月〜金曜日 18時54分〜19時00分


和歌山・紀ノ川に沿って 

 奈良、三重県境の大台ケ原に源を発する紀ノ川は、和歌山県の北部を西に流れ紀淡海峡にそそぐ母なる川である。この紀ノ川を交通路とした流域には古くから文化が栄えた。今回はかつては高野山参詣の玄関口でもあった九度山町を中心に紀ノ川流域を訪ねた。


 
西国三十三カ所第三番札所・
粉河寺(粉河町) 
放送 11月10日(月)
 紀ノ川中流の北岸に豪壮な大門がそびえる古刹・西国三十三カ所第三番札所粉河寺がある。創建はこの寺に伝わる粉河寺縁起絵巻(国宝)によると、奈良時代末の宝亀元年(770)この地の猟師・大伴孔子古(くじこ)が山中で獲物を狙っていたところ、異様な光が発するのを見つけこの地を霊地として草庵を建てた。ある日、ひとりの童子が訪ね来て宿を乞い、そのお礼に千手千眼観音像を刻みいずことなく立ち去った。
 河内国の長者・佐太夫の娘の重病を治した童子が「用あらば粉河に訪ねよ」と立ち去った。翌年、粉河を訪ねた佐太夫が孔子古の小堂に安置されている千手千眼観音像が、娘が与えた礼の品を手にしているのを目にし、娘の病を治してくれたのはこの観音様だと知った。

粉河寺縁起絵巻(国宝・鎌倉時代初期)

(写真は 粉河寺縁起絵巻
(国宝・鎌倉時代初期))

中門(重文・江戸時代)

 千手千眼観音のご利益に感激した長者の佐太夫は観音に帰依し、孔子古とともに寺を大きくした。平安時代に西国三十三カ所を定めた花山法皇が粉河寺を巡行して第三番札所となった。以来、朝廷や貴族らの信仰を集め、藤原頼通、藤原師実ら藤原一族や平重盛、維盛、足利義持、義教らの貴人、武将らの参詣が続いた。
 天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めで、多くの堂塔伽藍(がらん)が焼失するまでは隆盛を極め、広大な寺域に七堂伽藍、550坊が建ち並び、紀州では高野山、根来寺に次ぐ勢力を誇っていた。兵火で焼失した堂塔は江戸時代に入って紀州徳川家の保護と援助を受けて再興された。

(写真は 中門(重文・江戸時代))

 現在の建物は江戸時代中期に再建されたもので、入口の壮大な大門(国・重文)、「風猛山」の扁額がかかる中門(国・重文)、一重屋根の礼堂と二重屋根の正堂が結合した珍しい形の本堂(国・重文)など、大小20余の堂塔が甍(いらか)を並べ、隆盛時をしのばせている。総ケヤキ造りの本堂は西国三十三カ所札所の中で最大の本堂である。
 本堂前の紀州の名石を集めて造られた石庭「粉河寺庭園」は、枯山水の石組が力強い美しさを見せ、国の名勝に指定されている。
 御詠歌「ちちははの めぐみもふかき こかわでら ほとけのちかい たのもしのみや」。

本堂(国宝・江戸時代)

(写真は 本堂(国宝・江戸時代))


 
真田庵(九度山町)  放送 11月11日(火)
 真田庵の正式名称は善名称院と言い、真田昌幸(1547〜1611)、幸村(1567〜1615)隠棲の屋敷跡を、寛保元年(1741)僧・大安が寺とした。真田家の菩提寺で、昌幸、幸村、大助父子三代の墓がある。
 真田の紋所・六文銭が門扉に刻まれている門をくぐると、城郭を思わせるような八つ棟造りの複雑な三層屋根を持つ重厚な構えの本堂が目に入る。棟の左右には鴟尾(しび)が置かれており、寺院としては珍しい建物であり、建物あちこちに六文銭の紋所が見られる。

真田真幸

(写真は 真田真幸)

