月〜金曜日 18時54分〜19時00分


福井市  

 越前国・福井は北陸道の入り口に当たり、都のあった畿内の外堀的な役目を持っていた。中世には斯波(しば)氏、朝倉氏が支配し、その後、柴田勝家が北庄(現在の福井市中心地)に城を築いて城下町を整備した。江戸時代に入っても北庄の福井城下が政治、経済、文化の中心となった。第二次世界大戦の戦災、すぐ後の昭和23年(1948)の福井地震で壊滅的な打撃を受けたが、不死鳥のように近代的な都市へ復興した。


 
福井の御城下  放送 10月14日(月)
 徳川家康の次男・結城秀康は関ヶ原の戦功により、慶長5年(1600)68万石を与えられて越前に入封した。そして翌年から北庄と呼ばれていた地で築城にかかり、6年後に雄大な規模の城を完成させた。以来、松平氏17代260年余の居城となった。
 本丸、二の丸の家康自らが縄ばりしたと言われた城は「北庄城」と称していた。3代藩主・松平忠昌の時に「北」の字が敗北につながるとして、城にあった名水の井戸「福の井」にちなみ福居と改め、さらに元禄年間から「福井」と書くようになった。寛文9年(1669)の大火で天守閣や城櫓(しろやぐら)など、城の建物のほとんどが焼失し、3年後に再建されたが天守閣は再建されなかった。

結城秀康(運正寺蔵)

(写真は 結城秀康(運正寺蔵))

養浩館(旧御泉水屋敷)

 明治維新の廃藩置県で城の建物は取り壊された。現在は福井県庁や福井県警察本部のビルが建っているほか、幕末に活躍した16代藩主・慶永(春嶽)を祭る福井神社、福井の名の起こりとなった「福の井」と呼ばれる井戸がある。
 本丸の北400mに位置する名勝・養浩館とその庭園は藩主の別邸を復元したものである。当初の養浩館は戦災で建物が焼失したが、国の名勝に指定されたのを機に復元事業が進められ、約8年の歳月をかけて平成5年(1993)書院造の建物が忠実に再現された。
 養浩館は3代藩主・忠昌が旧家臣の屋敷を庭にしたのが始まりで、7代藩主・吉品が大改修を行い回遊式林泉庭園に造り替えた。池を中心にした庭には石橋や岩島、石組などが配置され、池のほとりには書院造の建物群が建てられていた。江戸時代は「御泉水屋敷」と呼ばれていたが、明治時代から「養浩館」と改められた。

(写真は 養浩館(旧御泉水屋敷))


 
一乗谷の栄華  放送 10月15日(火)
 福井の市街地の南東約10kmの所にある一乗谷は、応仁の乱で越前国を手中にした朝倉孝景が文明3年(1471)本拠を構えて以来、天正元年(1573)義景の時に滅亡するまで5代、103年間にわたって政治、経済、文化の中心地として越前国守護・朝倉氏が栄えた所である。
 南北に細長い谷間は城戸(きど)と呼ばれる土塁で仕切られ、南に上城戸、北に下城戸があり、この間約2kmを城戸内と言っていた。城戸内の中央東側山麓に朝倉氏代々の館跡、その背後の一乗城山の山頂に一乗谷城跡がある。
 5代目・義景が住んでいた朝倉館は1700坪の敷地の三方に壕と土塁を巡らし、16棟の建物が並んだ豪壮なものだった。その規模は室町幕府の最高官職・管領の屋敷にも匹敵するもので、朝倉氏の力の大きさを示している。

朝倉館跡

(写真は 朝倉館跡)

