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月〜金曜日 18時54分〜19時00分 |
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奈良・明日香村 |
明日香村は東西約6km、南北8kmの狭い地域に古代国家が成立した時、多くの天皇の宮が造営され、日本の政治、文化の中心地となった。藤原京時代を含め都が奈良の平城京へ遷都するまでを飛鳥時代と言う。仏教が伝来し、日本で始めて寺院が建立されたのもこの飛鳥だった。飛鳥の地は古代への夢を駆り立ててくれるが、まだ解明されていない謎の部分も多い所である。こんな飛鳥の里を訪ねて見た。 |
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今、安居院に安置されている飛鳥大仏は、顔や右手の一部、左耳あたりに造立した当時の原形を残している。修理跡の痛々しい姿と飛鳥仏独特の面長で慈悲深い表情が、参拝する人たちに同情と親しみを感じさせ、飛鳥大仏の前に立つと自然に合掌する。当時の姿をそのまま残しておれば国宝指定間違いない仏像だが、後世の修理が多いため重要文化財にとどめられた。 |
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(写真は 飛鳥大仏) |
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日本で最初の通貨は和同開珎とされていた。富本銭は各地で出土していたが、数が少なかったため通貨ではなく、副葬品に使う「まじない銭」とか「厭勝銭(えんしょうせん)」ではないかとされていた。しかし、飛鳥池工房遺跡から大量の富本銭とその製造過程を示す工房が出土し、日本書紀の天武12年(683)に記されていた「今より以後、必ず銅銭を用いよ」の銅銭が、この富本銭である可能性が強まり、日本で最初の通貨ではないかとの説が強まった。このほか工房跡からは瑪瑙(めのう)や琥珀(こはく)などの宝玉も出土しており、これらも一緒に展示されている。 |
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(写真は ガラス玉) |
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今、創建当時をしのばせるものは、平安時代末の久安2年(1146)の落雷で焼失した五重塔の心礎。本坊前に塔跡の土壇があり、その中央に直径90cmの柱穴とその三方に半円形の添え柱穴がある珍しい形をした心礎である。 |
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(写真は 聖徳太子孝養像) |
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聖徳太子の生誕地として知られている橘寺には善悪ふたつの顔を表す二面石がある。その橘寺の西の畑の畔には、うずくまったような形をした花崗岩の亀石は愛らしさが感じられる。製作年代や目的などはわからないが、条理の境を示す漂石とか、亀の形に刻んだ碑の台石にする亀趺(きふ)ではないかなど諸説がある。 |
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(写真は 酒船石遺跡) |
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飛鳥時代の食卓は現代のような白米のご飯はなかった。古代米と言われる赤米、黒米のご飯やおこわなどだった。古代米は玄米のときには赤や黒、緑色をしている有色米。赤米は5分づきの精米で薄紅色、糠(ぬか)を全部取り除くと白米になる。野生種の稲はほとんどが赤米で、赤米は現代の米のルーツと言える。縄文時代に日本に伝わり、邪馬台国や大和朝廷への献上米は赤米だった。黒米は5分づきで紫色になるので、紫米とか紫黒米とも言われ、現代のもち米のようだ。おはぎの起源が黒米で、お祝いの米として珍重された。薬効もあり、楊貴妃が美容食として愛用したとか。また動脈硬化や抗がん性の効用があるとも言われている。 |
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(写真は あすかんぽ) |
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