月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・大原 

 周囲を山に囲まれた小さな盆地の大原の里は、京都市の市街地から北へ十数キロ、高野川の上流にある。大原は平安時代初め比叡山・延暦寺の修行僧らの修行地となったり、天台声明の修練地となり多くの僧侶や信者らの声明の声がこの里に響いていた。同時に都の喧騒を避け、山里に隠棲する皇族や貴族らの隠棲地でもあった。こうした歴史に彩られた秋も間近の大原の里を訪ねた


 
三千院・極楽浄土への招き  放送 9月2日(月)
 緑豊かで水清き大原の里には名刹がいくつもあるが、その中でも代表格で人気が高いお寺が三千院。伝教大師・最澄が開基したといわれる寺で、京都市内の妙法院、青蓮院とともに天台宗三門跡のひとつ。梶井門跡、梨本坊とも呼ばれ、最澄が延暦7年(788)に比叡山の根本中堂を創建したのち、東塔南谷のナシの大木の下に一宇をおいたのが起こりとされている。そののち一念三千院または円融坊と称した。保元元年(1156)大原の大原寺を統括するため、円融坊の政所(まんどころ)が大原に置かれたのが現在の三千院の前身とされている。本尊は伝教大師自刻といわれる秘仏の薬師如来像。三千院の寺号は明治4年(1871)につけられた。
 三千院境内にある大きな石仏は「大原石仏」とも呼ばれ、念仏行者たちが欣求(ごんぐ)浄土を願って彫った阿弥陀如来像とされている。

往生極楽院

(写真は 往生極楽院)

阿弥陀三尊像(国宝)

 美しい庭の中にたたずむ簡素な「往生極楽院」に安置されている阿弥陀三尊像は、2002年3月国宝に指定された。巨大な阿弥陀如来像の左右の脇侍・観音菩薩像と勢至菩薩像は、日本式の正座をした珍しい形で、あたかも苦の世界の人びとを楽の世界へ招いているようである。この大きな阿弥陀如来像を間近に拝むと仏に近づいたという実感がわいてくる。
 本堂の天井は舟底を逆さにした形の舟底天井で、大きな仏像を納めるために工夫されたと考えられる。その天井には飛翔する天人や楽器を演奏する菩薩像が描かれていた。今もその絵がうっすらと残っている。周囲の壁にも金剛界、胎蔵界の曼荼羅や極彩色の文様が描かれていた。この往生極楽院の堂内に入ると極楽浄土を求めた当時の人たちの気持ちが伝わってきて敬けんな雰囲気を感じる。

(写真は 阿弥陀三尊像(国宝))


 
声明の響き  放送 9月3日(火)
 比叡山・延暦寺を開いた伝教大師・最澄の弟子の慈覚大師・円仁(794〜864)は中国・唐の五台山がある太原で声明を学んだ。帰朝後、中国の太原と地形が似ていた大原に声明の修練道場を開いたと伝えられている。声明とは経文に音曲をつけて詠ずるもので音楽的な色彩が強く、後に邦楽の今様、浄瑠璃、謡曲、民謡などに大きな影響を与えている。
 三千院から呂川に沿って300mほど登ると来迎院(らいごういん)がある。天仁2年(1109)来迎院を建立した聖応大師・良忍は、円仁以来の声明を統一して、魚山流声明を確立した。魚山流声明は天台声明の主流となり、最も盛んとなった鎌倉時代初期には、声明を修練する僧侶や貴族らが大原の里に集まり、声明の声がこの里にこだましていた。

来迎院

(写真は 来迎院)

