月〜金曜日 18時54分〜19時00分


文楽と大阪 

 文楽はわが国が世界に誇る伝統的な舞台芸術である。文楽とは便宜的な呼び方で、正式には「義太夫節浄瑠璃による操り人形芝居」と言う。人形を使った人形芝居、人形劇は世界各国にあり、そのほとんどが子供を相手にしたものであるが、文楽は大人を相手にした大人による大人の人形劇である。今回は大阪が誇る文楽の世界に焦点を当ててみた。


 
人形浄瑠璃の起こり  放送 7月29日(月)
 文楽、即ち人形浄瑠璃は、音楽的な節回しで戯曲的な内容を物語る浄瑠璃、それを演奏する弦楽器の三味線、これに合わせ演技する人形の三つの芸がひとつになる三業一体の芸能である。
 浄瑠璃が起こったのは室町時代中期(15世紀)で、初めは目の不自由な人が琵琶の伴奏に合わせて「平家物語」などを語り聞かせていた。文楽ではこの語りをするのが太夫で、主役、脇役、老若男女の登場人物すべてをひとりで語り分ける。琉球(現沖縄)から入ってきた蛇皮線(じゃびせん)が改良され三味線が誕生した。文楽の三味線は太棹(ふとざお)と呼ばれる三味線で、ダイナミックでボリュームのある音を響かせる。この三味線の登場によって浄瑠璃は人びとに強い感動を与える芸能へと大きな進歩を見せた。

人形浄瑠璃図

(写真は 人形浄瑠璃図)

竹本義太夫の墓(天王寺区・超願寺)

 平安時代、傀儡師(くぐつし)が街頭で人形を使って芸を見せていたが、慶長年間(1596〜1615)初め浄瑠璃とこの人形が結びついて今日の「文楽」の原形ができ、大道芸から小屋がけの芝居となった。
 江戸時代初め、新しい感覚の浄瑠璃を創作した語りの天才・竹本義太夫が登場、大坂・道頓堀に竹本座を起こした。一方で「曾根崎心中」に代表される世話物を書いた浄瑠璃作家・近松門左衛門らの登場によって、文楽は娯楽性、芸術性がともに豊かに醸成されていった。64歳で没した竹本義太夫の墓が大阪・天王寺区の超願寺にあり、21世紀の文楽の行く末を見守っている。
 元禄年間(1688〜1704)には、竹本義太夫の弟子が豊竹若太夫を名乗り、豊竹座を起こした。心理描写に重きをおき地味で重厚な芸風の竹本座と、華麗で技巧的な豊竹座が対照的な芸風で競い合い、大坂の人形浄瑠璃は“竹豊時代”と言われる全盛時代を迎えた。

(写真は 竹本義太夫の墓(天王寺区・超願寺))


 
文楽人形  放送 7月30日(火)
 文楽の舞台で最も目を引くのは何と言っても人形である。数多くある演目の役柄それぞれに特定の人形が決まっているわけではない。
 文楽の人形は頭、胴、手、足の4つからなっている。頭は首(かしら)と呼んでおり、男女、年齢、身分、性格に応じて首の種類がある。あたかも俳優が扮装するように顔を塗り替え、かつらをつけることによってその人物になりきる。男の首が30種、女の首が15種ほどあり、それぞれに文七、源太、若男、金時、娘、新造、傾城などの呼び名がつけられている。

文楽人形

(写真は 文楽人形)

