月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良市・興福寺 

 平城遷都と共に厩坂(うまやさか)寺が飛鳥から移され、藤原氏の氏寺となったのが興福寺。奈良、平安時代に政治の中枢を占め、権勢を振るった藤原一族の氏寺にふさわしく南都では東大寺と並ぶ大寺院だった。度々の火災で焼失しているが、中でも平清盛の南都討伐の命を受けた平重衡が行った南都焼き討ちで、創建当時の堂塔はほとんど焼失した。しかし、藤原氏の権力と経済力で復興し、今も古都奈良を代表する寺院であり、奈良時代、鎌倉時代の仏像など数多くの文化財を保有している。


 
興福寺の隆盛  放送 9月30日(月)
 興福寺は天智天皇8年(669)中臣鎌足(藤原鎌足)の夫人・鏡女王(かがみのおおきみ)が、夫の病気平癒を祈って建立した山階(やましな)寺が起源とされている。鎌足は同年10月16日に亡くなるが、その前日に天智天皇は鎌足に大織冠と大臣の位を授け、藤原の姓を与えた。
 鎌足は中大兄皇子(天智天皇)とともに大化の改新の原動力となった人物。鎌足は大化の改新の成就を祈願して釈迦三尊像と四天王像を造っていたが、安置する寺を建立する前に亡くなった。夫人が建立した山階寺にこの釈迦三尊像が安置され、やっと落ち着く場所を得た。
(写真は×××××) 
藤原不比等(大織冠画像)

(写真は 藤原不比等(大織冠画像))

東金堂(国宝)・内部

 壬申の乱後、都は近江から再び飛鳥に移り、山階寺も飛鳥の厩坂(うまやさか)に移って厩坂寺となった。更に和銅3年(710)都が藤原京から平城京に遷都したのに合わせて鎌足の子・藤原不比等が、厩坂寺を現在地に移して寺の名も興福寺とし、以後藤原氏の氏寺として隆盛を極めた。
 不比等はまず金堂(中金堂)を建立して、父・鎌足が造った釈迦三尊像を安置した。この中金堂の建立に続いて元明太上天皇と元正天皇が、亡くなった不比等追悼のため北円堂(国宝)を建立、続いて聖武天皇が東金堂(国宝)、聖武天皇の光明皇后(不比等の娘)が五重塔(国宝)、西金堂をそれぞれ建立し、その後も三重塔(国宝)などの堂塔の建立が相次ぎ、権勢を振るっていた藤原氏の氏寺にふさわしい一大伽藍を築き、南都最大の寺院になった。

(写真は 東金堂(国宝)・内部)


 
国宝館の顔、顔、顔  放送 10月1日(火)
 創建当時の食堂(じきどう)の外観を復元した国宝館には、東金堂や各堂内に安置されていた仏像など、数多くの仏教美術の傑作が収められている。
 高さ5.2mにもおよぶ木造千手観音菩薩立像(国宝・鎌倉時代)は旧食堂の本尊だった。像内には銅造千手観音菩薩立像や経巻などがが納められていた。この像内物の記銘からこの木造千手観音菩薩立像は建保5年(1217)から寛喜元年(1229)の間に造られたと見られる。
 切れ長の目、あごの張った若々しくてたくましい面相の銅造仏頭(国・重文・白鳳時代)は飛鳥・山田寺の本尊の薬師如来像だった。平重衡の南都焼き討ちで焼失した東金堂は再建されたが、本尊の仏像が間に合わず業を煮やした興福寺の僧兵が山田寺の薬師如来像を奪い去って安置した。応永18年(1411)の落雷による火災で東金堂が焼け落ち、焼け残った頭部だけが新しく造られた本尊の台座の下に納められていた。

木造千手観音菩薩立像(国宝)

(写真は 木造千手観音菩薩立像(国宝))

木造金剛力士立像阿形像(国宝)

 リアルな筋肉描写、忿怒の形相、阿吽(あうん)の木造金剛力士立像(国宝・鎌倉時代)は、鎌倉時代に再興された西金堂本尊の左右に安置されていた。いずれも等身大の1.5mの像で鎌倉時代の彫刻の特徴をよく表していると言われている。
 二本の角、三つの目、口を大きく開いた木造天燈鬼立像(国宝・鎌倉時代)は、四天王像に踏みつけられている邪鬼を独立させ、仏前を照らす役目を与えた。天燈鬼はやや横目で前方をにらみ、左肩に灯籠を乗せ左手で支えている。もう一体の龍燈鬼立像(国宝・鎌倉時代)は頭上に乗せた灯籠を上目づかいににらんでいる。
 興福寺を代表するのが三面六臂(さんめんろっぴ)の乾漆の阿修羅(あしゅら)像(国宝)。愁い含んだような表情と少年のように純真さを漂わせた眼差しや手の配置が美しい像である。
 これらの仏像はいずれも個性的でいつまでも見飽きることはない。このほか国宝館には多くの仏像や文化財が保存、展示されており、藤原氏や皇族らとの深い関わりを示す興福寺の歴史を物語っている。

(写真は 木造金剛力士立像阿形像(国宝))


 
土塀のない寺  放送 10月2日(水)
 正岡子規が「秋風や 囲いもなくて 興福寺」と詠んでいる。子規ならずとも誰しもどこまでが奈良公園で、どこからが興福寺なのだろうかと思う。
 興福寺の広大な境内は奈良公園と一体のようになっており、誰でも昼夜を問わずどこからでも自由に出入りでき、奈良公園のシカも境内へ気ままに入り散歩したり、参詣者にシカせんべいをねだっている。奈良を代表する大寺院でこれほど開放的な寺は全国にもあまり例がない。昔は権勢を誇った藤原氏の氏寺だったが、今は奈良の市民とともにある興福寺として親しまれているのも、この開放的雰囲気によるところが大きい。興福寺が開放的な寺院になったのは明治維新後の神仏分離令に続く廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)による。