音無の滝

 良忍の唱える声明の調べに陶酔した獅子が堂内を駆けめぐり、岩になったとのいわれがある獅子飛石が来迎院境内にある。また呂川の上流にある音無の滝は、良忍が声明の修行にはげんだ場所と伝えられている。谷間の岩壁を白糸のように水が落ちている音無の滝は、訪れた観光客やハイカーらに心の和む涼感を与えている。
 良忍は一人の念仏を万人に融通して往生に導く融通念仏の教えを説き、融通念仏宗を開いた。本堂内に安置されている本尊は中央にひときわ大きい薬師如来、向かって左に阿弥陀如来、右に釈迦如来三座像(国・重文・平安時代中期)の三尊形式。顔は円満相好で衣文は温和な表現の典型的な平安時代中、後期の藤原時代の作風といわれている。大阪市平野区には良忍が開創した融通念仏宗総本山・大念仏寺があり、大阪府下で最大の木造建築の寺として知られている。

(写真は 音無の滝)


 
古知谷・阿弥陀寺  放送 9月4日(水)
 大原のバス停でバスを乗り継ぎ、さらに北へ約2km行ったところにあるのが古知谷の集落。この集落の西の山中に慶長14年(1609)弾誓(たんぜい)上人が、如法念仏の道場として開いた阿弥陀寺がある。中国風の山門をくぐってから険しい石段をひたすら登るとようやく本堂にたどりつく。本堂正面に安置されている仏像は弾晢上人自らが、人間の理想像を草刈り鎌で刻み、自身の頭髪を植えた弾晢佛。この髪は今も両耳のそばにわずかに残っている。
 弾晢上人はこの寺を開いて4年後に本堂後ろの石廟の石の厨子に生きたまま入り、62歳で入定してミイラ仏となった。弾晢上人のミイラ仏は明治時代になって石棺に収められた。この石廟は弾晢が入定する1年前に修行僧に掘らせたといわれている。

弾誓佛

(写真は 弾誓佛)

本尊阿弥陀如来坐像

 弾晢上人は9歳で出家し、各地を歩いて修行した。京都・五條大橋の上で北の空に輝く光明を見て古知谷に入り、山奥の岩穴に入って念仏三昧の日々を送っていた。村人たちの助けを借りて一寺を建立したのが阿弥陀寺。境内の宝物館には弾晢の遺品や皇族から賜った品などが展示されている。
 今は近くを若狭に通じる国道を終日車が走っているが、阿弥陀寺境内は老樹が全山を覆い静寂を保っており、高尾、嵐山と並ぶ京都の紅葉の名所として知られている。京都市の天然記念物に指定されている参道脇の樹齢800年のカエデの老木を中心に、200本近いカエデが古知谷の秋を鮮やかに彩る。

(写真は 本尊阿弥陀如来坐像)


 
山里を歩いて  放送 9月5日(木)
 紺のかすりに手っ甲、脚絆(きゃはん)姿で頭に薪や野菜などの荷をのせた大原女(おおはらめ)たちが、かつては行き交っていた大原の風景と情緒をこよなく愛した人に日本画家・小松均(1902〜89)がいる。
 小松は山形生まれだが、25歳の時から平成元年(1989)87歳で亡くなるまで大原に住んだ。絵の修業のため既成の画壇や世間とは距離を置き、かたくなに自分の世界を守り通した。田畑を耕し、鶏を飼い、コイやドジョウを飼育しながら貧しい自給自足の生活の中で画業一筋に生きた人だった。時には仏門に入り、仏道修行を重ねるなど不撓不屈(ふとうふくつ)の精神で小松芸術の世界を築いた。こうした生き方から小松画伯は「孤高の画仙人」と呼ばれていた。
 文化功労者に選ばれた小松は、自分の作品をより多くの人に観賞してもらうのが夢だった。小松の死後、彼の絵の愛好者らがその居宅を改造して、4棟からなる「小松均美術館」を平成2年(1990)にオープン、小松の作品を展示した。

大原女

(写真は 大原女)

