月〜金曜日 21時54分〜22時00分


千早赤阪・河内長野

 生駒山脈の西麓を通る東高野街道は高野山が開かれる以前から、河内と紀ノ川筋を結ぶ重要な街道として存在したようで、河内平野を南北に通ずる唯一の道であった。高野山が開かれてからは西の高野街道も発達し、河内長野は二つの高野街道が合流する地として発展してきた。市内には旧道が7つ交わる処として、七つ辻という複雑な交差点もある。また、河内長野からは、どちらに向いて進んでも山間部に入るが、東に行けば観心寺を経て大和の五条へ、西に行けば天野山金剛寺を経て泉大津、熊取方面に通じる交通の要衝である。また、河内長野は多くの大伽藍を抱える寺院があることで、府下屈指の地区である。
 千早赤阪村は金剛山の麓の傾斜地に位置し、河内長野や富田林から赤阪を通って水越峠を越えれば大和の御所、高田方面に結ばれている。
 この村を何よりも有名にしたのはここに生まれた楠木正成である。彼の父正遠は子息正成の教育のために観心寺に学問所を寄付し、正成に学問を身につけさせた。この為、正成は当時の武将にしては破格の教養を備えた人物であったといわれる。
 楠木氏は、出自も定かでないが千早赤阪付近を根拠地とする豪族で、一説によると頼朝の御家人であったともいわれる。また、既成の政権や荘園領主に反抗した輩は「悪党」といわれたが、楠木正成も悪党と呼ばれることがある。
 千早赤阪村は、金剛山麓の北西に広がる傾斜地の村で、楠木正成生誕地であり、上、下二つの赤阪城の古城址があることで有名である。


 
千早赤阪・楠木正成 放送日 11月22日(月)
楠木正成・画像 楠木正成の家系は出自が定かではない。建久元年(1190年)鎌倉へ下る頼朝の行列に楠木四郎が加わったという記録があり、同年の「東坂の庄」を安堵するという文書があるところから、千早の地を支配していた土豪であったと思われる。また、後白河帝が高野山参詣の折、観心寺に泊まっているので、これの護衛として楠木氏が五条まで見送る役目をしたであろうと云われている。
 そして、正成は8−15歳の時、父正遠の寄進した観心寺の学問所・中院で当時の武士には珍しい学問を身につけた。
 また、正成は15歳で近くの加賀田村の大江修理時親に武芸と軍学を学んだ。
 後醍醐帝は 鎌倉幕府を倒して政権を取り返そうと、先ず院政を廃止、続いて武家政権の打倒を図ったが失敗、隠岐に流された。後醍醐の画策した建武の中興は、新田義貞や楠木正成、足利尊氏らの働きで一旦は成功し、鎌倉幕府は倒れ、後醍醐は隠岐から京にもどったが、後醍醐の画策した天皇独裁体制は支配層に反対され、一部後退を余儀なくされた。また、楠木正成など家格の低い武将を重用した為に、他の貴族層の不満を買い、恩賞の授与に関しては武士の不満も買って、各地で反乱が多発、足利尊氏の謀反で形勢は後醍醐に不利となり、後醍醐は京を出て笠置へ逃れた。建武の新政は、わずか3年の命であった。。
 千早赤阪が歴史に登場するのは1331年、後醍醐の居た笠置を鎌倉幕府軍が攻め落とした後、その大軍が赤坂の地に攻め寄せた時である。楠木正成は下赤坂城に篭城していたが、城は敢え無く落城した。しかし翌年には城を奪還した。この城跡ははっきりとはわからないが、赤阪中学校の校地の辺りであるといわれている。この翌年、500m東方に正成は上赤坂城を築いたが、またもや鎌倉幕府軍に包囲された。城を守る兵は僅かに300人、よく持ちこたえはしたが、水を絶たれ、ここも1333年に落城し、正成の兵は千早城に逃れた。この時、正成は城に火を放って自害したと見せかけ敵を欺いたといわれている。上赤坂城の址には、石碑が建ち、現在も城跡に本丸、二の丸、出丸の形が残っている。
 

千早神社 千早城は金剛山の裾、西に出張る尾根に造られた要害堅固な山城で、後方は金剛山に通じ、正成は葛木山の山伏を味方につけた。そして、案山子を利用して少ない兵を多く見せる工夫をし、山上の城から大きな石を落としたり、煮え湯や下肥を上から撒く等、奇襲ゲリラ戦法を数数考え出し、よく少数の兵で大軍に立ち向かった。
 城内は500人の兵で、包囲軍は5万人であったといわれるが、140日間持ちこたえた。こうして千早城は落城することなく南北朝末期の1392年まで存続した。翌年に南北朝は合一し、一つの朝廷になって、室町幕府の時代を迎えることになる。