頭の製作

 人形の中にはまゆが上下に動いたり、目玉を動かす寄り目、目をつむる眠り目、口が開閉する口開きするものがある。これらの動きは首を支える胴串にある引栓や仕掛け糸の微妙な引き方で生き生きとした表情を出す。足は原則として男の人形だけにある。女の人形には特別な場合を除いて足はつけず、着物の裾さばきで歩いているように見せ、座ったときは人形遣いの拳でひざの形をつくる。これらの動き、表情を3人の人形遣いが手の技で、生きた人間のように生まれ変わらせるのだから、その芸の崇高さに驚かされる。
 文楽の首は、目や口を動かしたり、顔を塗り替え、髪の毛を釘で打ち付つたりするので傷んでくる消耗品。首の修理をする専門家が劇場にいる。文楽の首はいろいろな仕掛けが必要なので簡単には作れない。徳島県に、文楽の首を作っていた大江巳之助さんがいたが、さきごろ亡くなった。大江さんの弟子の村尾愉さんが、国立文楽劇場で首の修理をしながら首作りを目指して修業している。

(写真は 頭の製作)


 
人形遣い 放送 7月31日(水)
 文楽を初めて見た人が驚かされるのは人形の美しさと、浄瑠璃に会わせて動くそのリアルさ、細かさだろう。これが人形かと思われるほど情感のこもった演技にうっとりと引き込まれてしまう。
 人形浄瑠璃の初期は、人形も小さく1人遣いであったが、享保19年(1734)「芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」の上演に際して3人遣いが考案され、その後人形も大型になって現在に至っている。主(おも)遣い、左遣い、足遣いの3人の人形遣いが一心同体となって人形に命を与え、心を吹き込む。

一人遣い図

(写真は 一人遣い図)

「曽根崎心中」生玉社前の段(舞台稽古より・協力国立文楽劇場)

 主遣いは人形全体を支え、人形の目、まぶた、まゆ、口を動かして表情を表現、人形の右手を操る。左遣いは人形の左手、足遣いは人形の足を操る。この3人の人形遣いの見事な芸で、観客の目からは次第に人形遣いの姿が消え、人形が生身の人間以上に人間らしく、喜怒哀楽を豊かな表情や動作で表現する人間ドラマの世界に引き込まれてゆく。人形遣いの修業は足遣い10年、左遣い10年、主遣い10年、30年で一人前の人形遣いになれると言われてきた。
 人形遣いは自分が遣う人形の衣装の着付けをすべて自分でする。同じ首(かしら)を使っても役柄によって衣装や髪形が変わる。着付けはほとんど人形に縫い付ける方法が多く、人形遣いは針と糸を使う縫い物ができないとつとまらない。

(写真は 「曽根崎心中」生玉社前の段(舞台稽古より・協力国立文楽劇場))


 
国立文楽劇場  放送 8月1日(木)
 江戸時代中ごろ人形浄瑠璃は「竹本座」「豊竹座」の二座が競い合い、全盛時代が続いたがやがて衰退していった。江戸時代末の文化年間(1804〜18)淡路島から出た植村文楽軒が道頓堀の東(現国立文楽劇場の近く)に建てた小屋が、明治5年(1872)、松島新地への移転を機に「文楽座」と称するようになり、この名が人形浄瑠璃と同じ意味の別名「文楽」となった。文楽座はそののち船場平野町の御霊(ごりょう)神社境内から四ツ橋筋、道頓堀へと移転していった。
 明治42年(1909)文楽座の興行権は植村家から松竹に移った。こうして文楽は資本主義経済の中で、利益を生み出すことに重点が移り、歌舞伎とともに変質を余儀なくされた。松竹は昭和5年(1930)四ツ橋に洋風建築の文楽座をオープンした。この劇場は一部の桟敷席を除いて全部椅子席になった。戦後、松竹は四ツ橋から道頓堀の豊竹座跡に新しい文楽座を建て「お蝶夫人」「椿姫」「ハムレット」などのオペラや新劇、「夫婦善哉」「春琴抄」などの文芸物など、新作文楽を企画し新しい文楽への路線を模索していた。

御霊神社

(写真は 御霊神社)

