月〜金曜日 21時48分〜21時54分


韓国歴史散策(2) 

 前回に続き今回も韓国の古都や史跡、寺院を訪ねた。今回は百済最後の都が置かれた扶余(プヨ)と大邱(テグ)市郊外の友鹿里(ウロンニ)、ソウルの南にある城塞都市・水原(スウォン)市を探訪した。


 
百済の古都(扶余)  放送 6月25日(月)
定林寺址 韓国中西部の忠清南道・扶余(プヨ)市は、百済の聖王(ソンワン)が西暦538年に都を移してから、中国・唐と新羅連合軍に滅ぼされる660年まで百済王朝最後の都があった所。日本へ仏教などさまざまな文化を伝え、飛鳥時代に日本と深いつながりのあった国でもある。
 百済滅亡後、街は衰退して現在は田舎の小都市になってしまい、往時の都の華やかさをしのぶものはほとんどなく、わずかに扶蘇山(プソサン)周辺に遺跡が点在するぐらい。
扶余郡庁前のロータリーに唐・新羅連合軍に5000人の軍隊を率いて黄山で最後まで抵抗した、愛国の武将として知られる階伯将軍像(ケベクチャングンサン)が立っており、百済の歴史を象徴している。
(写真は 定林寺址)

宮南池 百済で仏教文化が栄え、その代表的寺院の定林寺(チョンリムサ)址が街の中心部にある。中門、塔、金堂、講堂が南北一直線に並ぶ伽藍(がらん)配置は、日本にも伝わり四天王寺式伽藍配置となった。定林寺址に創建当初のものと言われる五重石塔が残っている。この五重石塔の初層の塔身に百済を攻めた唐の将軍蘇定方が、戦勝を記念して刻んだ「大唐平百済国碑銘」に諸将の功績や百済滅亡の歴史などが読み取れる。
 市街地の南部には百済時代に王侯貴族が酒宴を繰り広げた庭園・宮南池(クンナムジ)がある。かつては池の周りにしだれ柳や珍しい草花が植えられ、池の中央には築山があった。現在、池の中央にある東屋は後に再建されたものだ。
(写真は 宮南池)


 
落花台(扶余)  放送 6月26日(火)
落花岩 西暦660年に百済が、中国・唐と新羅連合軍に攻め滅ぼされた時の悲しい伝説が、扶余(プヨ)に残っている。その場所は扶余を流れる韓国三大河川のひとつ、錦江(クンガン)の流れを臨む断崖絶壁の落花岩(ナクファムアム)。百済滅亡の時、百済朝廷の後宮にいた3000人の宮女が、生きてはずかしめを受けるよりはと、断崖の上から錦江へ次々と身を投げて死んだ所。身を投げる宮女がまるでツツジの花がはらはらと落ちていくように見えたことから落花岩の名がついたと言われる。今も扶余の人々は「三千の宮女、花のごとく落つ」と哀れみを込めて語る。
(写真は 落花岩)

皐蘭寺 落花岩の崖の中腹に張りつくようにして建っているのが皐蘭寺(コランサ)で、百済最後の王と錦江へ身投げした3000人の宮女の霊を慰めるために建てられた寺だと言われている。本堂の裏には皐蘭と言う薬草が自生していることから寺の名が生まれた。皐蘭が生えている岩肌からわき出ている清水は、百済王が「甘露」と言って愛飲したと伝えれているほか、百済時代から不老長寿の水として庶民にも珍重されていると言う。
(写真は 皐蘭寺)


 
沙也可(友鹿里)  放送 6月27日(水)
沙也可の墓 豊臣秀吉が文禄元年(1592)に朝鮮侵略(韓国では壬辰の倭乱と言う)をした時、豊臣軍に従って釜山(プサン)に上陸した武将が「このような不義の戦には従えない」と秀吉に反旗をひるがえし、自分が率いていた兵士と共に朝鮮軍に投降、帰順した。その名は日本名・沙也可(さやか)と言う。
 朝鮮に帰順した沙也可と伝えられる武将は、そのまま朝鮮に住みつき、朝鮮軍の兵士に鉄砲の使い方を教えたり、鉄砲、火薬の製法技術の指導などをした。また、朝鮮軍と共に朝鮮の国を守るために戦い、三乱の功臣として敬われ、朝鮮王から金忠善と言う姓名と官位を授かるほどの忠臣ぶりだった。その沙也可の墓が大邱(テグ)市郊外の友鹿里(ウロンニ)にあり、今も沙也可の子孫や韓国国民らからも慕われている。
(写真は 沙也可の墓)

