月〜金曜日 18時54分〜19時00分


古代の歴史を秘めた奈良・宇陀郡

 奈良県の南東に位置する宇陀郡は、古事記、日本書紀にもその地名が登場し、飛鳥時代にも宮廷人たちが狩に訪れるなど、古代社会との深いかかわりの歴史を秘めている。伊勢に通じる伊勢街道が通り、鉄道が発達するまでは街道筋の各町は、西国や京・難波・大和方面からの伊勢参りの旅人たちの宿場町として栄えた。


 
仏隆寺(榛原町) 放送 9月8日(月)
 神武天皇東征の際に八咫烏(やたがらす)になって、天皇の軍勢を道案内した武角身命(たけつぬみのみこと)を祭る八咫烏神社など、神話に登場する伝説や遺跡が点在する榛原町は、大和と伊勢を結ぶ伊勢街道が東西に通り、古くから交通の要衝、伊勢街道の宿場町として栄えた。
 榛原町の西、桜井市初瀬方面からの伊勢街道が、伊勢表街道と伊勢本街道に分かれる所が萩原宿の「札の辻」。この札の辻の三差路にある旧旅籠「あぶらや」が往時の面影をしのばせてくれる。江戸時代の国学者・本居宣長が明和9年(1772)春、自宅の松阪から吉野へ旅したとき、往復ともこの「あぶらや」に宿泊しており、そのときの模様が宣長の紀行文「菅笠(すがかさ)日記」に記されている。

あぶらや

(写真は あぶらや)

開祖 堅恵大徳像

 榛原町の札の辻で分かれた伊勢本街道を南東に進んだ山里の山麓に建つ仏隆寺は、嘉祥3年(850)弘法大師・空海の高弟・堅恵(けんね)が創建した古刹。山門へ向かう参道は「大和三名段」のひとつにあげられている自然石の石段。
 この石段の途中に奈良県の天然記念物に指定されている樹齢900年と言われる桜の老樹がある。ヤマザクラとエドヒガンザクラの雑種で、ヤマザクラの性質を備えた学術上も貴重な種とされている。春には四方へ伸びた枝いっぱいに見事な花をつけ、参拝者を楽しませてくれる。また秋には参道の両脇にヒガンバナが咲き競う。

(写真は 開祖 堅恵大徳像)

 本尊の十一面観世音菩薩像は聖徳太子の作と言われ、開祖・堅恵大徳像とともに本堂に安置されている。境内には堅恵の墓と言われる平安時代前期の宝形造の石室(国・重文)がある。内部は古墳のように羨道(せんどう)と玄室からなっており、玄室の奥には鎌倉時代の五輪塔が安置されている。
 仏隆寺は大和茶発祥の地と言われている。弘法大師・空海が中国から持ち帰った茶の種子を、堅恵がこの境内で栽培した。日本における茶の栽培の始まりはとされる話は各地で伝えられているが、仏隆寺で堅恵が栽培を始めたのが最も古いもののひとつとされている。仏隆寺では日本の茶の栽培は仏隆寺から広まったとしている。空海が唐から持ち帰ったとされる茶臼も寺に残っている。

大和茶発祥伝承地

(写真は 大和茶発祥伝承地)


 
国の始まりの地(菟田野町) 放送 9月9日(火)
 菟田野町では古くから「国の始まり大和の国、郡(こおり)の始まり宇陀郡(うたごおり)、宇陀の始まり菟田野から」と歌われた古謡が伝わっている。古事記や日本書紀に登場する地名が今もあちこちに残る菟田野町は、わが国の始まりの地とも言われている。
 こうした歴史から山間の地にもかかわらず、平安時代初期に作成された延喜式に神社の名が記された5社の神社を含め、今も21の神社と27の寺が残っている。菟田野町は古代に文化、経済の中心地であり、今も残る「古市場」の地名は、吉野地方の木材を中心にした市場が盛んに開かれたことを示している。

宇太水分神社

(写真は 宇太水分神社)

