月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・きぬかけの路 

 平安時代、宇多天皇が初夏に雪を見たいと言われ、臣下の者が衣笠山に白絹をかけたと言う故事に因んで、その山すその金閣寺から西南の仁和寺あたりまでを「きぬかけの路」と呼んでいる。春はサクラ、秋は紅葉が美しく、散策コースには最適。沿道には古都の風情があふれた店や洒落た店が並び、寄り道しながらのぶらり歩きも楽しめる。


 
仁和寺  放送 10月27日(月)
 きぬかけの路の西端にある仁和寺は、平安時代初期に国家の安泰と仏教の興隆を願って光孝天皇が寺の建立を発願、仁和2年(886)創建に着手したが翌年、完成を見ずになくなった。次帝の宇多天皇が父帝の遺志を継いで仁和4年に完成させた。英邁と言われていた宇多天皇だったがわずか31歳で退位し、仁和寺で信仰生活に入った。法皇としてこの寺に御座所を置いたことから、御室(おむろ)御所と呼ばれるようになった。
 以後、明治維新まで約千年間、30代にわたって代々皇子、皇孫が門跡を務めた門跡寺院筆頭として栄えた。

仁和寺

(写真は 仁和寺)

本尊阿弥陀如来像

 仁和寺は室町時代末期の応仁の乱によって応仁2年(1468)に全山全焼、堂塔伽藍(がらん)はすべて焼失し、江戸時代まで復興されなかった。
 徳川三代将軍家光の援助を受けて寛永14年(1637)から再興にとりかかり、御所の紫宸殿(ししんでん)を移築した金堂(国宝)や仁王門、五重塔など30余の堂塔や塔頭寺院が、10年後の正保3年(1646)に再建された。現在の堂塔はこの時期に再建されたものが多いが、明治20年(1887)の火災で一部の堂塔が焼失してしまい、大正3年(1914)までにそれぞれ復興された。

(写真は 本尊阿弥陀如来像)

 金堂に安置されている本尊・阿弥陀如来像(国宝)は、仁和寺創建当時のものと推定され、童顔の顔立ちや丸みをおびた造りは平安時代前期の特徴をよく現している。
 旧御室御所を代表する建物が宸殿(しんでん)で、寝殿造と書院造を混合した様式。
宸殿には白砂を敷き詰めた庭と池、滝、築山を配した明るく雅な池泉回遊式の庭がある。庭の築山には光格天皇が好んで使った茶室・飛濤(ひとう)亭(国・重文)がある。
 仁和寺で有名なのが地上すれすれに咲く御室(おむろ)桜。この桜は遅咲きの八重桜で4月中旬から下旬にかけてが見ごろで京の桜の最後を飾る。

宸殿

(写真は 宸殿)


 
龍安寺  放送 10月28日(火)
 衣笠山の西に位置し、きぬかけの路のほぼ中央にある龍安寺(りょうあんじ)は、宝徳2年(1450)室町幕府の管領・細川勝元が、徳大寺家の別荘を譲り受けて創建した禅刹。堂塔伽藍(がらん)は応仁の乱で焼失、長享2年(1488)勝元の子・政元が再興して以来、細川家の菩提寺として寺運も隆盛となった。
 現在の堂宇は江戸時代中期の寛政9年(1797)の火災で焼失後に再建されたもので、方丈は慶長11年(1606)に建築された塔頭・西源院の方丈を移築したものである。大規模な禅宗寺院の方丈の典型として貴重な建物とされている。方丈中央の仏間には釈迦如来像と細川勝元の木像が安置され、方丈正面広間のふすまには上り龍、下り龍が描かれている。

細川勝元像

(写真は 細川勝元像)

下り龍(方丈正面の襖絵)

 方丈前の枯山水庭園の石庭は世界的に有名である。三方を築地塀に囲まれた東西約30m、南北10m余の長方形の庭に東から西へ7・5・3、見方によっては5・2・3・2・3と15個の石が配され、敷き詰められた白砂にほうき目で波紋が描かれている。境内の樹木を借景にし、石庭には草木は一本もなく、石と砂だけで構成された珍しい枯山水の庭である。
 15個の石は目の高さではどこから見ても微妙に重なり合い、どうしても14個しか見えず、これを「虎の子渡しの庭」とも言う。虎が子供を連れて川を渡る時、必ずその子を隠すことから隠れた石を虎の子に見立ててこう呼んだ。

(写真は 下り龍(方丈正面の襖絵))

 この石庭は禅の悟りの境地を表現したもので、無限の教えを語りかけており、この庭を静かに見る人たちがそれぞれ何かを感じ取ってくれることを期待している。
 この有名な石庭の陰に隠れて見落としがちなのが、苔むす庭園など龍安寺十勝と呼ばれる境内の景勝地。山門を入るとすぐ目に入る鏡容池もそのひとつで、この池は徳大寺家の別荘だったころのままの姿を残している。
 方丈の北東にある銭形の手水鉢の蹲踞(つくばい)は、中央の口の形と合わせて「吾唯知足(われただたるをしる)」と読むことができる。禅の格言を謎解きに図案化したもので、水戸黄門でおなじみの徳川光圀が寄進したと言われている。この庭の蹲踞は複製品で本物は非公開の茶室「蔵六庵」に保存されている。

