てられ、現在のものは江戸初 期の承応2年(1653)に大改築された建物。
 豪壮雄大な外観、内部の屋根裏には大きな柱や梁が縦横に組まれ大きな屋根を支え ている。土間には庫裏の守護神・韋駄天(いだてん)像がまつられ、大きなかまどが 並んでいる。かまどの煙は屋上高く作られた煙出しから抜けるようになっている。
(写真は 大庫裏内部(重文・江戸初期))

黄鐘調の鐘(国宝・白鳳時代) 国宝の妙心寺の梵鐘は、鐘に記された銘文から1300年前の文武天皇2年(6 98)に鋳造された日本最古の鐘。また、その音色が黄鐘調(おうじきちょう)とし ても有名だ。今は廃寺となっている嵯峨の浄金剛院に伝わっていたものと言われ、細 身の秀麗な姿、流麗な唐草文様など日本三大名鐘に恥じない形をしている。
 寺院では修行や学習、食事などの時刻を告げるのに鐘や鳴り物を使う。その役目を 果たしてきたこの名鐘は、昭和49年(1974)現役の役目を終え、保存のため法 堂内に収蔵された。鐘楼には複製の梵鐘が代役を務めている。
(写真は 黄鐘調の鐘(国宝・白鳳時代))


◇あ    し◇
JR花園駅下車徒歩10分。
京福電鉄妙心寺駅下車徒歩5分。
JR京都、京阪三条、阪急烏丸、地下鉄四条各駅からJRバス、市バス、京都バス JR京都、京阪三条、阪急烏丸、地下鉄四条各駅からJRバス、市バス、京都バス
で妙心寺前下車。
◇問い合わせ先◇
妙心寺075−461−5226

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