月〜金曜日 18時54分〜19時00分


水の都・大阪 

 豊臣秀吉が大坂城を築いてから急速な発展をとげた大阪は、戦前までは淀川、大川をはじめ人工的に掘られた堀川(運河)が市街地を縦横に走り「水の都・大阪」と言われた。この堀川を利用して全国から物資が大阪に集まり、江戸時代には諸藩の蔵屋敷が堀川沿いに建ち並び「天下の台所」と言われていた。一方、飲み水の確保には苦労しており、良い水の出る井戸を名水として重宝し、今も名水井戸の跡が各地に残っている。


 
島々の神・生国魂神社  放送 11月3日(月)
 わが国は古代には、たくさんの島々から成る国と言う意味で「大八洲国(おおやしまぐに)」と呼ばれていた。大八洲とは日本の古称で、古事記、日本書紀には伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の二神が生んだ島々の総称とされている。
 その当時は、現在、大阪市の中心部となっている上町台地のすぐ西側まで海が迫っており、大小さまざまな島が上町台地から眺められたと言う。豊臣秀吉が大阪城を築いてから、海べりの低湿地帯が開発されて城下町が形成され、海岸線はどんどんと沖へと遠ざかった。

浪速往古図(江戸中期・大阪城天守閣)

(写真は 浪速往古図
(江戸中期・大阪城天守閣))

生国魂神社

 上町台地の大阪市天王寺区生玉町にある生国魂(いくくにたま)神社は、その島々の霊である生島(いくしま)大神、足島(たるしま)大神を祭り、伊勢神宮成立以前の国家神であったと考えられる。大阪の人たちが「生玉(いくたま)さん」と呼び親しんでいる生国魂神社は、元は現在の大阪城の地に鎮座していた。社伝によれば東征してきた神武天皇が難波津に着いた時、生島大神、足島大神を祭ったのが始まりとされている。
 戦国時代に一向宗の蓮如が石山本願寺を生国魂神社に隣接して建立した。その石山本願寺跡に豊臣秀吉が大坂城を築城するにあたり、天正13年(1585)現在地へ遷座した。

(写真は 生国魂神社)

 江戸時代には生国魂神社神社境内に芝居や見世物小屋が軒を連ね、さまざまな芸能が行われてにぎわった。京都で露の五郎兵衛が始めた上方落語を米澤彦八と言う落語家が、生国魂神社の境内の舞台で披露して大坂に広めたと言われ、上方落語の祖ということで境内に記念碑が立っている。当時の生国魂神社付近のにぎわいが「浪速百景」にも描かれている。
 近松門左衛門ら文楽関係の物故者を祭る浄瑠璃神社が境内にあり、芸能上達の神として信仰を集めている。ちなみに近松門左衛門の「曾根崎心中」「生玉心中」は生国魂神社の境内が舞台となっている。

浄瑠璃神社

(写真は 浄瑠璃神社)


 
西方浄土へ・四天王寺  放送 11月4日(火)
 6世紀中ごろ欽明天皇13年(552)百済の聖明王から、釈迦金銅仏像や経論が献じられ仏教が伝来した。この仏教を信仰するか否かで論争が起り、仏教支持派の蘇我氏と反対派の物部氏が激しく対立、用明天皇2年(587)両者の間で戦いになった。仏教支持派の蘇我氏側についた聖徳太子は、四天王像を刻んでこの戦いの戦勝を祈願した。戦いは蘇我氏の勝利に終わり、聖徳太子は勝利のお礼に四天王寺を難波の地に建立した。
 四天王寺は中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂が南北一直線に並ぶ四天王寺式伽藍(がらん)配置として知られ、皇室から貴族、庶民にいたる幅広い信仰を集めた太子信仰の中心となった寺である。

龍の井戸

(写真は 龍の井戸)

亀井堂

 平安時代に四天王寺は大阪湾に沈む夕日を眺め、はるか西方の極楽浄土に想いをはせる「日想観(にっそうかん)」と言う修行の場所でもあった。日想観は観無量寿経に説かれている十六観のひとつである。特に春秋の彼岸の日には五重塔と金堂の中間に立って、西門の石の鳥居の中心から海に沈む夕日を拝し、極楽往生を願う貴族から庶民にいたる参拝者で境内はごったがえした。
 そして西門が参詣の正門となり、付近の地名は夕陽ケ丘となった。今も四天王寺の彼岸会の日には参拝者が押しかけて西に沈む夕日を拝み、極楽まで届くと言われる引導鐘が一日中つかれ絶えることなく響き渡っている。

(写真は 亀井堂)

 四天王寺の亀井堂は、堂の中心に大きな亀甲の石の水盤があり、亀の口から霊水が水盤に流れ出ている。参拝者は経木(きょうぎ)に亡くなった人の戒名を書き、回向してもらった後に亀井堂の水盤の水に入れて追善供養する。経木が水に浮くと極楽往生したことになり「これでご先祖も浮かばれた」と安心する。
 亀の口から流れ出ている霊水は、金堂の下にある青龍池から流れ出ていると言われている。この青龍池から出る亀井の水は「天王寺の七名水」のひとつにあげられている。境内の六時堂前の亀池は元は大寺池と呼ばれていたが、亀井にちなんで誰ともなしに亀を放すようになり、亀が増えていつしか亀池と呼ばれるようなった。

