月〜金曜日 21時48分〜21時54分


和歌山・九度山町、龍神村 

 弘法大師空海が開いた高野山の表参道玄関口にあたる九度山町は、古くから高野山参詣者たちでにぎわい、女人高野と言われる慈尊院や真田幸村父子の隠棲の里として知られている。
 紀伊半島中央部の標高1000m級の山々に囲まれた龍神村は、日本三美人の湯として知られる龍神温泉や平家落人伝説が残る山村がある。紀伊山脈の尾根筋を走る高野龍神スカイラインで高野山と結ばれている。


 
女人高野・慈尊院  放送 11月13日(月)
慈尊院 弘法大師空海が平安時代初めの弘仁7年(816)に高野山を開いた時、高野山参詣の表玄関にあたるこの地に伽藍(がらん)を創建したのが慈尊院の始まり。高野山の庶務を預かる政所(まんどころ)でもあり、高野山への参詣者の宿舎、厳寒の高野山を避け冬期の修行の場にもなった。京の都から高野山へ参詣した天皇や皇族、貴族らはこの慈尊院を宿舎としたといわれている。
 高野山を開き、修行するわが子に一目会いたいと、承和元年(834)に四国・讃岐国から訪ねてきた空海の母は、女人禁制の高野山へは登れず、わが子の近くに身を置こうと慈尊院に住んだが、翌年没している。空海は本尊の弥勒仏座像(国宝・秘仏)を篤く崇拝していた母のために弥勒堂(国・重文)を建て、弥勒仏座像と御母公像を安置した。
(写真は 慈尊院)

弘法大師御母公尊像 空海は、月に九度は高野山から下って母を訪ねていたことから九度山の地名が生まれた。本尊・弥勒菩薩が化身した空海の母が眠る寺、女性の高野山参りは慈尊院までとの戒律から慈尊院が女人高野といわれるようになった。
 子授け、安産、育児、授乳などの祈願の寺としての信仰も篤く、祈願する際に乳房型の絵馬を奉納する。弥勒堂前には布で形取った乳房が無数に結びつけられており、有吉佐和子の小説「紀の川」にも女人高野のいわれや乳型の奉納が描かれている。
 慈尊院から高野山まで参道には1町(109m)ごとに町石が立てられている。慈尊院から高野山・根本大塔まで180本、根本大塔から奥の院まで36本。その他に36町ごとの一里石が4本ある。町石は高さ約3m、幅30cm、五輪卒塔婆型をしており、第1番目の180町の町石が慈尊院にある。石造に変わる前は木製のものが立てられていた。
(写真は 弘法大師御母公尊像)


 
●真田庵 放送日 11月14日〔火〕  放送 11月14日(火)
真田昌幸の墓碑 戦国時代の知将として知られ、関ヶ原の戦いで豊臣方の西軍に味方して敗れた真田昌幸、幸村父子は、東軍の徳川方についた幸村の兄・信幸の家康への助命嘆願で処刑をまぬがれ、九度山へ蟄居(ちっきょ)を命じられた。この真田父子の隠棲の地の真田庵に寛保元年(1741)に僧大安が、寺院を建立したのが真田家の菩提寺の善名称院で、真田庵の正式名称。
 真田昌幸は関ヶ原の戦いの9年後に死去したが、幸村は豊臣秀頼の挙兵による大坂冬の陣、夏の陣に真田十勇士らを引き連れて参戦、獅子奮迅の戦いをするが夏の陣で戦死した。善名称院には真田昌幸、幸村、大助父子三代の墓がある。
(写真は 真田昌幸の墓碑)

真田庵 扉に真田家の六文銭が刻まれた門を入ると城郭を思わせるような本堂が目に入る。八つ棟造りと呼ばれる重厚な建物で、軒丸瓦には菊花の紋章が入り、棟の左右には鴟尾(しび)が置かれており、寺院としては珍しい建物である。
 境内にある真田宝物資料館には武勇の誉れ高い真田の武具甲冑(かっちゅう)類や書状、昌幸が考案した真田紐(さなだひも)などが展示され、ありし日の真田一族の面影をしのばせている。俳人・与謝蕪村も真田庵を訪れており「かくれ住んで 花に真田が 謡かな」「炬燵(こたつ)して 語れ真田が 冬の陣」の句碑が建っている。
(写真は 真田庵)


 
龍神温泉  放送 11月15日(水)
温泉寺、瑠璃光薬師如来 紀州の屋根とも言われる護摩壇山に源を発する、日高川上流に広がる龍神村にある龍神温泉は、1300年の歴史がある。藤原京時代の文武天皇のころ、修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が、高野山で修行中にこの地を訪れ、煙の立ち上る地を錫杖(しゃくじょう)で突いたところ湯が吹き出たと言う。
 100年後の平安時代初めに龍神を訪れた弘法大師が、難陀龍王の夢のお告げで浴場を開いたことから龍神温泉の名がつけられたと伝えられている。また、弘法大師の前に現れた老翁に大師が「この湯はどこからきているのか」とたずねたところ「龍宮から送られている」との答えがあり、この湯を「龍神の湯(たつのかみのゆ)」と名づけたとも言われている。近くには弘法大師が開いた温泉寺もある。
(写真は 温泉寺、瑠璃光薬師如来)