吾唯足知(ワレ タダ タルヲ シル)

(写真は 吾唯足知(ワレ タダ タルヲ シル))


 
等持院  放送 10月29日(水)
 等持院は暦応4年(1341)足利尊氏が夢想国師を開山として創建した臨済宗の名刹で、室町幕府・足利将軍家歴代の菩提寺となった。尊氏が創建した当初は三条高倉にあって等持寺と名のっていた。延文3年(1358)尊氏が54歳で没した時、別院の北等持寺を墓所として葬り、尊氏の法名「等持院仁山妙義」に因んで等持院と改めた。本寺の南等持寺は応仁の乱後に等持院に合併された。
 等持院が衣笠山の南麓に創建された後、衣笠山東麓に室町幕府三代将軍・足利義満が鹿苑寺(金閣寺)を建立、等持院の西の龍安寺(りょうあんじ)は足利氏と縁の深い管領・細川勝元、政元父子が建立しており、衣笠山の山麓は室町時代初期の武将が「心のよりどころ」にした所とも言える。

足利尊氏像

(写真は 足利尊氏像)

足利尊氏の墓

 創建当時の等持院の伽藍(がらん)は壮大を極めたと言われたが火災で焼失、長禄元年(1457)の尊氏100年忌に8代将軍・義政が再建、以前よりも壮大な寺となった。その後も焼失、再建を繰り返し、現在の本堂(方丈)などの建物は江戸時代後期の文政元年(1818)に再建されたものである。
 境内には尊氏の墓や宝筐(ほうきょう)印塔、足利歴代将軍の遺髪を納めた十三重の石塔が建っている。霊光殿には尊氏の念持仏の地蔵尊像を中央に、禅宗の祖師・達磨大師像と等持院を開山した夢窓国師像が安置され、その両側には足利歴代将軍の木像がずらりと並んでいる。幕末の文久3年(1863)には、尊王攘夷派の志士たちが霊光殿に押し入り、尊氏、義詮、義満像の首を斬り、三条大橋の橋詰めにさらした事件もあった。

(写真は 足利尊氏の墓)

 方丈の東西には衣笠山を借景とした夢窓国師作庭の見事な庭園が広がっている。
静かで奥深い雰囲気をたたえた東庭は南北朝時代に造られ、江戸時代中期に造られた西庭は四季折々の花が美しく、石組が変化に富んでいる。この庭の樹齢400年と言われる有楽椿は、花をつける季節には参詣者の目を楽しませてくれる。
 西庭を前庭にしてたたずむ茶室「清漣(せいれん)亭」は、風雅の道に生き東山文化を築いた8代将軍義政が、長禄元年(1457)に建てたものが始まりとされている。この茶室には茶道の祖・村田珠光も座し、眼下に広がる庭の池に映る松や、初夏に咲き競うカキツバタを愛でたと思われる。

清漣亭

(写真は 清漣亭)


 
美の巡礼・堂本印象美術館  放送 10月30日(木)
 衣笠山の麓に続く古都・京都の風情が濃厚なきぬかけの路に、やや奇抜と思われるデザイン、装飾が施された白亜の建物の出現に、古寺散策をしていた人たちは驚くかもしれない。この建物は近代日本画壇を代表するひとり、堂本印象(1891〜1975)の作品2100点余を所蔵している京都府立堂本印象美術館。
 堂本印象美術館は建物のデザイン、外壁を飾るレリーフを中心とした装飾、館内の内装、椅子などの調度品に到るまで、堂本自身の創意によるもので、美術館自体が堂本の造形芸術が総合的に昇華した作品であると評価する人もいるほどである。美術館はその所蔵品、旧居宅、十数億円の運営資金とともに平成3年(1991)京都府に寄贈され、翌年、京都府立堂本印象美術館としてオープンした。

京都府立堂本印象美術館

(写真は 京都府立堂本印象美術館)

堂本印象旧居

 多くの作品を残している堂本の作風は、伝統的な日本画に始まり宗教画、洋画への接近、そして晩年の抽象画に到る華麗な変遷をたどり、日本画壇に強烈な刺激を与えた。これこそ印象の言う「固定することのない絶えざる創造的発展」と言う姿勢から生まれた「美の巡礼」と言えよう。
 堂本は本業の日本画のほかに油画、陶芸、ガラス、金工、染色、彫刻など、驚くほど広い領域に手を染め、多彩な才能の発揮した造形芸術家であった。「過去の美の重圧を押しのけ、新しい美の創造」に挑んだ堂本の精神が、それぞれの作品とこのオブジェ風の美術館に発揮されている。

