月〜金曜日 18時54分〜19時00分


三木市・小野市 

 神戸市の西の丘陵地帯に広がる三木市と小野市は古くから開け、その地域の特性を生かした伝統産業が栄えた町で、今もその伝統工芸の技が脈々と受け継がれている。
こうした伝統産業を中心に両市を探訪した。


 
金物の町(三木市)   放送 11月24日(月)
 「三木の金物か、金物の三木か」と言われるほど、三木市は金物の町として知られている。その歴史は古く大和鍛冶の時代に始まると言われ18世紀ごろに隆盛を極めた。播州金物は倭(わ)鍛冶の系統と大陸から渡来した韓鍛冶の系統が合流して、技術的な発展を遂げてきた。三木の鍛冶もこの流れを受けていたが、古い記録を見ると韓鍛冶の技術者が多かったようだ。
 仏教の伝来によって寺院建築が盛んになり大工道具の需要が増え、さらに武家の勃興による武器の需要増大、戦国時代の築城、戦国時代後の復興事業などによる大工道具、建築道具類の需要がふくらんだ。

播州三木刃物

(写真は 播州三木刃物)

三木市立金物資料館

 こうした時代背景から三木の金物生産は年々発展した。18世紀後半からは大工道具鍛冶が中心になり、のこぎり、かんな、くぎ、包丁など各種の鍛冶職人が腕を競って生産に励んだ。その切れ味を誇った三木の大工道具は全国各地に知られ、その製品は大坂から尾張、さらに江戸にまで売り込まれるようになった。
 現在は手工業的生産から機械化による近代化が進み、大工道具に加えショベル、スコップなどの建設作業用具、農機具、園芸用具、一般家庭金物など多種多様な金物製品が生み出され、海外へも輸出されている。その生産額は年間466億円に達する三木市の主産業となっている。

(写真は 三木市立金物資料館)

 三木市の金物生産は設備、生産技術の近代化が進む中で、古くから伝わる伝統的鍛冶の製法やその資料、製品などの散逸が心配されていた。こうした資料の散逸を防ぎ、伝統の三木の鍛冶を後世に伝える「三木市立金物資料館」が建設された。館内には三木金物の歴史的資料や古い三木金物の道具類が展示されている。
 記念館前には「しばしも休まず つち打つひびき 」で知られる学校唱歌「村のかじや」の記念碑が立っている。金物資料館のすぐそばには金物業者の守り神・金物神社があり、毎年11月第1土曜日にふいごの火入式が行われている。また、金物資料館では毎月第1日曜日に、鍛冶の伝統技術を伝える三木金物古式鍛錬技術保存会による古式鍛錬の実演が行われている。

金物神社

(写真は 金物神社)


 
湯の山街道を歩く(三木市)  放送 11月25日(火)
 三木市が歴史街道モデル事業として整備を進めているひとつに、市内を東西に抜ける湯の山街道とその街並みの整備がある。「湯の山」とは三木市の東、約30kmのところにある有馬温泉のこと。
 羽柴秀吉が天正6年(1578)中国の毛利氏を討つ前段として、別所長治の三木城を攻めた。しかし、三木城は容易に落ちず、兵糧攻めの末、2年近くかけてようやく落城した。その三木城攻めの折、秀吉が三木から湯の山まで何度も往復した道筋で、それ以来「湯の山街道」と呼ばれるようになった。徳川時代に入ってからは参勤交代の行列や西国からの湯治客が往来するようになりにぎわった。

湯の山街道

(写真は 湯の山街道)

黒田清右衛門邸の鋸の看板

 三木市内にはこの湯の山街道やひめじ道、あかし道と呼ばれる街道があり、その沿道には商家や金物製造業者、造り酒屋などの古い町家がたくさん残っており、往時の面影をしのばせている。
 街道筋に建ち並ぶ町家をウオッチングするのも面白い。造り酒屋の軒下には酒造のシンボル・杉玉がぶらさがり、玄関先にはこもかぶりの酒樽が飾られている。また「卯建(うだつ)」があがっている家も残っている。切妻屋根のひさしの両端に作られ隣家と仕切る袖壁のようなもので、防火の役目も果たす。装飾や屋号、商標を入れ看板の役目も果たしている三木独特の卯建もある。「うだつがあがらない」と言うように、卯建のあがっている家は繁栄していることを示すものでもあった。

