月〜金曜日 18時54分〜19時00分


龍野市 

 兵庫県西南部に位置する龍野市は城下町であり、文化の町でもある。町の中心部を流れる揖保川が町の文化と産業を育み、伝統産業の醤油、手延べ素麺、皮革産業を発展させた。今も町のあちこちに江戸時代の名残を残す町並みが残り、龍野公園からは童謡「赤とんぼ」のメロディが流れる自然豊かな町である。


 
播磨の小京都  放送 10月20日(月)
 龍野市は揖保川の清流が南北に流れ、室町時代に山城が築かれた鶏蘢(けいろう)山など、いくつもの小山の緑に囲まれた静かなところ。龍野小唄に「山は鶏蘢 流れは揖保よ」と歌われ、近世は脇坂氏5万3千石の城下町として栄えた。
 市の中心を流れる揖保川は、昔は交通の大動脈としての役割を果たすと同時に、流域の田畑の潅漑用水として大地を潤した。また、この水が伝統産業の醤油、手延べ素麺「揖保の糸」、皮革産業を育てた。

寛政十年龍野惣絵図

(写真は 寛政十年龍野惣絵図)

武家屋敷跡

 龍野は「播磨の小京都」と呼ばれ、今も武家屋敷や石垣、白壁の土蔵、商家などの町並みが残っており、当時の風情を漂わせる場所が多い。茅ぶきの士族屋敷もあり、質素倹約を旨としていた龍野藩の方針が、家臣の屋敷にも表れている。
 現在は教会となっている脇坂藩の公邸の土塀には「見通し窓」が今も見られ、武家屋敷周辺には城下町特有の曲がりくねった道が続いている。

(写真は 武家屋敷跡)

 武家屋敷資料館は龍野藩の中流武家屋敷を再現したもので、城下町の当時のようすを具体的に知ってもらうため、屋敷自体を資料として公開している。武家屋敷の特徴を残す欄間や天井、式台、玄関、座敷廻りなどは、江戸時代末期の天保8年(1837)の建築当時のままとなっている。
 復原にあたっては阪神淡路大震災で歴史的建造物の多くが大きな被害を受けた教訓を生かし、耐震性を高めるための補強を行った。

士族屋敷

(写真は 士族屋敷)


 
龍野城  放送 10月21日(火)
 龍野城は赤松政則が室町時代中期の明応8年(1499)わが子・村秀の居城として、現在は市のシンボルとなっている鶏蘢山の頂上にに築いた山城・朝霞城が最初。戦国時代の天正5年(1577)羽柴秀吉配下の石川光元が、この山城に代わって鶏蘢山の麓に朝霞城を取り壊して移した。
 その後、城主がひんぱんに交代し、一時は廃城同然になっていたが、江戸時代初めの寛文12年(1672)信州・飯田から入封した脇坂安政がこの城の再建にとりかかった。その翌年、天守閣はないが三方に石垣をめぐらした新しい城が完成した。

龍野城本丸御殿

(写真は 龍野城本丸御殿)

聚遠亭

 龍野藩は脇坂氏が明治維新まで10代にわたって治めた。脇坂氏は賤ヶ岳の七本槍のひとりとして有名な脇坂安治を始祖とし、安政は安治の孫。脇坂氏歴代城主の中には江戸城中刃傷事件で取りつぶしになった赤穂城受け取り役を務めた2代安照、江戸で寺社奉行となり但馬出石藩のお家騒動を裁いて老中になった8代安薫(やすただ)、桜田門外での井伊直弼暗殺の時の老中だった9代安宅(やすおり)らがいる。
 明治維新で龍野城は廃城となっていたが、昭和54年(1979)本丸御殿、多聞櫓(たもんやぐら)、隅櫓(すみやぐら)、埋門(うずめもん)などが復元された。

(写真は 聚遠亭)

 龍野城の北西にある聚遠亭(しゅうえんてい)は藩主の別邸跡で、茶室や庭園の見事さに加え、播州平野、淡路島、家島諸島を一望におさめる眺めが人びとの目を奪う。
 徳川幕府の老中だった松平定信が訪れた時、この眺望絶佳をたたえ「聚遠の門」と呼んだことから聚遠亭と名づけられた。この茶室は9代藩主・安宅が京都所司代の時、炎上した御所の復興に努力した功績で孝明天皇から拝領したんもので、数寄屋風の建物が周囲の庭園や池とよくマッチしている。隣には裏千家鵬雲斎千宗室から「楽庵」と名づけられた茶室もある。

