月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良市・興福寺国宝特別公開 

 興福寺は2010年に創建1300年を迎える。この間、堂塔は戦乱や落雷などの度重なる火災や、排仏毀釈による取り壊しなどの苦難に見舞われたが、その都度、その苦難を乗り越えて復興してきた。興福寺の中心的堂宇とも言うべき中金堂(ちゅうこんどう)が、創建1300年の2010年の復元を目指して作業が進められている。こうした中で「興福寺国宝特別公開2003」が11月10日まで行われ、五重塔内陣、菩提院大御堂、国宝館が公開され、普段は拝観できない仏像などが拝観できる。


 
五重塔  放送 10月13日(月)
 興福寺は和銅3年(710)平城遷都にあわせて藤原不比等が造営した。興福寺の前身は不比等の父・藤原鎌足の病気平癒を祈願して夫人の鏡女王(かがみのおおきみ)が、天智天皇8年(669)に山城国に建立した山階(やましな)寺が起源。その後、都が飛鳥に遷り、山階寺は飛鳥の厩(うまや)坂に移って厩坂寺となった。
 藤原氏の氏寺となった興福寺の伽藍(がらん)は、一族や天皇、皇后らの寄進によって次々と形を整え、奈良時代後期にはほぼ完成した。都が平安京へ遷ってからも興福寺は、藤原氏の隆盛にともなって大いに発展した。興福寺のシンボルとも言えるのが五重塔(国宝)で、猿沢池と合わせて眺めるsoの姿は、古都・奈良の中でも秀逸の景観となっている。

五重塔(国宝)

(写真は 五重塔(国宝))

三手先

 この五重塔は天平2年(730)藤原不比等の娘で聖武天皇の后・光明皇后によって建立された。建立以来、5回にわたる焼失、再建を経て現在の塔は、室町時代の応永33年(1426)ころに建てられており、高さ50.1mで、京都・東寺の五重塔に次いでわが国で2番目に高い五重塔である。創建時は聖武天皇が興隆した東金堂(とうこんどう)と五重塔が回廊で囲まれており、夫婦和合の聖域とも言われていた。
 室町時代に再建された五重塔ながら、創建時の古代様式を守った和様建築としてその価値が評価されている。建築位置も創建時と変わらず、東金堂の南に建ち西面している。

(写真は 三手先)

 五重塔の背骨とも言える中心の心柱は2カ所で接がれ、最上部まで抜けており、心柱の四方に四天柱がある。各層は積み上げ方式と呼ばれる建築方式がとられている。
積み上げ方式は初層の上に2層、その上に3層を鉛筆のキャップをかぶせるように積み上げ、そのぞれの層は木材の特殊な切り組みで接合されている。このほか当時の優れた匠の技による技法が随所に取り入れられており、これが現代の超高層ビルにも取り入れられている「柔構造」で耐震性が優れている。
 この卓抜した木造建築の耐震性がいかに優れているかは、全国に500棟以上ある三重塔や五重塔が、地震で倒壊した例が1棟もないことで分かる。

心柱

(写真は 心柱)


 
五重塔・内陣の仏たち  放送 10月14日(火)
 普段は公開されない五重塔初層の内陣は、中心に心柱、その四方に四天柱がある。
四天柱の四方には東に薬師三尊像、南に釈迦三尊像、西に阿弥陀三尊像、北に弥勒三尊像が安置されており、いずれも国宝の仏像である。今回の国宝特別公開で五重塔内陣の仏像が公開され、拝観することができる。
 内陣の諸仏はいずれも室町時代の五重塔再建時に桧材で造られたもので、奈良時代の興福寺創建時からの伝統を受け継ぐ形式になっている。五重塔など寺院の塔は、そもそも仏舎利を納めるための建造物なので、初層に仏像が安置されていることが多い。

西面(勢至菩薩阿弥陀如来 観音菩薩)

(写真は 西面
(勢至菩薩阿弥陀如来 観音菩薩))

弥勒如来(北面)

 興福寺五重塔初層内陣の西面は阿弥陀三尊像で、阿弥陀如来像を中心に向かって右に観世音菩薩像、左に勢至菩薩像が安置されている。阿弥陀仏は無量光仏とも言われ、計り知れない光明であらゆるものを照らし、念仏すれば臨終の時に迎えに来てくれ、西方の極楽浄土に連れて行ってくれる仏さま。観世音菩薩は慈悲深い菩薩で勢至菩薩は知恵を象徴する菩薩。
 北面しているのは弥勒三尊像で、弥勒菩薩は釈迦についで如来になることが約束されている菩薩で、現在は須弥山の頂上の兜率天(とそつてん)で天人に説法しながら如来になるための修行をしている。如来になるのは釈迦入滅後56億7千万年後とされおり、興福寺の五重塔内ではすでに如来扱いされ、弥勒如来としてまつっている。
脇侍は向かって右に法苑林菩薩像、左に大妙相菩薩像。