(写真は 黒田清右衛門邸の鋸の看板)

 このほか各地の町家で見られる格子戸がある家も多い。外からは内部が見えず、中からは外がよく見えると言う効果がある。2階の屋根裏部屋の通風口になっている虫籠窓(むしこまど)も美しい。いろいろなデザインの虫籠窓があり、左官職人の腕の見せ所だったのであろう。
 大屋根の上にもうひとつ小屋根をつけた家が数軒残っている。これは煙抜き用のもので、全国各地の町家でよく見かける。金物の町として知られた三木には鍛冶屋が多く、作業場から出る煙を外へ排気するために小屋根をつけた町家が多かったようだ。
明治時代中ごろまで市内を流れる美嚢川で、舟運に使われいた舟の舟板を家屋の腰板に利用している家が数軒残っている。

虫籠窓と越屋根

(写真は 虫籠窓と越屋根)


 
そろばんの町(小野市)  放送 11月26日(水)
 小野市は「そろばんの町」として知られている。小野市には長い歴史を持つ伝統産業、伝統工芸品がいくつもあるが、その中でも他に類を見ない代表的なものがそろばんである。
 そろばんの起源は古く、メソポタミア時代(紀元前3000年頃)にさかのぼる。
そのころは粘土板に線や記号で数を表していた。ギリシャ、ローマ時代には小石をテーブルの上に並べるそろばんで計算していた。現存する世界最古のそろばんは、ギリシャ時代のアテネのサラミス島で発掘されたサラミスそろばんで、大理石板上にギリシャ数字と平行線が彫られたもので、その線上に小石を置いて計算した。

播州そろばん

(写真は 播州そろばん)

ろくろ(穴あけ機・〜昭和50年頃)

 わが国へそろばんが伝わったのは室町時代の文安元年(1444)ごろで、中国の商人が取引のために持参したようだ。その後、戦国時代に入って商人の間で普及し、江戸時代には寺子屋で子供たちにもそろばんを教えるようになった。当時、教育の基本として「読み、書き、そろばん」が強調され、爆発的な普及をした。
 小野でのそろばん製造の起源は天正6年(1578)からの羽柴秀吉の三木城攻めの時、近江国・大津へ逃れた住民がそろばんの製法を修得して帰郷、小野で製造を始めたのが「播州そろばん」の始まりと言われている。昭和51年(1976)国の伝統工芸品の指定を受け、現代でも名実ともにわが国を代表するそろばん生産地となり、全国生産の70%を占めている。

(写真は ろくろ(穴あけ機・〜昭和50年頃))

 小野市伝統産業会館には小野市を代表する伝統産業としてのそろばんが展示されている。伝統工芸師の指定を受けている宮本一廣さんが、磨き上げたそろばん製造の伝統の技を引き継ぎ芸術品に近いそろばんを製作している。最近は電卓計算器、パソコンの普及でそろばんの利用が減少傾向をたどっている。しかし暗算の能力を発揮するにはそろばんが欠かせないツールで、暗算のチャンピオンはすべてそろばんの達人である。またそろばんは指の運動、脳の活性化などによる老化防止にも役立つとも言われている。
 そろばんのシェアをばん回しようとジャンボそろばん広告塔、加古川にかかる大住橋の竣工年や橋の長さが欄干に組み込まれたそろばんで表示されているなど、そろばんの町・小野市ならではの風景に出会う。

足ふみボール盤(昭和初期)

(写真は 足ふみボール盤(昭和初期))


 
浄土寺(小野市)  放送 11月27日(木)
 小野市に奈良の東大寺と縁の深い寺・浄土寺がある。平安時代から室町時代にかけて小野のあたりは奈良・東大寺の荘園で、東大寺の経済的拠点として重要な地域だった。
 治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ちで焼失した東大寺再興の大勧進職を務めた重源上人が、鎌倉時代初めの建久3年(1192)荒廃していた広渡寺の仏像を納める浄土堂(国宝)、薬師堂(国・重文)を建立したのが浄土寺の始まりとされている。この地方の荘園が東大寺再建の経済的基盤として、欠かすことのできないものであるとの認識を、重源が抱いた表れが浄土寺建立につながったと言える。