亀の池

(写真は 亀の池)


 
今に生きる太閤下水  放送 11月5日(水)
 豊臣秀吉は天下統一の拠点として上町台地の北端、石山本願寺跡に天正11年(1583)から大坂城を築き始め、上町台地の南の四天王寺から住吉、堺にいたる壮大な城下町を構想していた。
 築城の始まったころは一日2〜3万人、後には5〜6万人の人夫たちが築城現場に動員された。これらの人たちが築城現場付近に住みつき、人夫たち相手の商人も集まるようになり、必然的に城下町が形成された。秀吉は城下町づくりを計画的に進め、道路は大坂城へ向かう東西の道路を中心に碁盤の目状に整備して町割りをした。上町台地の西側に広がる低湿地帯を開発し、港湾機能を備えた町を建設、これが今の「船場」である。

熊野街道

(写真は 熊野街道)

背割(太閤)下水

 整然と区画された道路に面して町家が建ち、その家と家とが背中合わせになっている所に下水が敷設された。建物と建物の背を割って掘られたので「背割下水」と呼び、またの名を「太閤下水」とも呼んだ。当時は素掘りでふたのない開渠(かいきょ)だったが、後には石垣で護岸を施し、道路の横断部には石のふたがされるようになった。
 秀吉が進めた下水道をそなえた画期的で計画的な町づくりは、その後の江戸時代にも続けられ、大阪市制が発足した明治22年(1889)には、市内の下水道の総延長は約350kmにおよび、ロンドン、パリに肩を並べる下水道普及率だった。

(写真は 背割(太閤)下水)

 この太閤下水は今も現役の下水道として活躍しており、その太閤下水の見学施設が大阪市中央区農人橋一丁目の市立南大江小学校内にある。秀吉の発案で始まった大阪市の下水道の原形ともいえる下水道が脈々と引き継がれ、大阪市の環境保全に大きな役割を果たしている。太閤下水の見学と問い合わせは大阪市下水道技術協会へ。
 また、大阪市此花区高見1丁目の下水道科学館には、秀吉が大阪城築城を始めたころに作られた4段の御影石を積んだ深さ110cm、幅90cmの中規模の背割下水道を復元している。さらに近代的な下水道となった時期のレンガ積み下水道も復元されている。

東横堀川

(写真は 東横堀川)


 
川べりのレトロビル  放送 11月6日(木)
 道頓堀、長堀、立売堀、阿波座堀、京町堀、江戸堀、東横堀、西横堀など多くの堀川が縦横に走るかつての大坂は「水の都」と形容されていた。幕末の文久元年(1861)に大坂を訪れたイギリス駐日公使のラザフォード・オールコックは「大坂は日本のベネチア」との感想を残した。
 この堀川の歴史は豊臣秀吉が大坂城築城の折、外濠として掘らせた東横堀川に始まる。その後、大坂城の城下町建設に伴い、低湿地帯の排水と地面のかさ上げ用土砂を確保するため、あちこちに池が掘られた。この池が連続して堀川に発展し、大坂の城下町を縦横に走るようになった。

「ひまわり」ランチクルーズ

(写真は 「ひまわり」ランチクルーズ)

北浜レトロビルヂング

 大坂の町を縦横に結んだ堀川沿いには諸藩の蔵屋敷が建ち並び、川面に美しい姿を映していたが、今はその姿を見ることはできない。明治時代に入っても堀川は掘り続けられたが、その目的は舟運のためで名称も運河と呼ばれるようになった。戦後になって戦災のがれき処理、下水道の完備、道路交通の発達で堀川はつぎつぎ埋め立てられ、今は道頓堀川と東横堀川が残るだけとなった。
 明治時代以降、これらの川べりに建てられた近代建築が今も残っており、最新のビルの狭間にたたずむレトロな姿が近年人気を呼んでいる。大阪水上バスが運航しているグルメ遊覧船「ひまわり」で、ランチ、アフタヌーンティー、ディナーの食事を楽しみながら、川べりの建つビルを川側から眺めるのも視点が変わって楽しい。

(写真は 北浜レトロビルヂング)

 土佐堀川と中之島公園を背にし、大阪証券取引所の向かい側に建つ北浜レトロビルヂングは、証券の仲買業者の社屋として明治45年(1912)竣工したビルで、当時の最新建築様式を随所に見ることができる。この築後80年を過ぎたビルを改修して「北浜レトロ」と言う英国アンティーク喫茶を始めたのは北山寿一さん。大阪府庁を途中退職して「英国アンティークの雰囲気の紅茶喫茶店を始めたい」との夢を実現させた。
 レトロな雰囲気の漂うビルを探していたいたところこのビルに出会った。傷みのひどかったビルだったが、原形を壊さずに改修して開店にこぎつけた。ドアノブや電気のスイッチにいたるまで英国製と言う凝りようだ。英国のグラスゴー派の影響を受けているこのビルは、国の登録有形文化財になっている。