(写真は 弥勒如来(北面))

 東面している仏さまは薬師三尊像で、薬師如来像を中心に向かって右に日光菩薩像、左に月光(がっこう)菩薩像。衆生の病気を治療し、安楽を得させてくれる仏さまとして信仰されている。東方浄瑠璃世界の教主で日光、月光菩薩を脇侍とし、十二神将を眷属(けんぞく)としている。
 南面しているのは釈迦三尊像で、釈迦如来像を中心に向かって右に文殊菩薩像、左に普賢菩薩像が安置されている。釈迦如来は「お釈迦さま」と呼び親しまれている仏教の開祖。インド北部の釈迦族の王子だったが、29歳の時に王子の地位を捨て親や妻と別れて出家し、35歳で悟りを得て如来になった。文殊菩薩は知恵をつかさどる菩薩で、普賢菩薩は仏の真理や修行の徳をつかさどる菩薩として知られている。

南面(普賢菩薩 釈迦如来 文殊菩薩)

(写真は 南面
(普賢菩薩 釈迦如来 文殊菩薩))


 
秋風や囲いもなしに…   放送 10月15日(水)
 正岡子規が「秋風や 囲いもなしに 興福寺」と詠んだように、興福寺には境内を仕切る築地塀がない。大寺院でこれほど開放的な寺は全国にもあまり例がないだろう。それには歴史的な訳がある。
 興福寺と春日大社は藤原氏の氏寺、氏神として神仏習合(しんぶつしゅうごう)の信仰形態を取り、繁栄していた。明治維新後の神仏分離令に続いて出された排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、興福寺の僧侶は還俗したり春日大社の神官になった。この時、築地塀が取り壊され、中金堂(ちゅうこんどう)が県庁舎、食堂(じきどう)が学校の校舎に転用されるなど寺は荒廃した。中金堂の本尊・釈迦如来座像や食堂の本尊・千手観音立像などの諸仏は、北円堂や南円堂などにところせましと押し込められていた。

南大門跡

(写真は 南大門跡)

中金堂発掘地

 その当時、五重塔が250円、三重塔が30円で売りに出されたと言う嘘のようことがあった。五重塔には買い手がついて売り払われるところだったが、何とか売られずに残った。これらの事実から当時の混乱ぶりがうかがえる。
 明治13年(1880)興福寺の僧侶や藤原氏の関係者らが連名で、明治政府に興福寺再興願を提出した。翌年、政府から再興が認められ住職も決まった。この時に興福寺境内は奈良公園のままでおくことが条件にされ、奈良公園の中の寺として復興することになった。これが塀のない興福寺が生まれた由縁である。

(写真は 中金堂発掘地)

 奈良公園は一時は興福寺、東大寺、氷室神社の境内地も編入した公園として整備された。その後、各社寺が公園指定解除を申請、徐々に公園指定地の解除が行われた。
現在、興福寺は2万5000坪(約8万2500平方m)の境内地を有するようになったが、依然、築地塀はなく、人も鹿も自由に出入りできる開放的な状態が続いている。
 こうした開放的な寺院のままでよいのか賛否両論がある。信仰の対象の仏に対する礼拝をする場所であり、静けさと落ち着きが欲しい。また、国宝の堂塔近くでたき火をしたり花火遊びをされることもしばしば。国宝や重要文化財の建物や仏像などの文化財も多く、火災予防、盗難予防の管理面から、境内への出入りがチェックできる築地塀の設置が必要との声が出ている。

仮金堂

(写真は 仮金堂)


 
菩提院大御堂  放送 10月16日(木)
 開放的な興福寺の広大な寺域は、南は自動車が走り抜ける三条通りの南側、北は県庁前の大宮通り、東は春日大社一の鳥居前の国道169号、西は東向商店街そばまで及ぶ。
 その三条通の南、春日大社の一の鳥居の手前のホテルなどに隣接して興福寺の子院・菩提院が、ひっそりとたたずんでいる。奈良時代の高僧・玄ム(げんぼう)僧正(?〜746)の創建と伝わるが、実際は玄ムの菩提を弔う一院として造営されたと考えられる。玄ムは中国・唐から帰朝後、興福寺で法相宗を広めた僧。藤原不比等の娘で聖武天皇の生母・藤原宮子の病を治すなどして栄達、天平12年(740)の藤原広嗣の乱の原因を作り、乱後に筑紫の観世音寺に左遷された。