 
千早赤坂・金剛山 放送日 11月23日(火)
葛木神社本殿 金剛山は大阪府と奈良県の県境にあり、生駒金剛葛城山地の最高峰をほこっている。頂上は奈良県になり、標高は1112.2mで大阪近辺では最高である。バスの終点から山上まで村営ロープウエーがあり、バスとロープウエーを乗り継げば手軽に山上の人となれる。
 山上駅から葛木神社までは片道20分の遊歩道になっており、四季折々の景色を楽しめる。特にロープウエーから眺める冬の樹氷は格別のものだし、雪を踏みしめて登る雪中登山が出来るのも、大阪近辺では数少ない場所である。冬に登山客が集中するのも頷ける。
 
 金剛山は古来修験道の山として、役小角(えんのおづぬ)が開いたといわれる。転宝輪寺と葛木神社が山頂近くにあり、国見城址と共に北部山頂の中心をなしている。また、この神社の社務所で登山記念のスタンプをもらう、多数回登山の人々も多い。歩いて登るには、大阪府側の登山口から千早城址を通るコースが一般的であるが、他にも多数のコースがある。登山口からの登りは約2時間である。

金剛山頂   健脚向きにはには紀見峠から和泉山脈の一部を通り、金剛山から葛城山を経て二上山に至る50キロのコースもある。これをダイアモンド・トレールと呼んでいる。
 また、大和側からは御所の高天彦神社横から登ることもできるし、葛城山から水越峠を経て縦走することも出来る。
 ロープウエーの山上駅近くには、大阪府の宿泊施設「香楠荘」があるので、宿泊も可能である。 
 万葉集の頃は金剛山も、水越峠を挟んで北側にある葛城山とひっくるめて葛城山と呼ばれていた。
 春楊 葛城山に立つ雲の たちてもいても妹をしぞおもふ
  (はるやなぎ かづらきやまに たつくもの たちても いてもいもをしぞおもふ)
 注:葛城山は古くは「かづらきやま」と発音した。この歌は前半は枕詞と場所を云ってるだけで、「立っても居ても妹(妻か恋人)を思っている」という単純な内容を詠んだ歌である。


 
河内長野。天野山金剛寺 放送日 11月24日(水)
金剛寺・御影堂 河内長野の2つある巨刹の一つは、天野山金剛寺である。高野山が女人禁制であった頃の女人高野といわれた寺の一つで、ここも南朝の後村上帝の1354年から6年間に及ぶ行在所となった処で、その後1359年に観心寺に移った。後村上帝の皇居となったのは、塔頭の摩尼院で、政所は食堂が当てられた。また、同時に北朝の光厳、光明、崇光の三上皇と皇太子の直仁親王が賀名生で南朝方の人質となり、金剛寺を4年間御座所としたので、南北両朝のトップが同じ寺に同居したことになる。

日月山水図屏風伽藍のなかでも一際大きい金堂(鎌倉時代、江戸時代に大修理、重文)の内部には、本尊大日如来、降三世明王、 不動明王(いずれも鎌倉時代、重文、運慶作の伝説あり)がまつられ、荘厳な雰囲気である。境内には他に多宝塔(鎌倉時代、重文)、南朝の行在所のあった食堂(じきどう、鎌倉時代、重文)、御影堂(弘法大師をまつる、重文、平安時代、重文)、中門(鎌倉時代重文)などが並び、寺宝には、延喜式文書(国宝)、日月山水図屏風(室町時代、重文)楠木文書などがある。
 春の桜、秋の紅葉に訪れるのに大変良いところである。


 
河内長野・観心寺 放送日 11月25日(木)
如意輪観音菩薩(国宝) 河内長野には二つの大寺がある。金剛寺と観心寺で、どちらも密教系の真言宗の寺で、南朝にゆかりがある。
 河内長野の市街から大和の五条への国道310号を東へ向かって山間部に入って行くと、およそ3キロで観心寺に着く。開基は奈良時代、役小角によると伝えられ、初めは雲心寺と呼ばれた。後、平安時代になって弘法大師が815年に如意輪観音を本尊とし、観心寺と名を改めたといわれる。
 山門を入ると左手に楠木正成の8歳から15歳までの学問所であったという中院がある。楠木家の菩提寺でもある。右手には後醍醐帝の皇子、後村上帝が1359年に天野山からここに移り、10ヶ月滞在した行在所(あんざいしょ)の惣持院跡がある。ここから階段を上って行くと広い境内にたどり着く。正面に金堂(室町時代初期、国宝)が建つ。奈良時代以来の和様に、鎌倉時代に中国から伝わった新しい禅宗様を加味した折衷様の建築で、正面7間、側面7間で屋根は入母屋の堂々たる建物である。(寺の建物は7間という時、柱の間が7つあるということで、1.8メートルを1間という長さの単位とは異なり、もっと大きい)。
 本堂内には本尊として、6本の手を持つなまめかしい姿の秘仏、木造如意輪観音(平安時代初期、国宝)が祀られている。平安密教彫刻の白眉で、美術品としても第1級のものである。毎年4月の17,18日の2日間だけ開扉される。