英国アンティーク喫茶

(写真は 英国アンティーク喫茶)


 
上町台地の名水  放送 11月7日(金)
 豊臣秀吉の大坂城築城後に城下町として開発された船場、島之内、堀江などは、もともと海辺の低湿地だった。この下町で井戸を掘っても塩水を含んだ水しか出ず、水の都・大坂の人びとは飲料水の確保に苦労した。江戸時代にはおいしい水の出る井戸から飲料水を汲み上げ、水を売り歩く水屋と言う商売があったほどで、飲み水は貴重なものだった。
 一方、上町台地は不思議な土地で、周囲が海抜ゼロメートル地帯なのに、どこから流れてくるのか地下水の水脈が台地の地表近くまで続き、おいしい水が湧き出る井戸があちこちにあった。古代の難波宮、四天王寺、石山本願寺、大坂城がこの地に築かれたのも飲料水があったからであろう。

大阪市街図屏風(林家蔵)

(写真は 大阪市街図屏風(林家蔵))

安井(かんしずめの井)

 この上町台地には「天王寺の七名水」と呼ばれた名水があった。七名水とは四天王寺の亀井清水、四天王寺境内の逢坂清水、安井神社境内の安井清水のほかに玉手水、増井清水、金龍水、有栖清水である。天王寺七名水のほかにも本清水(谷の清水)、岸の水、大江の社水、大江岸水、愛染清水、玉手の滝などの名水の井戸があった。
 四天王寺の亀井清水は亀井堂の経木流しの水として今も使われている。安居神社の安井清水はこの水を飲むと癇(かん)の虫が治まると評判だったが、今は1mほどの穴を取り囲む玉垣と「かんしずめの水」の石碑が名水井戸をしのばせる。四天王寺の南、庚申堂向かいにある本清水は今も水が湧き出ているが、ほかの名水井戸は姿を消したり、わずかに井桁や玉垣がその痕跡を示すだけとなっている。

(写真は 安井(かんしずめの井))

 上町台地の北端、大阪城内にも多くの井戸があった。天守閣前にある豊臣秀吉が黄金を沈めたとの伝説がある金明水井戸(国・重文)は、深さが33mもあり今もこんこんと水が湧き出ている。この井戸は徳川時代には黄金水と呼ばれ、金明水は別の井戸だった。いつのころからか金明水井戸はなくなり、明治時代に入って黄金水井戸が金明水井戸と呼ばれるようになった。水の毒気を抜くため秀吉が黄金を沈めたと伝えられていたが、昭和34年(1959)の調査では黄金はひとつも出なかった。
 金明水井戸の屋形の棟木に寛永3年の墨書銘があり、江戸時代初めに徳川幕府が大阪城を再建した時に建てられたものである。大阪城は何度も火災に見舞われているが、この屋形はこれらの火災をまぬがれ、21世紀まで残ったことになる。

金明水

(写真は 金明水)


◇あ    し◇
生国魂神社地下鉄谷町線、千日前線谷町九丁目駅下車
徒歩5分。 
四天王寺地下鉄谷町線四天王寺夕陽ケ丘駅下車徒歩5分。 
JR、地下鉄天王寺駅、近鉄南大阪線阿部野橋駅
下車徒歩それぞれ15分。
太閤下水見学施設地下鉄谷町線、中央線谷町四丁目駅下車徒歩5分。 
下水道科学館阪神電鉄淀川駅下車徒歩7分。 
北浜レトロビルヂング
(英国アンティーク喫茶)
地下鉄堺筋線、京阪電鉄北浜駅下車。
安居神社JR、地下鉄天王寺駅、近鉄阿部野橋駅下車
それぞれ徒歩15分。
地下鉄谷町線四天王寺夕陽ケ丘駅下車徒歩10分。
大阪城天守閣地下鉄谷町線天満橋駅又は谷町駅、
中央線森ノ宮駅又は谷町4丁目駅、
長堀鶴見緑地線大阪ビジネスパーク駅下車。
JR環状線森ノ宮駅又は大阪城公園駅、
東西線大阪城北詰駅下車。
京阪電鉄天満橋駅下車。
◇問い合わせ先◇
生国魂神社06−6771−0002 
四天王寺06−6771−0066 
大阪市都市環境局(太閤下水道)06−6615−7157
大阪市下水道技術協会06−6615−6370 
下水道科学館06−6466−3170 
北浜レトロビルヂング
(英国アンティーク喫茶)
06−6223−5858
グルメ遊覧船ひまわり(大阪水上バス)06−6942−7775
安居神社06−6771−4932 
大阪城天守閣06−6941−3044 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
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