興福寺境内

(写真は 興福寺境内)

柳茶屋

 長年、興福寺と春日大社は藤原氏の氏寺、氏神として神仏混淆(しんぶつこんこう)の信仰形態を取っていた。これが明治新政府によって分離され、その後に廃仏毀釈で僧侶は還俗したり、神官になったりして全国で寺院の取り壊しなどが起こった。
 興福寺もその例にもれず築地塀などが取り壊され、中金堂が県庁舎、食堂(じきどう)が学校の校舎に利用されなどして境内は荒廃した。このころ五重塔が当時の金で250円、三重塔が30円で売りに出され、五重塔は買い手がついたという話が残っている。その後、興福寺の再興を明治政府に関係者が嘆願し、広大な境内をそのまま公園にすることで再興が認められたことが、今日の開放的な興福寺の遠因になった。
 塀がなく非常に親しみやすい寺だが、やはり信仰の対象である仏のいます場所としての静けさ、落ち着きさが欲しいという声もある。また、境内でたき火や花火遊びをされることもあり、国宝の仏像など貴重な文化財の多い寺だけに火災や盗難など、防災面からも現在の姿がよいのか再検討を望む意見もある。

(写真は 柳茶屋)


 
西国三十三カ所第9番札所・南円堂  放送 10月3日(木)
 興福寺の中で庶民的雰囲気が漂い、いつも参詣人でにぎわっている南円堂(国・重文)は、西国三十三カ所第9番札所で巡礼姿の信者のお参りが絶えない。
 南円堂は弘仁4年(813)藤原冬嗣が創建、本尊に不空羂索(ふくうけんさく)観音菩薩座像を安置した。冬嗣の父・内麻呂は、藤原家の繁栄の道を弘法大師にたずねたところ、大師より「この仏を信仰しなさい」と自ら刻んだ不空羂索観音菩薩座像を与えられ、持仏堂に安置して拝んでいた。内麻呂の死後、冬嗣が弘法大師に民衆に仏の功徳をおよぼしたいと教えを乞うたところ、大師は「お堂を建て不空羂索観音菩薩座像を安置し、民衆に開放して広く信仰させなさい」と説いた。この教えに従い観音さまの恵みを広く人びとにも与えるとともに、父・内麻呂の追善供養を願い八角円堂の南円堂を建立して観音像を安置したと伝えられている。

南円堂(重文)

(写真は 南円堂(重文))

朱印

 平城遷都ともに始まった興福寺の伽藍造営は、冬嗣の南円堂建立でほぼ終わったと見られ、藤原氏の氏寺として官寺にも劣らない威容を誇るものとなった。
 現在の南円堂は寛保元年(1741)に再建され、三眼八臂(さんがんはっぴ)の本尊・不空羂索観音菩薩座像(国宝)は運慶の父・康慶の作と伝えられている。羂策(網)で庶民を救い、願いをかなえてくれる観音さまとして知られている。西国三十三カ所の寺で不空羂索観音菩薩像を本尊にしているのは南円堂だけである。
 御詠歌「はるのひは なんえんどうに かがやきて みかさのやまに はるるうすぐも」。

(写真は 朱印)


 
南円堂内陣と秘仏特別公開  放送 10月4日(金)
 弘仁4年(813)藤原冬嗣が建立した南円堂は、天平の古像・不空羂索(ふくうけんさく)観音菩薩座像を本尊としていたが、治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ちで興福寺は全山が焼失し、その被害は堂塔にとどまらず、仏像や経典類にもおよんだ。南円堂の本尊・不空羂索観音菩薩座像もお堂とともに焼失した。
 権勢を握っていた藤原氏の政治力と広大な荘園を保有していた興福寺の実力で興福寺の再興は、南都焼き討ちの翌年治承5年に早くも始まり、南円堂は焼失してから9年後の文治5年(1189)に再建されている。

木造不空羂索観音菩薩坐像(国宝)

(写真は 木造不空羂索観音菩薩坐像(国宝))

木造四天王立像多聞天(国宝)

 仏像造りには京都、奈良の当時一流の仏師が動員された。南円堂の本尊・不空羂索観音菩薩座像(国宝)をはじめ11体の仏像は、奈良仏師の康慶とその一門が製作した。康慶は不空羂索観音菩薩座像を天平の規模、意匠の再現に努めながら像の面相、筋肉などに鎌倉時代の生き生きとした造形を見せた。
 不空羂索観音菩薩座像は眉間に一眼をつけた三眼八臂(さんがんはっぴ)の像で、上半身に鹿皮をまとっている。第一手は胸の前で合掌、第二手は左手に蓮華、右手に錫杖(しゃくじょう)を持つ。第三手は両手ともわきの下に垂らし、第四手の左手に羂策、右手に払子(ほっす)を持っている。
 この時代に造仏された諸仏が多く伝わる興福寺は、鎌倉時代の仏教美術の宝庫といわれている。日ごろは拝観できない南円堂内陣・国宝の不空羂索観音菩薩座像と仮金堂内陣、中金堂埋納宝物が2002年は10月6日から11月11日まで特別公開される。

(写真は 木造四天王立像多聞天(国宝))


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