諏訪館跡庭園

 館跡の正面にある現在の唐門は江戸時代中ごろに建て替えられたもので、門の上部に朝倉家の「三ツ木瓜」の紋と豊臣家の「五三の桐」の紋が刻まれている。館跡のすぐ上に湯殿跡、北約100mの一段高い所に南陽寺跡、南に少し離れた所に諏訪館跡がある。
 また一乗谷には後に将軍となる足利義昭を招いて酒宴を催した南陽寺庭園、戦国時代の荒々しく勇壮な石組みのある湯殿跡庭園、5代・義景の側室「小少将」のために造ったと伝えられる最も大きな庭園の諏訪館跡庭園、義景の母が住んでいた中の御殿跡庭園の4庭園があり、朝倉氏の栄華を物語っている。いずれの庭園も地中に埋もれていたため、後世の手が全く加えられておらず貴重な資料となっている。

(写真は 諏訪館跡庭園)


 
幻の都  放送 10月16日(水)
 天正元年(1573)織田信長に滅ぼされた朝倉氏の居城や当主の館、武家屋敷、町家などのあった一乗谷は、3日3晩燃え続け焦土と化した。その後、越前の領主となった柴田勝家は北庄城を居城とし、江戸時代に入っても福井城が居城となり、朝倉氏遺跡は一乗谷の草深い農村集落の地中に埋もれていた。
 昭和42年(1967)から本格的な発掘調査が始まり、朝倉氏の館、武家屋敷、寺院、町家、職人屋敷などの遺跡がほぼ完全な形で姿を現し、400年の深い眠りから目覚め現代によみがえった。町家、職人屋敷跡からの出土品で紺屋、油屋、酒屋、鍛冶屋、大工、塗師、珠数屋などの商店や職人の家が軒を連ねていたことがわかった。

バンドコ(炭を入れて使う行火)

(写真は バンドコ(炭を入れて使う行火))

武家屋敷

 地中に埋もれていた塀の石垣や建物の礎石を使い、南北200mの道路を中心に武家屋敷、町家、職人屋敷など、城下の町並が立体的に復原されている。復原された建物内では武家や商人、職人ら当時の人びとの暮らしぶりや生活の様子を出土品の複製によって具体的に再現ている。
 武家屋敷は周囲に土塀を巡らし、道路に向かって大きな門を構え、屋敷内には多くの建物がある。一方、町人の家は小さく、道路に建物が直接面している。この復原された町並を歩いているとちょんまげ姿の人にでも出会えそうな錯覚を覚える。
 朝倉氏遺跡から出土した多くの遺物や関係資料が、JR越美北線一乗谷駅近くの福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館に展示されている。

(写真は 武家屋敷)


 
古越前  放送 10月17日(木)
 日本六古窯(瀬戸、常滑、信楽、備前、丹波、越前)のひとつに数えられる越前焼の歴史は古い。福井市の南西に位置する織田町、宮崎村一帯で平安時代から大型の瓶(かめ)、壺、すり鉢などの生活用品が作られ、鎌倉、室町時代に隆盛を極めた。一乗谷朝倉氏遺跡からもこれらの越前焼が出土している。
 その後、南北朝時代の争乱が原因で衰微し、細々と農漁民の貯蔵用の瓶や壺を作り続け、戦後は土管やレンガなどを作りながら現代に至った。30年ほど前から伝統の越前焼を再興する機運が盛りあがり、福井県は昭和45年(1970)宮崎村に「越前陶芸村」を建設した。
陶芸村内に「福井県陶芸館」がオープンし、古越前の焼物を展示したり陶芸教室を開いている。陶芸村では新進の陶芸家が窯を開き、新しい越前焼に挑戦している。

古越前(一乗谷朝倉資料館蔵)

(写真は 古越前(一乗谷朝倉資料館蔵))

越前焼(たいら窯)

