月〜金曜日 21時48分〜21時54分


大阪・水のある風景 

 大阪市は淀川を中心に安治川、尻無川、木津川などが大阪湾に注ぎ、これらの河川をつなぐ運河や堀割が縦横に伸び「水の都・大阪」を形成していた。また大阪湾、古くは難波津と言っていた海辺は、古代から外国文化を受け入れた窓口で、近世には物資の集散地となり大阪は「天下の台所」となった。このように大阪は水とは切っても切れない深い結びつきがあった。しかし、運河や堀割は近代都市建設のため埋め立てられるなどして姿を消しつつあるが、その中でかつて水とかかわりのあった風景を大阪市内で追ってみた。


 
天王寺の清水寺  放送 9月3日(月)
清水寺清光院 四天王寺の谷町筋を隔てた西側に北、西、南が崖になった高台に建つ清水寺清光院は四天王寺の子院で、寛永17年(1640)の建立。延海阿闍梨が京都・清水寺を模して建立したもので、京都・清水寺と同様に舞台造りとなっている。昔は難波全体が一望できる眺望の名所だった。
 本尊は十一面千手観音像で聖徳太子の作と伝えれている。境内の十三塔は鎌倉時代のものとして千体地蔵とともにあった古塔。
(写真は 清水寺清光院)

玉出の滝 境内の大阪市内で唯一の滝「玉出の滝」は、京都・清水寺の「音羽の滝」にならって作られたもので、四天王寺金堂下の青龍池から流れ出る霊水がここで滝になっている。今もこの玉出の滝の本尊・不動聖明王に祈願をし、滝に打たれて修行する行者が多い。
(写真は 玉出の滝)


 
なにわの船寺(西念寺)  放送 9月4日(火)
伝法山西念寺 淀川の河口、此花区伝法は、飛鳥時代の欽明天皇13年(552)百済の聖明王が、使者を派遣して金銅釈迦像や経論を日本に献上、日本に初めて仏法が伝来したことに由来する地名だと言う。大化改新の始まりとともに即位した孝徳天皇が都を難波に遷した大化元年(645)、インドから法道仙人と言う高僧が仏教を携え難波津に上陸、日本に仏法を広めようと渡来して建立した仏法伝導道場が現在の西念寺の起こりとされる。
 難波津は「水の都・大阪」の発祥の地として知られており、古代から大陸や海外からの文化がこの難波津に上陸し、全国に伝わった海外文明の上陸地。江戸時代には大陸や日本国中から集まった物資が、運河や堀割を通って大阪城下へ運ばれた。また菱垣廻船、樽廻船、千石船、北前船や外国からの船の出入りが多かった。
(写真は 伝法山西念寺)

千手観音 西念寺はこうした難波津の変わり行く歴史を見守ってきた寺と言える。江戸時代は壮大な七堂伽藍が建ち並んでいたが、明治維新後の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で小さな堂を残すだけとなってしまった。
 西念寺の流潅頂(ながれかんじょう)・水神祭お盆大施餓鬼会は、船寺信仰を今日まで伝えてきた祭。流潅頂とは伝法川と淀川の川施餓鬼(かわせがき)のことで、かつては日本三大船祭のひとつだった。本座船と屋形船など数百隻の船が伝法川から淀川を下り、大阪湾に出て卒塔婆を流し、供養、祈願をした。今日の天神祭の船渡御に似た祭で、大阪の夏の風物詩として多くの参詣人でにぎわい、今日まで引き継がれている。
 本堂には本尊・阿弥陀如来像のほか千手観音、法道仙人が中国から携えてきたと伝えられる秘仏・十一面観音像、身づくり観音像(十一面観音像)の三大観音像が安置され、観音信仰の寺としても知られている。
(写真は 千手観音)


 
澪標住吉神社  放送 9月5日(水)
澪標(澪標住吉神社) 大阪市の市章として親しまれている澪標(みおつくし)とは「水脈(みお)の串」と言う意味で、海や川を行く船が安全に通れる水深の深い場所を知らせるために立てられた航路標識のこと。延暦23年(804)遣唐使の一行が難波津を発つ時、住民たちが住吉の神を祭って航海の安全を祈り、遣唐使船が難波津に無事に帰り着くよう目印に澪標を立てた。ここに祠(ほこら)を建てたのが、此花区伝法3丁目の澪標住吉神社と澪標の由来とされている。
 澪標は古歌では「身を尽くし」にかけて歌われ、万葉集、古今集、拾遺集などに多く詠まれ、澪標が古くから存在していたことがうかがえる。明治27年(1894)大阪市議会は「大阪の商業府たる根本は港にあり、船舶にもとづくところから澪標を市章として最も適当とする」として、大阪市章に澪標が決まった。
(写真は 澪標(澪標住吉神社))

サンタマリア号 この地は豊臣秀吉が大坂城を築いてから「伝法口」として大変にぎわった。江戸時代に入ると菱垣廻船、樽廻船、北前船など出入りし港として最盛期を迎えた。澪標はかつては大阪の安治川、木津川などに明治20年(1887)ごろまであったが、今は完全に姿を消した。現在は同じ形のものが岡山市藤田に残っている。
 安治川の河口の天保山は安治川左岸の海辺にできた砂の山で、高さは約20mほどだった。幕府は船の出入りの目印になるとの意味から「目標山(めじるしやま)」と名付けたが、天保年間(1830〜44)にできたことから俗に「天保山」と呼ばれた。天保山のにぎわいは「天保山風景図」「浪花天保山風景」「天保山遊び」「諸国名所百景」「天保山名所図会」「浪花百景」などに描かれており、浪花の観光名所でもあった。今は海遊館や大阪港周遊の遊覧船「サンタマリア号」が1時間毎に発着し、対岸にはユニバーサル・スタジオ・ジャパンがオープンして大阪の新しい観光名所になってきた。
(写真は サンタマリア号)