本尊阿弥陀如来坐像(重文)

(写真は 本尊阿弥陀如来坐像(重文))

稚児観音菩薩立像

 創建時の菩提院大御堂は治承4年(1180)の平重衡の南都攻めの焼き討ちで焼失した。鎌倉時代に再建されたが戦国時代の天文元年(1532)に再び焼失、現在の建物は天正8年(1580)に再建されたもので、昭和45年(1970)に大規模な改修、補強が行われた。
 堂内には本尊の阿弥陀如来座像(国・重文)を中心に不空羂索(ふくうけんさく)観音菩薩立像、稚児観音菩薩立像などが安置されている。本尊の阿弥陀如来像は天文の火災で被災し、頭部が新たに造られて旧像に取り付けられたもので、頭部は室町時代、体部は鎌倉時代のものとなっている。

(写真は 稚児観音菩薩立像)

 大御堂前の東側に「三作石子詰」の伝説で知られる「三作塚」がある。江戸時代、ここで習字の稽古をしていた三作少年が、習字草子を鹿に食べられそうになったので、鹿を追い払おうと文鎮を投げつけたところ急所に命中してしまい鹿を殺した。当時、鹿は春日大社の神の使いとされ、鹿を殺した者は生きたまま穴に入れ、上から小石を入れて埋め殺す「石子詰」の刑とされ、三作少年もこの刑に処せられたと伝えられている。
 大御堂の鐘楼には永享8年(1436)鋳造の梵鐘がある。この鐘はかつて昼夜の12時(とき)に撞かれていたのに加え、早朝5時ごろの勤行時にも撞かれたので「十三鐘」の名で庶民から親しまれ、十三鐘は菩提院の通称ともなった。

十三鐘

(写真は 十三鐘)


 
旧西金堂乾漆像  放送 10月17日(金)
 興福寺の西金堂(さいこんどう)は天平6年(734)聖武天皇の后・光明皇后が母の橘三千代の一周忌にあわせて建立した。中金堂(ちゅうこんどう)の西側にあり西金堂と名づけられ、東向きに建ち東金堂(とうこんどう)と向かい合い東金堂よりひと回り大きかった。建立以来、度重なる火災で焼失、再建を繰り返していたが、江戸時代中期の享保2年(1717)の火災後は再建されず、現在は西金堂跡を示す石標がポツンと立っている。
 この西金堂には本尊・釈迦如来像、脇侍の薬王、薬上菩薩や乾漆八部衆立像と乾漆十大弟子立像など安置されていた。薬王、薬上菩薩は中金堂本尊・釈迦如来像の脇侍として安置されているが、その他の仏像はすべて国宝館に安置されており、今回、特別公開され拝観できる。

須菩堤像(スボダイ・国宝)

(写真は 須菩堤像(スボダイ・国宝))

五部浄像(国宝)

 乾漆十大弟子立像のうち現存しているのは6体。現存の6体はいずれも国宝に指定されているフルナ、ラゴラ、モクケンレン、カセンエン、シャリホツ、スボダイの各像。
 釈迦には生涯に1250人の直弟子がいたと言われているが、その中でも傑出した10人の高弟を十大弟子と呼んでいる。それぞれ違った持ち味を発揮して修行し、釈迦の教えを広めた。実際にこの像と対面してその姿や表情を眺めながら、それぞれの特徴を知ることを勧めたい。

(写真は 五部浄像(国宝))

 乾漆八部衆立像とは古代インドの神々に、仏法守護などの役目を与え八部衆とした守護神の像。西金堂では本尊・釈迦如来座像の周囲に安置され、阿修羅像を除き守護神らしく武装した姿で直立していた。
 八部衆の中で特異な像が阿修羅像。3つの顔と6本の手を持つ三面六臂(さんめんろっぴ)の異様な姿だが、その顔には少年のような純真さと愁いを含んだような表情を漂わせ、眼差しや手の配置が美しい像として拝観者の人気が高い。阿修羅像と何度対面しても、阿修羅の心の奥をのぞくことはできない。
 乾漆像とは粘土で像の原形を作り、その上に麻布数枚を漆で張り重ね、乾燥したら中の粘土を取り除き、内部を木枠で補強して木粉を混ぜた漆で表面を整え、金粉や彩色を施して仕上げた像のことを言う。

迦楼羅像(国宝)

(写真は 迦楼羅像(国宝))


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