御涼所

(写真は 御涼所)


 
強者たちをしのぶ  放送 10月22日(水)
 若き日の宮本武蔵が関ヶ原の戦の前後、龍野で修練を積んだとされる記録がある。
浄土真宗の播磨の拠点のひとつとして、龍野御坊と呼ばれた圓光寺が武蔵修練の場所で、境内に「宮本武蔵修練之地」の石碑が立っている。
 武蔵は慶長元年(1596)13歳の時、播磨・佐用平福で初めての試合に臨み兵法者に勝ち、14歳の時、圓光寺に立ち寄り2年間滞在して剣の道の修練をした。その後、再び武者修行の旅を続け、17歳の時、関ヶ原の戦に出陣したが敗れて龍野・圓光寺へ帰ったきた。武蔵の生誕地は定かでなく、美作国・大原町説、播磨国・高砂市説、同じく播磨国・太子町説などがある。

圓光寺

(写真は 圓光寺)

圓明流系譜(龍野市立歴史文化資料館蔵)

 当時の浄土真宗は織田信長との戦いに備えて武装しており、圓光寺も圓光流兵法の道場を持っていた。この道場で修練を重ねていた武蔵は、少年時代に習った右手に太刀、左手に十手槍を持つ二刀方式に圓光流を加え、二刀による「圓明流」を編み出した。圓光寺道場で修練していた3年間に、京都・吉岡一門と決闘に勝利している。
その後、圓光寺で初めての兵法書「兵道鏡」を書き上げ、武蔵流兵法を確立した。
 圓光寺道場では多くの地侍らに圓明流を教え、圓明流兵法の印可状を与えている。
中でも圓光寺第5代住持・祐應の3男多田半三郎(後の第7代住持・祐甫)は武蔵の高弟で、武蔵の編み出した圓明流は多田半三郎の子孫によって引き継がれた。

(写真は 圓明流系譜
(龍野市立歴史文化資料館蔵))

 宮本武蔵の時代からさかのぼること約1500年、相撲の祖と言われる野見宿禰(のみのすくね)が故郷の出雲へ帰る途中、龍野で没したとの記録が「播磨国風土記」に見える。
 野見宿禰は出雲国から垂仁天皇に召され、都で強力を誇る当麻蹴速(たいまのけはや)と力競べをして勝ち、相撲の神と呼ばれるようになった。彼を祭ったのが龍野の野見宿禰神社で、大相撲の歴代の横綱、大関が神社に玉垣を寄進している。宿禰が死んだ時、出雲から多くに人が龍野に来てリレー式で川から石を運び、墓を作ったと伝えられている。この石を運ぶ野に立つ人の姿から「立野」「龍野」の地名が生まれたと言われている。

力士寄進の玉垣(野見宿禰神社)

(写真は 力士寄進の玉垣(野見宿禰神社))


 
淡口醤油の町  放送 10月23日(木)
 龍野市内にはあちこちに煙突が立っており、煙突のあるところ醤油工場と言われるほど醤油造りの盛んな町。市内や近郊にいくつもの古い醤油蔵があり、同時に近代的な醤油醸造工場も見られる。
 龍野の醤油造りは、天正15年(1587)に始まったと伝えられ、香りの高い、こまやかな味わいの淡口(うすくち)醤油は、寛文6年(1666)円尾孫右衛門と言う人が考案したと言う。さらに龍野地方で産する良質の小麦、大豆と赤穂の塩、鉄分の少ない揖保川の軟水が醤油造りに適し、龍野藩の保護育成によって伝統産業としての基盤を確立した。

オオギイチ醤油

(写真は オオギイチ醤油)

うすくち龍野醤油資料館

 龍野で醤油造りが始まって以来、4世紀の間にわたって培われてきたのが龍野の淡口醤油の味。
現在の京料理は、淡い色の龍野の淡口醤油なくしては生まれなかったとも言われている。京料理に代表される関西の食文化にマッチした龍野の淡口醤油は販路を大いに拡大し、日本の醤油の三大生産地となった。
 醤油造りが最盛期の江戸時代には百軒余りの醤油醸造業者があり、現在、9社の醤油製造業者が操業しており、関西料理にあった伝統の醤油を製造している。年間の生産量は約5万5000キロリットル、約100億円となっている。