 
川を行く筏  放送 9月6日(木)
平林貯木場 大阪は江戸時代、淀川、安治川、木津川などの主要河川に通じる運河や堀が縦横に作られた。これらの水運が活用できる便のよい立売堀や長堀沿いに材木商が集まり、木材市場が誕生した。
 江戸時代初めの元和8年(1622)立売堀の材木商が長堀に木材市場の開設を願い出て許され、このころから長堀の両岸に材木問屋が集中した。明治時代に入り産業、経済の発展に伴って商都・大阪にも近代化の波が押し寄せた。西長堀北岸に市電が敷設されることになり、材木市場の用地が市に買収され、北岸の材木業者は境川運河の両岸へ移転した。
さらに木材の取り扱い量が増え、広い貯木場や市場用地が必要になり、大正時代に大正区千島町、小林町に貯木場、市場が建設され日本有数の材木街が誕生した。
(写真は 平林貯木場)

川をゆく筏 第2次世界大戦で大阪は甚大な被害を受け、戦後の戦災復興事業の一環として住之江区平林付近での貯木場建設が決定されている。当時の平林地区は都市基盤整備が進んでおらず、下水道もなく、道路は未舗装で梅雨時には泥田のような状態だったと言う。平林に建設された貯木場周辺への木材業者の移転は、昭和20年代の終わりから40年すぎにかけ、20年近くかかって進められ戦後の大阪の木材基地が誕生した。
 平林貯木場では輸入された丸太を水に浮かべて貯木し、等級ごとに選別して筏(いかだ)に組み、買い手が決まると船に引かれて貯木場を出て行く。大きな丸太の上に乗り、丸太を自在に操って筏に組む筏師の熟練の技は見事なものだ。しかし、加工材の輸入が増えるにつれ丸太の輸入が減り、貯木場で働く筏師は最盛期の4分の1に激減、現在では70人ほどになってしまった。さらに後継者不足で高齢化が進み、平均年齢は50歳となり「木場での筏師の風景もいずれ見られなくなるのでは……」と心配する人もいる。
(写真は 川をゆく筏)


 
水がもたらすもの(中島大水道跡)  放送 9月7日(金)
さいの木神社 現在の大阪市東淀川区、淀川区、西淀川区は昔から南に淀川、北に神崎川などの川に囲まれ水害に悩まされてきた。江戸時代、この地域の庄屋らが徳川幕府に排水路建設の工事を陳情したが、一向に工事をしてくれる気配がなかった。これに業を煮やした新家村(東淀川区菅原)の一柳太郎兵衛、大道村(東淀川区大道南・大桐北)の沢田久左衛門、山口村(東淀川区東中島)の西尾六右衞門の3人の庄屋が、延宝6年(1678)無許可のまま排水路建設の工事に取りかかった。
 村民たちも老若男女を問わず工事に参加、現在の東淀川区西淡路5丁目の新太郎松樋から此花区伝法5丁目付近までの9171mの水路をわずか50日(一説には28日)で完成させた。これが世に言う「中島大水道」で、総費用は約2000両。当時の土木技術から見るとこのような短期間で完成させたのは驚嘆すべきもので、長年、水害に耐え忍んできた農民たちの怒りや苦しみがエネルギーとして爆発したのだろう。
(写真は さいの木神社)

大野川緑陰道路(中島大水道跡) 無許可で工事を強行した庄屋の行為が幕府の怒りを買った。奉行所の役人が召し捕りに来る前に3人は西村細目木(淀川区西中島)で腹を切って自決した。3人が自決した細目木には小さな祠(ほこら)の「さいの木神社」があり、今も3人の遺徳をしのんで慰霊祭が行われている。
 3人の庄屋の尊い命を代償にして完成した中島大水道は、多くの人々にはかり知れない恩恵を与えた。明治33年(1900)の淀川改修でその役割を終え、埋め立てられるなどして今はその姿を消した。西淀川区ではその一部が散策やサイクリング用道路の「大野川緑陰道路」となり、区民らの健康づくりや憩いの場として親しまれている。中島大水道の起点には「中島大水道跡」の石碑が建てられ、大野川緑陰道路にも中島大水道の由来を記した碑が建てられている。また中島大水道跡の緑化に呼応して西淀川区西島2丁目の先端の矢倉海岸に矢倉緑地が誕生した。海岸は大阪市内で唯一コンクリート岸壁のない海辺となっており、釣りを楽しむ人が多い。
(写真は 大野川緑陰道路(中島大水道跡))


◇あ    し◇
清水寺地下鉄谷町線四天王寺夕陽ケ丘駅下車 徒歩8分。
JR・地下鉄天王寺駅・近鉄阿部野橋駅下車 徒歩20分。
西念寺、澪標住吉神社阪神電鉄西大阪線伝法駅下車 徒歩5分。
サンタマリア号乗船場地下鉄中央線大阪港駅下車 徒歩5分。
平林貯木場南港ポートタウン線平林駅下車。
中島大水道跡の碑阪急電鉄京都線、千里線淡路駅下車 徒歩7分。
さいの木神社JR、地下鉄御堂筋線新大阪駅下車 徒歩5分。
大野川緑陰道路JR東西線御幣島駅下車。
矢倉緑地阪神電鉄西大阪線福駅下車 徒歩40分。
◇問い合わせ先◇
清水寺06−6771−5714
西念寺06−6461−5602
澪標住吉神社06−6461−0775
サンタマリア号
(大阪水上バス予約センター)
06−6942−5511
西淀川区役所06−6478−9683
矢倉緑地
(十三公園事務所)
06−6309−0008

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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