(写真は 堂本印象旧居)

 館内のステンドグラス「楽園」は、福井地方裁判所のホールを飾っている高さ7m、幅3mの大ステンドグラスの3分の1のミニチュア複製版。楽器を奏でる人たちの様子が理想郷さながらに描かれている。ほかに「兎春野に遊ぶ」やパリの地下鉄車内の様子を描いた「メトロ」などの代表作が展示されている。
 また、堂本は信仰心の篤い家庭に育ち、仏経に帰依する心が篤く、仏教書、仏典もよく読んでいた。こうしたことから戦前には大徳寺、仁和寺、東福寺、東寺、高野山根本大塔、四天王寺宝塔、戦後には平安神宮書院、浅草寺、智積院宸殿、法然院方丈などのふすま絵、壁画、天井画などを制作している。堂本は寺院関係の仕事をする時こそ制作三昧の境地にひたっていたのかもしれない。

ステンド・グラス「楽園」(複製)

(写真は ステンド・グラス「楽園」(複製))


 
秋の散歩道  放送 10月31日(金)
 きぬかけの路ぞいには古都の京ならではの京小物の店や料理店、小粋な喫茶店などがある。きぬかけの路の散策や古寺の探訪の疲れを休め、気分転換にはこれらの店への道草もよいかもしれない。
 京小物の店・衣笠で見つけたのが温かみのある紙版画。絵図を切り出した50枚ほどの型紙で刷毛摺りして模様や絵を表したのが紙版画で、ひとつひとつが熟練職人の手作り作品である。絵付けする材料の布地、木、竹、和紙、石、ガラス、革などの上に型紙を置き、刷毛で摺っていく。型紙を多く使うほど、色が重なり深みのある模様に仕上がる。しかし1点1点が手作りのため、配色がわずかに異なるなど微妙な違いがあるのが紙版画の特徴である。

おか本紙版画

(写真は おか本紙版画)

金工布目象嵌(川人象嵌)

 この紙版画を制作している工房がおか本紙版画で、この技は平安時代の武具の一部の染革に用いられていたところまでさかのぼる。その後、京摺友禅の技術として栄え今日に到っている。
 また、金工象嵌(ぞうがん)は、鉄生地に刻んだ模様の溝に純金銀を打ち込んでいく京都の伝統工芸で、その技を継承しているのが象嵌の老舗・川人象嵌。
 象嵌の技術は遠く紀元前のペルシャ王朝時代の武器や王冠造りが起源である。中国でも紀元前の殷の時代から青銅器に金象嵌を施し、前漢時代の鉄製鏡や刀剣類に象嵌が見られる。

(写真は 金工布目象嵌(川人象嵌))

 日本では奈良県・石上神宮の国宝・七支刀に60余文字の象嵌の文字がある。この七支刀は百済から倭王に献上されたものとされ、日本で最初に作られたのは埼玉県・稲荷山古墳から出土した刀剣の金象嵌とされている。わが国での象嵌技術は、金文字で記録するために使われたのが始まりで、現在ではアクセサリー、バッジ、装飾品などにその技術が生かされている。
 「徒然草」の作者の吉田兼好は、妙心寺の西、双ヶ丘(ならびがおか)の山麓に草庵を結んだ。これにちなんで名づけた「つれづれ弁当」が名物の京料理の店・萬長が妙心寺北門前にある。京料理が手ごろな値段で味わえるので、散策の疲れを京料理で癒すにはうってつけ。

つれづれ弁当(京料理 萬長)

(写真は つれづれ弁当(京料理 萬長))


◇あ    し◇
仁和寺京福電鉄北野線御室駅下車。 
京都市バス、京都バス御室仁和寺下車。
龍安寺京福電鉄北野線龍安寺道駅下車徒歩10分。 
京都市バス龍安寺前下車。
等持院、京都府立堂本印象美術館京都市バス立命館大学前下車。
京福電鉄北野線等持院駅下車。
京小物・衣笠京福電鉄北野線龍安寺道駅下車徒歩10分。 
京都市バス龍安寺前下車。
おか本紙版画京福電鉄北野線高雄口駅下車徒歩5分。 
川人象嵌京都市バス等持院南町下車。 
京福電鉄北野線等持院駅下車徒歩5分。
京料理・萬長京都市バス妙心寺北門前下車。 
京福電鉄北野線妙心寺駅下車徒歩5分。
◇問い合わせ先◇
きぬかけの路推進協議会075−464−1655 
仁和寺075−461−1155 
龍安寺075−463−2216 
等持院075−461−5786 
京都府立堂本印象美術館075−463−0007 
京小物・衣笠075−461−2631 
おか本紙版画075−463−1956 
川人象嵌075−461−2773 
京料理・萬長075−461−3961 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

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