(写真は うすくち龍野醤油資料館)

 この龍野の淡口醤油の歴史がわかるのが「うすくち龍野醤油資料館」。この資料館はヒガシマル醤油会社の旧本社と仕込み蔵2棟を改装したもので、兵庫県重要有形民俗文化財に指定されている。旧本社の建物は明治時代中ごろ、ヒガシマル醤油の前身・菊一醤油造合資会社の本社として建てられたもので、昭和53年(1978)に新社屋が完成した時、資料館としてオープンした。
 資料館には実際に使われてきた昔の醤油造りの道具が、製造工程順に展示されている。これらの道具は昭和初めまで使われていたもので、ほかに文献資料、参考資料が展示されており、醤油造りの全容が分かる。また、入館料が今でも10円と言うのがユニークである。

麹室(うすくち龍野醤油資料館)

(写真は 麹室(うすくち龍野醤油資料館))


 
赤とんぼの里  放送 10月24日(金)
 自然豊かな龍野市はまた多くの文人、思想家を排出している。詩人・三木露風(1889〜1964)が、大正10年(1921)33歳の時、幼き日の故郷・龍野と母との思い出を「夕焼小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か」と歌ったのが「赤とんぼ」。山田耕筰の作曲で全国に流行し、日本人なら誰しも幼き日に歌った童謡である。
 この童謡・赤とんぼに因んで龍野市は「童謡の里」を名乗り、昭和62年(1987)「あなたの好きな童謡」を全国から募集、その上位8曲の歌碑を配した童謡の小径を作った。歌碑の前に立つとその童謡のメロディが流れてくる。

霞城館

(写真は 霞城館)

三木露風の愛用品

 三木露風は龍野に生まれ、小学校時代に俳句を作り、中学校時代から詩作を始めた。明治42年(1909)詩集「廃園」を出し、北原白秋の「邪宗門」と並んで詩壇に新風を吹き込み「白露時代」と呼ばれる一時代を画した。
 叙情詩的詩風は「白き手の狩人(かりうど)」で、象徴詩手法の東洋的・瞑想的詩情が盛られようになった。その後、キリスト教への帰依から宗教的傾向が増した。龍野公園の入口には「赤とんぼ」の歌詞や三木露風の胸像をはめ込んだ記念碑がある。

(写真は 三木露風の愛用品)

 龍野が生んだ文化人三木露風、矢野勘治(興安嶺)、内海信之(泡沫・青潮)、三木清の文献や資料を一堂に集め展示しているのが霞城館(かじょうかん)・矢野勘治記念館。三木露風、矢野勘治、内海信之の3人はいずれも龍野市名誉市民になっている。
 館内には露風が愛用していた机や筆、メガネ、懐中時計などや童謡集「真珠島」などが展示されている。矢野勘治は一高時代に正岡子規の門下に入り、一高の寮歌「ああ玉杯に花うけて」を作詞した。詩人の内海信之は石川啄木、北原白秋らともに注目された時代があった。三木清は西田哲学門下の鬼才といわれた哲学者で「人生論ノート」「哲学ノート」などの著書がある。

童謡集『真珠島』

(写真は 童謡集『真珠島』)


◇あ    し◇
武家屋敷跡、武家屋敷資料館、龍野城、
霞城館、うすくち龍野醤油資料館
JR姫新線本龍野駅下車徒歩20分。
JR姫新線本龍野駅からバス龍野下車徒歩10分。
聚遠亭、赤とんぼの碑JR姫新線本龍野駅からバス龍野下車徒歩20分。 
龍野御坊・圓光寺JR姫新線本龍野駅下車徒歩10分。 
JR姫新線本龍野駅からバス龍野橋下車
徒歩3分。
野見宿禰神社JR姫新線本龍野駅からバス龍野下車徒歩30分。       
◇問い合わせ先◇
龍野市商工観光課・龍野観光協会0791−64−3156
本龍野駅前観光案内所0791−63−9955 
武家屋敷資料館0791−63−9111 
龍野城0791−63−0907 
龍野御坊・圓光寺0791−63−0485 
うすくち龍野醤油資料館0791−63−4573 
霞城館0791−63−2900 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

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     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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