 織田町の平等(たいら)窯の8代目・藤田重良右衛門さんは、平安時代から伝わる越前焼の「輪積み」の古法を守り伝えている。
 作家の故司馬遼太郎は古越前の伝承を聞いたとき「こういうことを奇跡とよんでいいのではないか」と表現した。さらに藤田さんの作陶の輪積みの技法を見て「両手がたえず動き、体が器のまわりをまわり、人間が轆轤(ろくろ)になる」とも書いている。
 輪積みとは、ロクロを用いずにひも状にした粘土を積み重ねるように巻きあげて、瓶や壺の形にしていく独特の技法を言う。大型の壺や瓶を作るのに用いられており、藤田さんは昭和48年に真言宗総本山東寺の弘法大師生誕1200年祭の献花用大花器、東大寺開山良弁僧正1200年御遠忌献花用大花器を制作した。また昭和61年(1986)福井県無形文化財に指定されている。

(写真は 越前焼(たいら窯))


 
伝承の味  放送 10月18日(金)
 朝倉氏の時代、仏教への信仰が盛んで一乗谷には40もの寺院があったと言われ、その中でも西山光照寺は最大の寺で七堂伽藍の堂宇があった。一乗谷城とともに焼失し、今は本堂跡、庫裏跡などが残っている。
 その西山光照寺跡への参道の両側に阿弥陀如来、千手観音、不動尊などの石仏が38体並んでいる。この石仏は鎌倉文化を伝えるものとして高く評価されている。また西山光照寺跡付近の山に300基、一乗谷全体では3000基以上の石仏、石塔などの石造物が点在している。この石仏群は朝倉氏一族が仏教に深く帰依し、その家臣や庶民らも仏教を信仰していた証しであると同時に、往時の栄華を今に伝えている。

西山光照寺跡

(写真は 西山光照寺跡)

越前おろし蕎麦

 越前のそばは、一乗谷に初めて居城を構えた朝倉孝景が、戦時の非常食として栽培したのが始まりと言われ、当時はそばがき、そば餅として食べていた。現在では福井名物の越前そばとなっている。
 福井のそばで最も人気の高いのがおろしそば。ピリッと辛い大根おろしをたっぷりまぜただし汁をぶっかけ、それにネギと削りカツオかけて食べる。福井では寒い時期でもこの冷たいおろしそばをたべるのが通だとか、福井県民の長寿の秘訣だとか言われている。
 朝倉氏遺跡の一乗谷を歩いていて出くわすのが、古い旧家を改装したそば屋の「利休庵」。おろしそばのほかに打ちたてのおいしいそばが、一乗谷朝倉遺跡見物の疲れを癒してくれる。また、そば打ち体験もでき、自分で打った「打ちたて、ゆでたて」のそばが味わえる。

(写真は 越前おろし蕎麦)


◇あ    し◇
福井城跡JR北陸線福井駅下車徒歩徒歩5分。 
養浩館JR北陸線福井駅下車徒歩徒歩10分。 
一乗谷朝倉氏遺跡JR越美北線一乗谷駅下車徒歩20分。 
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館 JR越美北線一乗谷駅下車徒歩5分。 
福井県陶芸館JR北陸線武生駅からバス陶芸村口下車徒歩10分。 
藤田重良右衛門陶房JR北陸線武生駅からバス下河原口下車徒歩10分。 
西山光照寺跡JR越美北線一乗谷駅下車徒歩5分。 
利休庵JR越美北線一乗谷駅下車徒歩25分。 
◇問い合わせ先◇
福井市役所観光課0776−20−5346 
福井市観光協会0776−23−0525 
養浩館庭園0776−21−2906 
一乗谷朝倉氏遺跡管理事務所0776−41−2173 
朝倉氏遺跡保存協会0776−41−2330 
福井市教育委員会文化課0776−20−5367 
藤田重良右衛門陶房0778−36−0690 
利休庵0776−43−2110 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
   倶楽部入会の資料をご希望の方は、
 ハガキにあなたのご住所、お名前を明記の上、
          郵便番号 530−6691
          大阪市北区中之島センタービル内郵便局私書箱19号
                  「テレホンサービス係」
へお送り下さい。
   歴史街道倶楽部の概要を解説したパンフレットと申込み用紙をご送付いたします。
       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会