国立文楽劇場

 文楽界にも戦後の労働運動の波が押し寄せて労働組合が誕生、会社側と組合側に分裂して興業を始めた。文楽界はこれらの紆余曲折を経て、昭和38年(1966)分裂状態を解消し「財団法人文楽協会」が発足、国、大阪府、大阪市などの助成金によって運営された。
 昭和30年(1955)文楽は国の重要無形文化財に指定された。国は文楽の太夫、人形遣い、三味線奏者らを芸術院会員、文化功労者、人間国宝などの栄誉を与えて励ますと当時に、後継者の養成にも力を入れるようになった。後継者を一般から募集して研修生として文楽の理論と実技を教えた。現在の文楽協会の技芸員の3分の1が研修生出身者で占められるようになった。昭和59年(1984)大阪・日本橋に国立文楽劇場がオープンし、日本の誇る文楽が新しい時代へと踏み出していった。
 国立文楽劇場では2002年8月11日まで「夏休み文楽特別公演」を行っており、第3部(夜の部)で「曾根崎心中」を上演している。

(写真は 国立文楽劇場)


 
曾根崎心中  放送 8月2日(金)
 近松門左衛門の代表作「曾根崎心中」は文楽で最も人気の高い演目のひとつ。元禄16年(1703)醤油屋の手代・徳兵衛と曽根崎新地の天満屋の遊女・お初が露天神社の森で心中した。この事件を近松門左衛門がひと月後に脚色し、道頓堀の竹本座で上演して大当たりし、積もり積もっていた竹本座の赤字を一挙に解消した。
 徳兵衛は主人の勧める縁談をきっぱり断ったため大坂にはおられぬ身となった。さらに主人に返す結納金を友人の油屋九平次にだまし取られてしまった。自害を決意し、お初に別れを言うため天満屋へしのんできた徳兵衛をお初はうちかけの裾に隠し店に入れる。お初の足首をとって自分ののど首にあてがい、心中の覚悟を伝えるところが「曾根崎心中・天満屋の段」の名場面。

近松門左衛門像

(写真は 近松門左衛門像)

露天神社(お初天神

 徳兵衛とお初が死に場所の露天神社の森へ向かう「天神森の段」の道行きも哀れを誘う名場面のひとつである。近松は心中物で死の美しさを描き、当時の浪花の人たちが熱狂的に迎えた。この心中物の大当たりで、町では心中が流行するという副産物がついたほどだった。
 露天神社はこの心中事件以来、お初にちなみ今日まで“お初天神”が通り名になっている。当時は曽根崎の寂しい鎮守の森だった露天神社も今は大阪の歓楽街のど真ん中。
 露天神社は社伝によると当時、大阪湾に浮かぶ八十島のひとつの小島に祭られていた神だったが、このあたりが埋め立てられて曽根崎村になりその産土神となった。菅原道真が太宰府に左遷され赴任する途中、露天神社の近くにある大融寺へ参詣した。道の露深いのを「露と散る 涙に袖は 朽ちにけり 都のことを 思ひいずれば」と詠んだ菅原道真の歌にちなみ、道真を祭り露天神社と称するようになった。

(写真は 露天神社(お初天神))


◇あ    し◇
国立文楽劇場近鉄奈良線日本橋駅、地下鉄堺筋線日本橋駅下車徒歩1分。 
南海電鉄難波駅、地下鉄御堂筋線、四つ橋線難波駅下車徒歩10分。
超願寺(竹本義太夫墓所)JR天王寺駅、地下鉄御堂筋線、谷町線天王寺駅、近鉄南大阪線阿部野橋駅下車徒歩10分。 
御霊神社(御霊文楽座跡)京阪電鉄淀屋橋駅、地下鉄御堂筋線淀屋橋駅下車徒歩3分。 
露天神社(お初天神)JR大阪駅、阪急電鉄梅田駅、阪神電鉄梅田駅下車徒歩5分。 
◇問い合わせ先◇
国立文楽劇場06ー6212ー2531 
超願寺(竹本義太夫墓所)06ー6771ー6654 
御霊神社(御霊文楽座跡)06ー6231ー5041 
露天神社(お初天神)06ー6311ー0895

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

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  「日本文化の発信基地づくり」
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