(楠公)建掛塔  金堂に向かって右手に藁葺きの屋根を乗せた変わった建物がある。楠木正成が三重の塔を寄進する予定であったが、湊川で戦死したため初層しか建てられなかったというもので、建掛塔(南北朝、重文)といわれる。簡素な塔は逸話と共に記憶に残る。
 この他、境内には後村上帝桧尾陵、楠木正成首塚などがあり、楓の木が多く、紅葉の名所である。金堂の西には霊宝館があり、地蔵菩薩(平安時代、重文)、如意輪観音(平安時代、重文、国宝如意輪のお前立ちであった)、弥勒菩薩(平安時代、重文)などが拝観できる。
 


 
河内長野・延命寺 放送日 11月26日(金)
延命寺境内 河内長野の古刹のうち、比較的新しく再興された寺で、現在ある伽藍の建物は現代のものであるが、宝物館の寺宝に鎌倉時代の清涼寺式釈迦如来(体内に五臓六腑の徴しを納入してある、重文)、都卒内院曼荼羅(重文)その他をもっている。
 この寺は弘法大師創建の伝説をもつ。大師はここは霊水と薬樹・薬草の多い霊場であると感じ、宝憧寺を開いたが、その後廃絶していた。この地に生まれた江戸時代の高僧、淨厳は寺を再興することを決意し、将軍綱吉をはじめ諸大名の帰依を受けて延命寺として再建したが、間もなく江戸に招かれて、湯島に霊雲寺を創建した。浄厳は高野山で20年余も修行した碩学で、原典を重んずる近代的な態度の学究肌の人で、学問に対する態度は万葉学の僧契沖に受け継がれたといわれている。明治になって隣の常楽寺(楠木正成の一族で武将の和田氏の菩提寺)が廃寺になったのを合併し、寺宝も多く譲りうけた。

延命寺・夕照えの楓(天然記念物) 境内は紅葉の名所として知られ、特に樹齢1千年といわれる古木、夕照の楓(ゆうばえのかえで、天然記念物)が有名である。


あ    し
 千早赤坂城へは近鉄富田林から金剛バス35分、又は近鉄、南海の河内長野から南海バス30分の千早城址下車、徒歩15分
 上赤坂城址・下赤坂城址へは富田林から金剛バス赤坂中学前下車、すぐの中学校の敷地が下赤坂城址、そこから500メートル東方に上赤坂城址がある
 金剛山へは河内長野からバスで登山口バス停下車、徒歩1時間半、またはバス50分のロープウエー前で降り、村営ケーブルに乗り換えて山上駅下車
 天野山金剛寺へは河内長野から南海バス16分、天野山下車すぐ
 観心寺へは、河内長野から南海バス15分、観心寺前下車すぐ
 延命寺へは南海美加の台から南海バス神が丘口下車10分、観心寺から徒歩30分
 金剛山頂の葛木神社、転法輪寺へは登山口から徒歩1時間余、またはロープウエー下車後徒歩20分
見どころ
 赤阪城址、千早城址、楠公誕生地、赤阪村立郷土資料館、建水分神社、葛木神社、
 ワールド牧場、サバーファーム(富田林市農業公園)富田林寺内町(杉山家公開)
 天野山金剛寺、関西サイクルスポーツセンター、滝の畑ダム、滝畑四十八滝、滝畑民俗資料館、つまようじ資料館、河内長野郷土資料館、河合寺、観心寺、延命寺、岩湧寺、山本家住宅(江戸時代初期、重文、小深にあり、非公開)、左近家住宅(江戸時代初期、重文、滝畑にあり、非公開)
味・土産
 千早川鱒釣り場の鱒料理、千早しいたけセンターのしいたけ料理、千早赤阪のみかん狩園、
 河内長野市の自然休養村小深の里(鱒釣)、滝畑ダム近くの横谷川の自然休養村アマゴ渓横谷(鱒。あまご釣リ)
 地酒 天野酒
問い合わせ先
 千早赤阪村観光協会(千早赤阪村農林商工課)   0721−72−1447
 千早赤阪村立郷土資料館                0721−72−1588
 千早川鱒釣り場                      0721−74−0116
 しいたけセンター                      0721−74−0015
 料理旅館赤城館(きじ肉の菊水鍋)           0721−72−0016
 河内長野市観光協会(河内長野市商工観光課)   0721−53−1111
 河内長野市観光案内所                 0721−55−0100
 天野山金剛寺                       0721−52−2046
 観心寺                            0721−62−2134

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

@・・・ひょうごシンボルルート   
A・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
B・・・越前戦国ルート              
C・・・近江戦国ルート              
D・・・お伊勢まいりルート         
E・・・修験者秘境ルート           
F・・・高野・熊野詣ルート         
G・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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