桜実神社

 菟田野町内で数多い神社の中でその代表格が、水を分配する三柱の神を祭る宇太水分(うだみくまり)神社で、社伝によると創建は崇神天皇の時代とある。本殿(国宝)は三神を祭る三殿から成っており、外部は朱塗りで部分的に極彩色が施されている。板壁には花鳥画が描かれており、元応2年(1320)の銘が棟木に入っていることから、鎌倉時代末期の建立が証明されている。全国で国宝に指定されている神社の社殿は、室町時代から江戸時代にかけてのものが多い中で、宇太水分神社の社殿は古い社殿の部類に入る。また境内にある摂社の春日神社と宗像神社は室町時代の建立で国の重要文化財に指定されている。

(写真は 桜実神社)

 境内には杉の古木などの木々がうっそうと茂り、小鳥のさえずりが耳に心地よい。
神社の森にはフクロウやムササビも棲息しており、古社のたたずまいをうかがわせている。源頼朝が幼少のときにこの神社に詣で、大将軍になれるかを占って植えたと伝えられる「頼朝杉」が参道脇にある。後に征夷大将軍になり鎌倉幕府を開いた頼朝は、この神威に感謝し社殿を造営したと言う。現在の頼朝杉は2代目。
 菟田野町佐倉にある桜実(さくらみ)神社には、神武天皇が大和平定のための陣を張ったときに植えたと言う杉の古木(国指定天然記念物)がある。ひとつの株から8本の幹が絡み合うように伸び、枝を広げている。根元の幹の周囲は9m、木の高さは14mの大木である。

天然記念物 ハツ房杉

(写真は 天然記念物 ハツ房杉)


 
薬草をおいしく(大宇陀町) 放送 9月10日(水)
 大宇陀は古代の飛鳥時代から阿騎野と呼ばれ、宮廷人の狩猟地として知られ、万葉集にもその地名が出てくる。「ひむがしの 野にかぎろひの たつみえて かへりみすれば 月かたぶきぬ」の歌は、柿本人麻呂が詠んだ万葉集の秀歌。人麻呂は軽皇子(後の文武天皇)が狩猟で阿騎野を訪れたときに供をした。野営して迎えた夜明け前の雄大な東の空の情景を呼んだのがこの歌。騎馬姿の人麻呂像が立つ人麻呂公園のあたりが古代の狩猟地・阿騎野だった。
 大宇陀町は江戸時代から伊勢街道の宿場町、商品を商う市場町として栄え、今もその面影をとどめる大きな古い商家が軒を連ねる町並みが残っている。

織田信雄

(写真は 織田信雄)

大宇陀町歴史文化館「薬の館」

 大宇陀は宿場町、市場町であると同時に城下町でもあった。南北朝時代にこの地方に勢力を持っていた土豪・秋山氏の居城を秋山城と呼んでいたいた。戦国時代には豊臣系の大名が入り、江戸時代には織田信長の次男・信雄が松山藩主となり4代続いた。松山城をしのぶ遺構は、黒門と呼ばれる西口関門(国・史跡)だけとなっている。
 大宇陀町には享保14年(1729)森野賽郭(もりのさいかく)翁(本名藤助)が開いた薬園(国・史跡)が今なお継承され、約250種の薬草が栽培されている。
徳川8代将軍吉宗は、漢方薬に代わる国産の薬草を探させるため、幕府の薬草御用係を大和へ派遣した。吉野葛の製造業だった藤助が薬草探しを手伝い、その献身的な協力に幕府は、小石川植物園の貴重な薬草やその種子を藤助に下げ渡した。この薬草を自宅の裏山で栽培したのが森野薬草園の始まり。

(写真は 大宇陀町歴史文化館「薬の館」)

 江戸時代末期に建築された薬問屋の旧細川家住宅は、今は大宇陀町歴史文化館「薬の館」となっている。館内には、町の歴史資料や薬問屋・細川家の資料、細川家の子孫が創業した藤沢薬品工業の薬品関係の資料が展示公開されている。建物内には土間に据えつけられたかまど、正面の屋根の銅板葺き唐破風つきの薬の看板などが残り、薬問屋だった当時の生活をうかがわせえいる。
 町内の真言宗御室派大願寺では、3月から11月までの昼食時に薬草料理(要予約)が供される。ゴマ豆腐や葛の刺し身、長芋とアロエの梅肉あえ、朝鮮人参、ドクダミ、ゲンノショウコ、ユキノシタ、ヨモギなどの天ぷら、黒米のご飯など豊富な品数の献立を見るだけでも体調がよくなりそうな気がしてくる。