小松均美術館

 小松は初めは写実主義に立脚して骨太いデッサンで色彩画を描いた。60歳を過ぎてから水墨画に重点を置き、豪快かつ繊細な墨線、そして1本の墨線に命をかけて大原や故郷の最上川を描いた作品が晩年に多い。小松の作品は大原風景シリーズ、最上川シリーズ、富士山シリーズの3つに大きく分けられる。
 大原シリーズは長年住んだ大原の里の風景を黙々と描き続けた作品群で、山々の量感や木々の一本一本、田畑の広がりの中の草や、田んぼの稲の切り株のひとつひとつに温かい心と厳しい目をそそぎ描いている。
 最上川シリーズは生まれ故郷の山形の最上川を故郷や父母への思いを託しながら描いた。
川の流れの中の泡や波のうねり、岩に砕ける水しぶき、渦が生き生きとした墨線で描かれている。
 富士山シリーズは小松が大自然への畏敬と自分の宗教心に結びつけた作品と評されている。小松の描く富士山は優美な富士山ではなく、荒々しい富士山の姿を力強い墨線で描いている。

(写真は 小松均美術館)


 
三千院の秘仏  放送 9月6日(金)
 三千院は寺伝では延暦7年(788)伝教大師・最澄が比叡山に根本中堂を建立したのち、東塔南谷に建てた一宇がその起こりと伝えられ、今年が開創1200年とされる。
三千院宸殿内陣の厨子には最澄が自ら刻んだという本尊・薬師如来像が安置されているが、1200年間秘仏とされ何人の目にもふれることがなかった。
 今、世界は多発するテロ事件、イスラエルとパレスチナの争い、国内でも大阪教育大付属池田小学校の児童殺傷事件や幼児虐待事件など、世の中は病み混とんとした時代となっている。こうした折、開創1200年を迎えた三千院では、救いの仏である秘仏の薬師如来像の厨子の扉を開き「世界平和をみんなで薬師如来に祈ろう」と9月8日から10月8日まで秘仏を初公開することにした。この期間中は普段入ることのできない内陣に入り、間近に薬師如来像に参る「内拝」ができる。

宸殿

(写真は 宸殿)

聚碧園

 老樹が茂り緑深い三千院境内は、参詣した人たちが心の安らぎを求めるのに絶好の場所でもある。秘仏・薬師如来像に祈り礼拝した後、この境内で過ごすひとときは心を落ち着かせるよい機会となるであろう。
 境内の庭は一面に杉苔で覆われており“杉苔の大海原”と呼ばれ、作るともなく出来上がった庭が広がっている。有清園は3段の滝を配し渓谷のように水を池に流し込んでいる。聚碧(しゅうへき)園は池泉観賞式の庭で、澄み切った池の水や手水鉢に落ちる水は音無の滝から引いたもので、訪れる参詣者の心を洗い清めている。
 この2つの庭園の間にあるサクラの老樹は、頓阿(とんあ)が「見るたびに 袖こそ濡るれ 桜花 涙の種と 植えや置きけん」と詠んだことから「涙の桜」と呼ばれている。
また境内の随所に石仏が点在し、さまざまな表情で参詣者に語りかけているように見える。

(写真は 聚碧園)


◇あ    し◇
三千院JR京都駅、京阪電鉄三条駅、出町柳駅、地下鉄国際会館駅からそれぞれバスで大原下車徒歩10分。 
来迎院JR京都駅、京阪電鉄三条駅、出町柳駅、地下鉄国際会館駅からそれぞれバスで大原下車徒歩15分。 
音無の滝JR京都駅、京阪電鉄三条駅、出町柳駅、地下鉄国際会館駅からそれぞれバスで大原下車徒歩20分。 
阿弥陀寺JR京都駅、京阪電鉄三条駅、出町柳駅、地下鉄国際会館駅からそれぞれバスで大原下車、乗り換え古知谷下車徒歩10分。 
小松美術館JR京都駅、京阪電鉄三条駅、出町柳駅、地下鉄国際会館駅からそれぞれバスで戸寺下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
京都大原里づくり協会075−744−4141 
三千院075−744−2531  
来迎院075−744−2161
古知谷・阿弥陀寺075−744−2048 
小松均美術館075−744−2318 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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