宝塚という名前は、宝の古墳という意味で、いまも市内のあちこちに古墳が点在する。宝塚市の母体の一つ、米谷村に伝わる伝説では或る古墳の近くで物を拾うと必ず幸せが訪れるというもので、元禄時代には、幸せが授けられる所として信仰されていたという。また、武庫川の対岸、良元村だった地域にも幸せを授けてくれる古墳が宝梅園という梅園の中にあって、宝の塚と呼ばれていたようである。 また、この地には古く鎌倉時代に「川面の湯」「小林の湯」などと呼ばれる温泉があったことが記録されている。近くは明治17年に武庫川沿いの現在の温泉街に鉱泉が発見され、明治20年には、掘削が成功して宝塚温泉が開業した。明治31年に武庫川の大洪水があり、温泉の建物が流されてしまったが翌年には再建、大正初期には、旅館30軒に増えていた。こうして現在にいたるまで繁栄が続いている。 温泉街の繁栄を支えたのは、明治30年に現JRの阪鶴鉄道の開通、続いて明治43年現阪急電鉄の前身、箕面有馬電気軌道の開通である。特に箕面有馬電気軌道の創業時の専務、小林一三が考えた色々な集客策が宝塚で実施された。遊園地、宝塚新温泉、その客寄せに考えられた少女歌劇が大正3年にスタート、発展を続けた。宝塚歌劇は、世界でもユニークな女性だけで演じられるレビュー・ショーとして今日まで続いている。 宝塚はまた古社寺や古跡が多いところである。西国33ヶ所の24番札所である中山寺をはじめ、清荒神、小浜宿跡などがある。 一方宝塚市は音楽都市を標榜し、音響効果の良いベガホールを拠点に国際室内合唱コンクールを実施する等、近代都市への発展に努力している。 宝塚の遊園地の近くに開設された市立手塚治虫記念館は、手塚ワールドの魅力をすべて与えてくれる。これでまたひとつ、宝塚の魅力が加わった。その他、清荒神の境内には明治時代の孤高の日本画家であり、神官でもあった富岡鉄斎の絵画を集めた鉄斎美術館がある。また園芸発祥の地としても宝塚は記憶されているが、近年、山本辺りの植木畑も少なくなったのは寂しい。
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