薬草料理(大願寺)

(写真は 薬草料理(大願寺))


 
奥香落渓(曽爾村) 放送 9月11日(木)
 三重県に接する曽爾村の北半分は、室生赤目青山国定公園に含まれ、村内の長野から名張市境の落合までを奥香落渓(おくこおちだに)と言う。曾爾川の両岸に柱状節理の大岩壁がそそり立ち、巨岩、奇岩が点在する見事な渓谷美を現出し、その眺めはすばらしい。この渓谷美はさらに三重県の香落渓へと続いている。秋にはこの渓谷美を紅葉が彩り、一層美しい景色を作り出し、ブドウ狩りなどを楽しみながらのハイカーたちの人気のコースとなっている。
 この渓谷は大昔に室生火山帯のマグマが固まるときに、柱状に割れ目ができる柱状節理と呼ばれる岩が隆起し、地上に現れたものである。九州の景勝地・耶馬渓にあやかって 関西の耶馬渓 とも言われている。

鎧岳

(写真は 鎧岳)

曽爾高原

 奥香落渓の圧巻は高さ約200mの垂直の岩の大絶壁が約700mにわたって続く小太郎岩。昔、小太郎と言う長者の息子を、財産を狙っていた継母がこの岩壁の上から突き落とそうとして、自らが転落したと言う悲しい伝説がこの岩の名の由来。
 武者の鎧(よろい)を装ったような、いかめしい姿でそびえ立つ高さ894mの岩峰が鎧岳(国・天然記念物)で、見る方向によっては横たわる獅子にも見える。鎧岳のすぐ西に兜(かぶと)のような山容の高さ920mの兜岳(国・天然記念物)がある。さらにその南西に高さ約200mの柱状節理の岩壁が約1500mにわたって続き、まるで岩の屏風を立てたような景観を見せる屏風岩(国・天然記念物)が迫ってくる。

(写真は 曽爾高原)

 荒々しい岩壁や巨岩、奇岩に木々の緑、曾爾川の澄み切った清流と青い空がマッチした奥香落渓の渓谷美に満喫したら、今度は対照的な柔らかい曲線を描いて広がる秋のススキの高原で有名な曾爾高原へ。
 曾爾高原は四季それぞれに表情を変える。春から夏にかけては緑のじゅうたんを敷き詰めたように緑のススキが一面に広がる。秋には背丈を越えるような銀色のススキが幻想的な世界を作り出す。風になびくススキは海原の波のようで、この季節が曾爾高原のハイライト。初冬、地区の人たちが茅葺き屋根用にススキを刈り取り、早春に山焼きが行われ高原は真っ黒になる。
 扇風機もクーラーも必要ない渓谷沿いのひなびた宿でひと風呂浴び、奥香落渓、曾爾高原のハイキングの汗を流す。その後、宿自慢のぼたん鍋に舌鼓を打てば足の疲れも厳しい残暑も吹き飛んでしまう。

ぼたん鍋(木治屋)

(写真は ぼたん鍋(木治屋))


 
伊勢神宮ゆかりの古社
(御杖村)
放送 9月12日(金)
 宇陀郡の東部に突き出た形の御杖村は三重県・美杉村に隣接する今は静かな山村。
だが、かつては伊勢本街道の宿駅としてにぎわい、その名残とも言える伊勢神宮にゆかりの神社がある。
 村の90%以上が山林と言う農林業が中心の村だが、過疎を逆手に取っていろいろな工夫を凝らしている。廃校になった小学校の校舎を宿泊施設に変身させて、都会の親子らを学校の雰囲気の残る宿泊施設と自然の中ヘ迎えている。また、冬の霧氷で有名な三峰山の麓に建つみつえ青少年旅行村は、キャンプやアウトドアスポーツが楽しめる施設で、村外の人たちを呼び込んでリフレッシュしてもらい、村に刺激と活気を与えようとしている。

