月〜金曜日 20時54分〜21時00分


東大阪市 

 東大阪市は高い技術力を誇る中小企業の町で、戦後日本の経済成長を支えた工業生産の原動力となった。だが、長引く不況と職人の高齢化、生産工程のコンピューター化などによる技能の空洞化が進み、大きな試練の時を迎えている。市の東部・生駒山山麓には古墳などの遺跡も多く、古代の文化が栄えた所でもある。
 


 
瓢箪山稲荷神社  放送 11月5日(月)
うらばの碑 近鉄奈良線瓢箪山駅南東の小高い丘の上ある瓢箪山稲荷神社は、天正12年(1584)豊臣秀吉が大阪城築城にあたり、大阪城鎮護のため辰巳の方角に家臣・片桐且元に金の瓢(ひさご)を埋めさせ、「ふくべ(瓢)稲荷」を勧請したことに始まると言う。
 瓢箪山は瓢箪山古墳と呼ばれる双円墳で、ヒョウタンを埋めたような形に似ていることからこの名がついた。瓢箪山稲荷神社本殿脇には横穴式石室があり、境内北側の石室には稲荷神社の神の使いとされるキツネが住んでいたと伝えられている。瓢箪山から八尾市にかけては縄文時代から古墳時代にかけての遺跡が多い所で、瓢箪山古墳もそのひとつ。
(写真は うらばの碑)

辻占の図『北斎漫画』より 瓢箪山稲荷神社は江戸時代から辻占(つじうら)が行われ、明治時代になって全国的に知られ、大正時代に最も盛んになった。葛飾北斎が描いた漫画にも「辻占の図」が描かれている。北斎が吉野、紀州、伊勢など関西方面を旅行した時、瓢箪山稲荷神社の辻占の繁盛ぶりを見て描いたものと見られている。
 辻占は夕方、辻に立って道行く人の話す言葉などを聞いて自分の運命を判断したもので、古くは夕占(ゆうけ)と言い、万葉集の歌にも夕占の表現で詠まれている。
 現在の瓢箪山稲荷神社の辻占は、おみくじを引いて東参道入り口の「占場(うらば)」に立ち、おみくじの番号が1なら通行人の1人目、番号が2なら2人目の人の年齢、性別、服装、持ち物などを社務所の宮司に告げ、それによって依頼者の運勢を判断する「神断」を下すと言う方法。おみくじの番号は1〜3まで。
 占いの語源は「裏合い」で、人知のおよばぬ裏の意味を表の現象などで知ることを言う。
その原点は亀卜(きぼく)で亀甲を焼き、亀裂の形で吉凶を占った。鹿の骨を焼いてその亀裂で占った方法もあった。
(写真は 辻占の図『北斎漫画』より)


 
司馬遼太郎記念館  放送 11月6日(火)
司馬遼太郎邸の門 近鉄奈良線八戸ノ里駅にほど近い住宅街に、11月1日「司馬遼太郎記念館」がオープンした。この記念館は平成8年(1996)に亡くなった司馬さんの自宅と一体となった施設で、入館者はまず司馬さんの本名「福田」の表札がかかった門を入る。新館入口へたどり着くまで、司馬邸の裏庭を歩くのが司馬遼太郎記念館の散策ルートとも言える。このルートの途中で、ガラス越しに司馬さんの書斎を見ることができる。机の上の原稿用紙、万年筆、ルーペ、灰皿、そして書棚。未完となった「街道をゆく」の資料などが執筆当時のまま置かれており、白髪の司馬さんがひょっこり姿を現すような錯覚にとらわれる。多くの名作が生み出された書斎を過ぎると、大作家・司馬遼太郎の頭脳とも言うべき新館へ。
(写真は 司馬遼太郎邸の門)

書斎 司馬遼太郎さんの業績と遺志を永く後世に伝えるため、平成8年(1996)に「司馬遼太郎記念財団」が設立され、財団の活動のひとつとして「司馬遼太郎記念館」の建設が進められた。
 記念館は司馬文学の息吹を伝え、日本人の心を考える「場」として、司馬旧宅の保存と隣接地に旧宅と一体化した地下1階、地上2階の建物が建設された。新しい建物の周囲には樹木が植えられ、旧宅の庭と共に雑木林の森になっている。この雑木林からは時折、小鳥の鳴き声も聞こえる緑の文学館である。
 司馬遼太郎氏は本名・福田定一。大正12年(1923)大阪市で生まれ、新聞記者生活を経て作家に。「梟の城」で直木賞、「龍馬がゆく」「国取り物語」で菊池寛賞、平成5年(1993)に文化勲章を受章。“司馬史観”と呼ばれる自在で明せきな歴史の見方が読者の信頼を集めた。「街道をゆく」の連載半ばに72歳で急逝した。
(写真は 書斎)


 
司馬遼太郎との対話空間  放送 11月7日(水)
新館 司馬遼太郎記念館は既存の他の作家の記念館とはだいぶ趣を異にしている。眼鏡、自筆原稿などの遺品類も展示されているが、圧倒されるのは地下1階から地上2階まで吹き抜けになった高さ11mの書棚。ここには司馬さんの蔵書、文献、自著など2万冊の書物がびっしりと詰まっており、司馬さんはこれらの書物を読み、資料を検証して作品を書きあげた。ここにたたずむと司馬さんの頭脳の中にいるような感じがする。建物を設計した安藤忠雄氏はここを司馬さんや自分との「対話空間」と呼んでいる。
(写真は 新館)