真田真幸の墓

 信州・上田城主だった昌幸は関ヶ原の戦で西軍につき、幸村とともに徳川秀忠の関ヶ原への進軍を上田城で阻止した。だが、関ヶ原の戦は徳川方勝利に終わり、昌幸、幸村父子は徳川方についた幸村の兄・信之の徳川家康への助命嘆願で処刑をまぬがれ、九度山へ蟄居(ちっきょ)を命じられた。
 昌幸は真田庵で雪辱の機会を狙っていたが、関ヶ原の戦から11年後の慶長16年(1611)に死去、夢は子の幸村に託された。幸村は豊臣秀頼の挙兵による大坂冬の陣、夏の陣に真田十勇士らを引き連れて参戦、獅子奮迅の戦いをしたが夏の陣で戦死した。

(写真は 真田真幸の墓)

 真田庵境内の真田宝物資料館には幸村が愛用した槍先など、武勇の誉れ高い真田の武具、甲冑(かっちゅう)類や書状、昌幸が考案した真田紐(さなだひも)などが展示されていて、ありし日の真田一族の面影をしのばせている。毎年5月3日から5日には幸村をしのぶ真田祭があり、三好清海入道や霧隠才蔵ら真田十勇士らの武者行列が九度山町内を練り歩く。
 真田庵を訪ねた俳人・与謝蕪村が「かくれ住んで 花に真田が 謡かな」「炬燵(こたつ)して 語れ真田が 冬の陣」と詠んだ句碑がある。

真田幸村愛用の槍先

(写真は 真田幸村愛用の槍先)


 
慈尊院(九度山町)  放送 11月12日(水)
 平安時代初めの弘仁7年(816)高野山を開いた弘法大師・空海が、高野山参詣の表玄関となるこの地に伽藍(がらん)を開いたのが慈尊院。高野山の寺務を司ったところから高野山政所(まんどころ)とも呼ばれた。厳寒の高野山を避け冬期の修行の場にもなったほか、京の都から高野山へ参詣した天皇や皇族、貴族らの宿舎としても使われた。
 高野山を開き修行するわが子に一目会いたいと、承和元年(834)四国・讃岐国善通寺から空海の母が訪ねてきた。だが、女人禁制の高野山へは登れず、空海は慈尊院に母を迎え住まわせたが翌年没した。空海は月に9度は高野山から下って母を訪ねていたことから九度山の地名が生まれた。

多宝塔

(写真は 多宝塔)

弘法大師御母公尊像

 空海は慈尊院の本尊・弥勒仏座像(国宝・秘仏)を篤く崇拝していた母のために弥勒堂(国・重文)を建て、弥勒仏座像と御母公像を安置した。弥勒菩薩に化身した空海の母が眠る寺、女性の高野山参りは慈尊院までとの戒律から慈尊院は女人高野と言われるようになった。
 慈尊院は子授け、安産、育児、授乳などの祈願の寺としての信仰が篤く、祈願する際に乳房型の絵馬を奉納する。弥勒堂前には布で形取った乳房が無数に結びつけられており、有吉佐和子の小説「紀の川」にも乳房型の絵馬を奉納して安産を祈願する様子が描かれている。

(写真は 弘法大師御母公尊像)

 慈尊院から高野山までの参道には1町(109m)ごとに町石が立てられている。
慈尊院から高野山・根本大塔まで180本、根本大塔から奥の院まで36本、そのほかに36町ごとの一里石が4本あり、総延長は約24km。町石は高さ約3m、幅30cm、五輪卒塔婆型をしており、第1番目の180町石が慈尊院にある。この町石の立つ参道は今は、ハイキングコースとして親しまれている。
 初めは木製のものが立てられていたが、鎌倉時代から御影石の石造町石に建て替えられ始めた。これは相当の資力を要する事業で、後嵯峨天皇や貴族、鎌倉幕府の執権、有力御家人らが町石を寄進している。中には庶民の集団が寄進したものが6基あり、大師信仰の篤さを物語っている。

高野町石

(写真は 高野町石)


 
勝利寺と高野和紙(九度山町)  放送 11月13日(木)
 慈尊院の南西の山あいにひっそりと建つ勝利寺は、空海が高野山を開創する以前の開基と伝わる古刹。空海が42歳の厄年に厄除けのために自ら刻んで納めたと言う十一面観音像が今に伝わっており、現在も厄除け観音として近郷の人たちから信仰されいる。
 壮大な仁王門は棟札の銘に宝暦5年(1755)とあり、この年に上棟されたようだ。鬼瓦の銘が安永2年(1773)となっているので、この年に完成したのであろう。
(写真は×××××) 
弘法大師(真田庵)