鹿洞書院 なぜ、沙也可が突然、反旗をひるがえし朝鮮軍に味方したのか。朝鮮は日本に文化や先進技術、仏教などを伝えてくれ、日本の発展に大きく貢献してくれた国との認識が沙也可にはあり、朝鮮の文物を慕い続けていたようだ。そんな国を攻め、国民を殺傷することは礼と義に反すると決意、朝鮮の国と国民を守る立場に変わった。
 沙也可は年老いてからは、朝鮮に住みついた兵士の家族らに人の道を教えながら72歳で没した。友鹿里には沙也可の墓のほかに、沙也可をまつる鹿洞祠、鹿洞書院、沙也可の遺品や壬辰の倭乱に関する図書などを備えた忠節館などがある。韓国の中学3年の道徳の教科書にも沙也可の話が取り上げられている。今、友鹿里では「韓・日友好村」の建設が進められており、沙也可は日韓交流に尽くした人物と言える。
(写真は 鹿洞書院)


 
華城(水原)  放送 6月28日(木)
隆陵 世界文化遺産に登録されている水原(スウォン)市の華城(ファソン)は、長さ5.7kmの城壁が城であり、日本の城の概念とは異なる。華城は科学的城郭構造で築城され、戦に備えた城としての機能を備えている上に華麗で荘厳さを保ち、近代城郭史上でも特記される城とされている。
 華城を築いたのは朝鮮王朝第22代正祖王(在位1777〜1800)で、自分の父が政争の犠牲になって王位にも就けず非業の死を遂げたことを悼んでいた。即位した正祖王は、風水の術で墓所としては最高の地と出た水原の南の花山に墓所を築造し父の遺骨を移した。同時に父の墓所のそばに住みたいと都を水原に移し、3年近い歳月を費やし華麗で雄大な華城を築いた。
(写真は 隆陵)

長安門 華城は長さ5.7mの城壁がぐるりと水原の街を囲み、城壁内の面積は約130haでその中に王宮などあった。城壁などの城郭築造には石とレンガを併用し、矢と槍、剣による攻撃を防ぐ古いタイプの城郭ではなく、鉄砲の攻撃に備えた近代的城郭になっている。
城壁の東西南北には長安門、八達門、華西門、蒼竜門があり、ほかに戦闘に備えた砲楼、将台など48カ所の施設を城壁の各所に配置している。
 華城は都を守る城郭としての機能を備えるとともに、城郭の建造物には芸術的な美しさがある。また、築城の工程や日程などの記録が完全な形で残っている面でも建築学、建築史学的にも大きな価値を持っている。
(写真は 長安門)


 
城塞都市(水原)  放送 6月29日(金)
華城 日本で城と言えば戦いに重きをおいた山城、後には平地に堀をめぐらせ天守閣をそびえさせた城をイメージするが、韓国の城は人々が住む街全体を守るために城壁で取り囲む形式になっている。水原(スウォン)市は華城(ファソン)の周囲約5.7km、高さ約7mの石造りの城壁で取り囲まれた広さ130haの城塞都市である。
 城壁の中の宮殿には王が住み、一般の人々も城壁の中で生活し、日用品や食料を売る市場や食堂などの商店街もある。城壁の上を歩いて各所にある門や楼閣を見物しながら水原市の市街地を眺めたり、城壁に沿って歩く城壁めぐりをして、日本の城郭には無いものを求める日本からの観光客も多い。
(写真は 華城)

のろし台 水原市を取り囲む華城の城壁には長安門など東西南北の四カ所に城門があるほか、戦いに備えて砲楼、大きな弓を放つ弩台、攻め来る敵を監視する楼閣、軍事指揮所の将台、のろしであげて通信するのろし台などがある。また、水原川の水門を兼ねた珍しい華虹門は、7つの水門から流れ出る水があげるしぶきが虹を作り、石造りの門を幻想的な美しさに変え、水原八景の中のトップにあげられている。水原の北はソウルで、華城の正門はソウルに向かったいる北の長安門である。
 世界文化遺産に登録されている華城は、城郭建築、建築学的にも素晴らしいもので、華麗で荘厳な華城はつぶさに見物しても飽きさせないものを秘めている。
(写真は のろし台)


◇あ    し◇
扶余市外バス(ソウルから2時間40分)
市外バス(大田から1時間20分)
階伯将軍像市外バスターミナルから徒歩10分
定林寺址市外バスターミナルから徒歩7分
宮南池市外バスターミナルからタクシー3分
扶蘇山市外バスターミナルから徒歩10分
錦江皐蘭寺から徒歩2分
落花岩市外バスターミナルから徒歩30分
皐蘭寺市外バスターミナルからタクシー5分
水原地下鉄(ソウル地下鉄1号線市庁駅から58分)
鉄道(ソウルから1時間)
華城水原駅から市内バス2番、3番ほか
◇あ    じ◇
慶州鰻料理(白馬江食堂、ナルト食堂)
韓定食(開城食堂、忠南食堂)
トルソッパブ(クドゥレ)
水原カルビ(ヨンボカルビ、水原カルビ)
◇特    産◇
扶余高麗人参
◇問い合わせ先◇
韓国観光公社大阪支社06−6266−0847

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

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