御杖神社

(写真は 御杖神社)

四社神社

 垂仁天皇の命を受けて、天照大神を祭るべき場所を探して方々を旅した倭姫命(やまとひめのみこと)が、その候補地のひとつとして、印に杖を残したと言う伝承があるのが御杖神社。
 天照大神は初めは皇居内に祭られていたが、天照大神と皇居をひとつにするのは畏れ多いと、第10代崇神天皇の代に大和国・笠縫村に祭った。その後、第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が各地を巡幸して、伊勢の地が天照大神を祭るにふさわしい地と定め鎮座したとされている。天照大神を迎えることができなかった御杖神社だが、その伝承が神社や村名とした残った。

(写真は 四社神社)

 四柱の神を祭る四社(ししゃ)神社は伊勢本街道沿いにあり、大和方面から伊勢神宮へ参る旅人たちは、その道中で必ず立ち寄って参拝したと言われる神社。天照大神の遷座地を探して旅をしていた倭姫命がこの地に行宮を造り、湧き出る水で手を洗ったと伝わる井戸「御井」が境内にある。
 また、伊勢神宮に奉仕する斎宮となった用明天皇の皇女・稚足姫(ちたりひめ)が、この行宮跡に宮を造ったとき、酢の泉が現れ、酢の香が姫の手にも移り姫は酢香手(すがて)姫と名を改めた。さらにこの地を酢香野(すがの)と命名したのが、現在の菅野の地名となったとの伝承がある。境内には酢香手姫を祭る小祠(しょうし)がある。

菊花石

(写真は 菊花石)


◇あ    し◇
旅籠・あぶらや(札の辻)近鉄大阪線榛原駅下車徒歩10分。
仏隆寺近鉄大阪線榛原駅からバスで高井下車徒歩30分。
宇太水分神社近鉄大阪線榛原駅からバスで古市場水分神社前下車
徒歩2分。
桜実神社(八つ房杉)近鉄大阪線榛原駅からバスで桜実神社前下車10分。
松山城西口関門近鉄大阪線榛原駅からバスで西山下車徒歩5分。
大宇陀町歴史文化館「薬の館」近鉄大阪線榛原駅からバスで西山下車徒歩10分。
森野旧薬草園近鉄大阪線榛原駅からバスで大宇陀下車。
大願寺近鉄大阪線榛原駅からバスで大宇陀下車徒歩3分。
小太郎岩近鉄大阪線名張駅からバスで小太郎岩下車。
鎧岳近鉄大阪線名張駅からバスで葛下車。
頂上へは徒歩1時間15分。
兜岳近鉄大阪線名張駅からバスで葛下車。
頂上へは徒歩1時間40分。
屏風岩近鉄大阪線名張駅からバスで長野下車。
屏風岩麓まで徒歩1時間。
曾爾高原近鉄大阪線名張駅からバスで太良路下車徒歩50分。
木治屋(旅館・ぼたん鍋)鉄大阪線名張駅からバスで槻の木橋下車。
御杖神社近鉄大阪線榛原駅からバスで掛西口下車、
御杖ふれあいバスに乗り換え神末中村下車。
四社神社近鉄大阪線榛原駅からバスで掛西口下車、
御杖ふれあいバスに乗り換え菅野中村下車徒歩3分。
◇問い合わせ先◇
榛原町役場産業課0745−82−1301
仏隆寺0745−82−2714
菟田野町役場企画管財課0745−84−2521
宇太水分神社0745−84−2613
大宇陀町役場企画開発課0745−83−2251
大宇陀町歴史文化館「薬の館」0745−83−3988
大願寺0745−83−0325
曽爾村役場むらづくり推進課0745−94−2101
木治屋0745−94−2551
御杖村役場地域振興課0745−95−2001
御杖神社、四社神社0745−95−2135

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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          郵便番号 530−6691
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歴史街道推進協議会