(写真は 弘法大師(真田庵))

勝利寺

 仁王門をくぐると正面に本尊・十一面観音菩薩像が安置されている本堂があり、その右には地蔵堂がある。今では勝利寺の寺名にあやかって、スポーツや勝負ごとに勝つことを祈願する寺として親しまれている。
 境内に隣接して勝利寺の庫裏を改築した「紙遊苑」は、高野和紙の伝統文化を伝える体験資料館で、紙すき体験施設や色鮮やかな和凧(わだこ)をはじめ和紙工芸品が展示されている。

(写真は 勝利寺)

 空海が里人に製法を教えたと伝えられている高野和紙は、九度山町で100軒もの家が紙すきをしていた時代もあったが、今はわずか1軒のみとなってしまった。
「紙遊苑」では予約すれば、はがき3枚1組300円、色紙1枚300円、高野和紙1枚(A4大)400円の材料費だけで手すき和紙の体験ができ、自作の和紙を手にすることができる。
 また紙遊苑には勝利寺から譲り受けた国指定史跡の庭園があり、落ち着いた雰囲気を苑内に醸し出しており、初夏にはショウブの花が美しい。

紙遊苑

(写真は 紙遊苑)


 
実りの秋(かつらぎ町)  放送 11月14日(金)
 かつらぎ町を東西に流れる紀ノ川の清流をはさみ、南の妹山、北の背山は万葉の歌枕になっている景勝の地。この両山を南北に眺められる小島船岡山は、紀ノ川の中にあり紀ノ川流域でも自然豊かで眺望の良いポイントのひとつである。
 このようにかつらぎ町は紀ノ川の恵みを受けながら、川をはさんみ南に紀伊山地、北に和泉山地が連なり、その山麓の豊かな自然を生かして柿、ミカンの果樹生産が盛んな町である。中でも柿の生産量は日本一を誇っている。

紀ノ川

(写真は 紀ノ川)

柿

 かつらぎ町で生産される柿の代表は平核無(ひらたねなし)柿。明治45年(1912)に品種改良で作られた渋柿の代表的品種で、扁平で四角な形をした種のない柿。かつらぎ町へは大正年間に伝わり、今では大阪府境の三国山の南側山麓を中心に栽培されており、年間1万5700トンを生産している。柿生産農家は今、出荷のピークを迎え収穫に追われている。
 出荷された平核無柿は選果場の貯蔵庫でガスによる渋抜きが行われ、まろやかな味の甘柿に変身し、市場を通じで小売店の店頭に並び、平核無柿特有の味が好評のようだ。家庭でも平核無柿のヘタのところに焼酎を塗っておくと渋が取れ、おいしい甘柿になる。

(写真は 柿)

 かつらぎ町で秋の風物詩となっている干し柿作りがある。中でも新年の鏡餅に飾る串柿作りは400年の伝統を持っている。竹串の両端に2個づつ、真ん中に6個の柿を並べて刺した串柿は「夫婦そろって仲睦まじく」との願いを込めた串柿の作り方である。
 干し柿用に皮をむかれた柿がのれんのように連なって吊るされた風景は、かつらぎ町の秋の風物詩として有名で、干し柿の季節になるとこの風景をカメラに納めようとアマチュアカメラマンが押しかける。平核無柿を原料にした柿子(シーツ)ワインは、カリウムやビタミンいっぱいのヘルシーワイとして好評。また、まろやかな味の柿酢も生産されている。

干し柿作り

(写真は 干し柿作り)


◇あ    し◇
粉河寺JR和歌山線粉河駅下車徒歩15分。 
真田庵南海電鉄高野線九度山駅下車徒歩10分。 
慈尊院南海電鉄高野線九度山駅下車徒歩30分。 
勝利寺、紙遊苑南海電鉄高野線九度山駅下車徒歩40分。
◇問い合わせ先◇
粉河町産業振興課、
粉河町観光協会
0736−73−3311
粉河寺0736−73−4830 
九度山町産業振興課、
九度山町観光協会
0736−54−2019
真田庵0736−54−2218 
慈尊院、勝利寺0736−54−2214
紙遊苑0736−54−3484 
かつらぎ町産業振興課0736−22−0300

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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