龍神温泉 江戸時代にはいり紀州藩初代藩主の徳川頼宣は、龍神温泉がことのほか気に入り、ここに宿を建てさせ、旅館の税金を免除するなどの保護策をとり、藩主の別荘地とした。
 龍神温泉は群馬県・川中温泉、島根県・湯の川温泉と並んで日本三大美人の湯のひとつ。温泉に含まれているナトリウム炭酸水素塩が皮膚の表面を軟化させ、汚れを落として肌をきれいし、カルシウムイオンやマグネシウムイオンが湯上がりのあとの肌をしっとりさせるので美人湯と呼ばれるようになった。豊かな緑におおわれた大自然の中で、日高川の清流のせせらぎの音を聞きながら湯に入れば心も安らぎ、気分も若返る。
(写真は 龍神温泉)


 
上御殿  放送 11月16日(木)
上御殿外観 龍神温泉が気に入った紀州藩初代藩主の徳川頼宣は、龍神温泉に紀州藩主専用の宿舎を設け、藩主の別荘地とした。この宿が「上御殿」と呼ばれ、頼宣が江戸詰めになった後は、源氏の流れをくむ龍神氏に払い下げられ一般旅館となった。現在の当主は龍神氏28代目で、江戸時代と同じ「上御殿」の呼び名で旅館として残っている。
 上御殿は明治17年(1884)の大火で大きな被害を受けたが、再建され、徳川頼宣が泊まった「御成の間」も当時のまま復元され現在に伝わっている。
(写真は 上御殿外観)

御成の間襖絵 上御殿を再建した時の当主が材木屋を経営していたことから、旅館の随所に高級木材が使用されている。その中でも素晴らしい造りの「御成の間」には目を見張る。 四季を描いたふすま絵は、徳川五代将軍綱吉の絵師・狩野知信が、元禄から宝永時代にかけて描いたものとされている。このほか袋戸棚の絵など優れた絵や書がある「御成の間」は格式高い客間といえる。
 四季折々の新鮮な山の幸、川の幸を生かした料理も豊富で、御成の間に泊まり、ゆっくりと温泉につかり殿様気分にひたるのもよし、美人の湯で肌をさらに艶やかにするのもよい。
(写真は 御成の間襖絵)


 
小森谷渓谷  放送 11月17日(金)
衛門嘉門の滝 龍神温泉からさらに日高川をさかのぼると、護摩壇山の南西山麓にある小森地区に出る。その上流約10kmの渓谷を小森谷渓谷と言う。ここは日高川の源流で清流が岩をかんで流れ、あるところでは深い淵となり、あるいは飛沫をあげる滝となって流れ落ちている。渓谷の両岸をおおう緑の木々が、清流や岩とマッチして見事な渓谷美を創り出している。
 小森谷渓谷を含む龍神村の川には針金橋と呼ばれるつり橋があちこちに架かっている。日高川で分断された住民にとっては、針金橋は生活に欠かせないライフラインだった。
 針金橋が架けられる前は杉の大木を渡しただけの“一本橋”で、丸太の上を歩くのは難しく足を踏み外して川に転落、命を失うこともあった。
(写真は 衛門嘉門の滝)

赤壷 小森谷渓谷付近には、源平の戦いに敗れ、紀伊山中の龍神へ落ち延びた平維盛にかかわる伝説が残っており、平家落人の里とも言われている。維盛の屋敷跡や馬場跡、維盛との悲恋によって命を絶った里の娘・お万が入水した「お万ヶ淵」、お万が紅を捨てた「赤壺」、白粉を流した「白壺」、維盛の家臣で平家再興の望みが絶たれ、悲嘆のあまり投身した「衛門・嘉門の滝」などがある。
 これらの悲しい伝説と重なった小森谷渓谷は、その美しさが神秘的に見える。龍神温泉からの公共交通機関はなく、足に自信のあるハイカーは日帰りの散策を楽しんでいる。
(写真は 赤壷)


◇あ    し◇
慈尊院南海高野線九度山駅下車徒歩10分。 
真田庵南海高野線九度山駅下車徒歩30分。 
龍神温泉、上御殿JR紀勢線紀伊田辺駅からバス龍神温泉〔1時間20分)下車。 
小森谷渓谷JR紀勢線紀伊田辺駅又は南部駅からバス龍神温泉下車、タクシーで小森へ。 
龍神温泉から徒歩による往復は健脚向で一般観光客は無理。
◇問い合わせ先◇
九度山町産業振興課0736−54−2019 
慈尊院0736−54−2214 
真田庵0736−54−2218 
龍神村産業観光課0739−78−0111 
龍神観光協会0739−78−2222 
龍神宿泊観光案内所0739−79−0339 
旅館上御殿0739−79−0005

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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