書棚 安藤忠雄氏が設計した記念館の外観は円形で、光が注ぎ込む回廊が記念館内へと来館者をいざなってくれる。建物の窓にはめられた白いステンドグラスは、大きさ、熱さ、質感がそれぞれ違うガラスを組み合わせている。地階の150席のホールは、映像展示、講演会、読書会、交流会などが開催できる。
 この記念館は文化を共有する人々がふれあいの輪を広げ、新しい文化のネットワークを築き、司馬遼太郎の世界に近づき、対話の場となる新しい文学館と言える。庭があり、書斎があり、膨大な本があるこの空間全体が司馬遼太郎の世界であり、東大阪市に誕生した新名所。
(写真は 書棚)


 
長榮寺  放送 11月8日(木)
慈雲尊者像 長榮寺は聖徳太子が創建したと伝えられる古刹だが、江戸時代中期の高僧・慈雲尊者(1718〜1804)ゆかりの寺として知られている。寺伝によれば本尊・十一面観音立像は聖徳太子自らが刻んだもので「百済山長榮寺」の山号は、創建当時、百済僧を住職としたため百済山と号したと言う。
 中世以来、兵火に見舞われ寺運は衰えたが、延享元年(1744)慈雲尊者が堂塔を再建して復興、現在のような立派な寺にした。境内奥にある雙龍(そうりゅう)庵禅那台は、慈雲尊者が長榮寺の東の生駒山中腹に草庵を結び、座禅修行をしたり梵学の研究に励んだ記念すべき庵室を移築したもので、慈雲の意匠の巧みさが注目される庵室である。
(写真は 慈雲尊者像)

禅那台 慈雲は大阪・中之島の高松藩蔵屋敷で生まれた。父を亡くした慈雲は13歳で「田辺のお不動さん」として親しまれている大阪・田辺の法楽寺(大阪市東住吉区山坂町)で出家した。その時、師となった法楽寺の住職・忍綱(にんこう)に向かって「自分は仏教が嫌いだ。出家するのは父の遺言と仏教を学んで仏教批判をするためだ」と言って忍綱を苦笑させたと言う。
 慈雲尊者が目指したものは、釈迦時代の仏教、すなわち釈迦が弟子たちと暮らしていた生活であった。仏弟子としての自分を強く意識していた慈雲は、釈迦の時代に戻すことが正しい仏の道であると考えていた。
 また、学僧としての慈雲は数々の業績を残している。そのひとつが、袈裟の製法・材質・染料・寸法などを集大成した「方服図義(ほうぶくずぎ)」や「方服図義講解(ほうぶくこうげ)」を著し、また梵語の研究では「梵学津梁(ぼんがくしんりょう)」全1000巻が代表的な著作である。
(写真は 禅那台)


 
銅鐸に見た工人の魂  放送 11月9日(金)
加茂岩倉三五号銅鐸(復元) 町工場の町・東大阪には、高度な技術を誇る中小企業が多い。全国1位のシェアを誇る企業だけでも百社を超えると言う。そのひとつに艦船エンジン用のバルブなどを作る上田合金会社がある。社長の上田富雄さんは自称“鋳物屋のおっさん”だが、ひょんなことから弥生時代の銅鐸を作った工人の魂に魅せられ、銅鐸の復元にとりつかれている。
 樹脂製の銅鐸レプリカが本物そっくりにでき上がったと新聞で報じられた。これを読んで「青銅器の銅鐸をプラスチックで作るとは何事か。弥生時代の工人の魂を知らない所業だ」と知人にもらした。そのひと言がきっかけで島根県加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸展を見に行った。最初、肉厚4ミリの銅鐸を見て「これならできまっせ」と言った。
だが、次に肉厚2ミリの銅鐸を見た時には「えっ、何で!。どないして鋳造したんや」と頭の中が真っ白になり、後の言葉が出なかったと言う。
(写真は 加茂岩倉三五号銅鐸(復元))

三角縁神獣鏡(復元) 肉厚2ミリの銅鐸との出会いで、弥生時代の工人の高い技術力と工人の魂に畏敬の念を抱くと共に、その技術への上田さんの挑戦が始まった 肉厚の薄いものを鋳造するには、1200度以上の金属の溶解温度が必要なのだ。これだけの高温を保つために弥生人はどのような溶解炉や材料を入れるルツボを使ったのか。
何を燃料に使ったのかと次々に疑問がわいてきたが想像がつかなかった。肉厚2ミリの銅鐸の復元への挑戦は、何度も何度も失敗を繰り返しながらやっと成功した。だが、まだ本物の銅鐸にはおよばず、弥生時代の工人の技術の優秀さは、現代の職人にもおよばないものがあることを上田さんは痛感している。
 上田さんは高さ150cm、重さ325kgの銅鐸を製作し「テクノメッセ東大阪2000」に出品した。ほかにも数多くの銅鐸を復元し、大学や博物館に寄贈しているが「まだまだ弥生時代の本物の銅鐸の水準には達していない。さらに技術を磨き弥生時代の工人に迫りたい」と闘志を燃やし、銅鐸への夢を追い続けている。
(写真は 三角縁神獣鏡(復元))


◇あ    し◇
瓢箪山稲荷神社近鉄奈良線瓢箪山駅下車 徒歩2分。 
司馬遼太郎記念館近鉄奈良線八戸ノ里駅下車 徒歩8分。  
長榮寺近鉄奈良線河内永和駅下車 徒歩2分。 
◇問い合わせ先◇
瓢箪山稲荷神社0729−81−2153 
司馬遼太郎記念館06−6726−3857 
長榮寺06−6781−0797 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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