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月〜金曜日 18時54分〜19時00分 |
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宇治市 |
宇治は歴史の古い町である。飛鳥時代から大和と近江を結ぶ街道沿いに集落があり、宇治川に橋が架けられたのも飛鳥時代。風光明媚な土地は平安貴族の別荘地となり、源氏物語宇治10帖の舞台にもなった。平等院、宇治神社、万福寺などの古社寺も多く、歴史の古い宇治茶の産地としても知られている。 |
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宇治橋の東詰の放生院は、13世紀ごろから橋の管理を任されていたので橋寺と呼ばれ親しまれてきた。放生院の本堂前に立っている有名な「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」(国・重文)は、道登が宇治川に初めて橋を架けた由来を石碑に刻んだものである。宇治橋が架けられた飛鳥時代に建てられた石碑で、わが国で最古の部類に属する石碑として貴重な存在である。 |
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(写真は 対鳳庵) |
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菟道維郎子は才智すぐれていながら、後の仁徳天皇である兄に皇位を譲って自害した悲劇の人。菟道稚郎子は幼少のころから聡明で、父・応神天皇から愛され兄を越えて皇太子となった。応神天皇の崩御後、皇位を兄・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)、後の仁徳天皇に譲ろうとしたが、兄は父の遺志に背くとこれを固辞したため、3年間にわたって皇位は空位となってしまった。これを憂いた菟道稚郎子が「久しく生きて天下を煩らわさむ」と自害して兄に皇位を継がせた。 |
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(写真は 本殿(宇治神社)) |
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風光明媚な宇治川沿岸は平安貴族たちの別荘地だった。鵜飼もそのころから行われていたらしいく、蜻蛉日記の天禄2年(971)の条に、藤原道綱の母が長谷寺へ参る際に、宇治川でかがり火をたいた鵜飼舟の様子を楽しんだと記されている。また、永承3年(1048)に藤原頼通が高野山参詣の折、わざわざ宇治の鵜匠と鵜舟を随行させたと記されている。宇治では大正時代からこの鵜飼の妙技を披露するショーが、夏の観光行事として定着した。鵜飼見物の貸切船は予約が必要だが、乗合船なら当日、予約なしでも乗船できる。 |
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(写真は 鮎の塩焼き) |
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上林家は元は京都・丹波上林郷(綾部市)の土豪だったが、戦国時代の永禄年間に初代・上林久重が宇治に移り住み茶の生産を始めたのが、宇治茶と上林家の結びつき。久重の4人の子供が宇治茶業界を代表する茶師になり、茶の生産、流通部門の重要な役割を果たすようになり現在に続いている。宇治茶資料室の中に製茶体験室があり、有料で石臼を挽いて抹茶を作り賞味できる。 |
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(写真は 初代 上林三入) |
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春の部屋には、光源氏がその華やかな時を過ごした六条院の百分の一の模型、平安時代の貴族たちが日常使っていた牛車、朝廷の女房たちの十二単(じゅうにひとえ)などの装束、貴族や女房たちの部屋を彩った屏風、几帳(きちょう)、鏡台などの調度品を復元して展示している。また、源氏物語の華麗な世界を32面のマルチ画面の映像が描き出し、源氏物語の世界の雰囲気を盛り上げている。 |
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(写真は 六条院 模型) |
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