薬師堂(重文)

(写真は 薬師堂(重文))

浄土堂(国宝)

 浄土堂は東大寺南大門と並んで、わが国の純粋な天竺様式の建築を代表する建物として貴重な存在。創建当時から一度も手が入れられずそのままの姿で伝えていが、昭和32年(1957)から2年半かけた解体修理工事で、創建当時の美しい姿によみがえった。
 八幡神社が鎮守社として境内の重要部分の中央に配置されている。この伽藍(がらん)配置は本地垂迹説に基づく思想の表れとして、注目されている。現在は浄土寺の本堂になっている薬師堂は、創建後に焼失し戦国時代の永正14年(1517)に再建されたので、天竺様式の純粋性が薄れたのが惜しまれている。

(写真は 浄土堂(国宝))

 浄土堂内の円形の須弥壇には高さ5.3mの阿弥陀如来立像(国宝)と脇侍の高さ3.7mの観音菩薩、勢至菩薩立像が安置されている。いずれも快慶の作で、阿弥陀如来像の若々しい表情や鋭い眼差しは中国・宋風の影響を受けていると言われている。また朱色の化粧屋根裏に届きそうな巨像の重量感に圧倒される。
 この阿弥陀三尊像の背後の蔀戸(しとみど)からさし込む夕日に浮かぶ阿弥陀像が、西方の極楽浄土から雲に乗って来迎する阿弥陀仏の姿を見るような感動を与える。このような浄土思想を演出する建築手法を取った浄土堂の素晴らしさも高く評価されている。

阿弥陀如来像(国宝)

(写真は 阿弥陀如来像(国宝))


 
歴史の公園(小野市)  放送 11月28日(金)
 小野市周辺は古くから開けた地域で、弥生時代や古墳時代の遺跡が多く残っている。小野市はその歴史を後世に伝え、郷土の歴史を学ぶ学習の場とするため、これらの遺跡を史跡公園として整備している。
 市の中心部・市役所の北、約3kmにある「広渡(こうど)廃寺跡歴史公園」もそのひとつ。広渡寺は7世紀後半にこの地方に勢力を誇っていた豪族が建立した寺で、昭和48年(1973)からの発掘調査でその全容が明らかになった。伽藍(がらん)配置は奈良・薬師寺と同じ薬師寺式で、平安時代後期には豪族の没落で寺も荒廃した。
荒れた広渡寺の本尊は浄土寺を建立した重源上人によって、浄土寺の薬師堂の本尊として安置された。

広渡寺跡出土瓦

(写真は 広渡寺跡出土瓦)

伽藍模型

 広渡寺の寺域とみられる東西100m、南北150mを中心に廃寺跡が、国の補助事業のふるさと歴史の広場事業して進められた。廃寺跡の遺構がすべて分かるように整備され、その中でも東西15m、南北12.5mの金堂基壇、一辺が10mの基壇を持つ東西両塔など、主要伽藍は石積みによって基壇が復元された。
 また遺跡を訪れた人が寺の姿が一目で分かるようにと縮尺20分の1のセラミック製伽藍模型が作られ、史跡跡に野外展示している。復元された実物の基壇を眺め、模型と重ね合わせることによって当時の広渡寺のイメージが浮かぶ。また公園内のガイダンスホールには廃寺跡から出土した瓦などが展示されている。

(写真は 伽藍模型)

 もうひとつの遺跡公園が市の西部・加古川右岸の青野ケ原台地突出部にある「夢の森公園・金鑵城(かなつるべじょう)遺跡広場」である。室町時代の播磨守護職・赤松氏の有力家臣の中村氏が築いた山城跡で、城内に深い井戸があり、金のつるべで汲みあげていたことから「金鑵城」の名称になったとの伝えがある。城跡の建物跡や土塁、櫓(やぐら)などが復元され、当時の城の様子がわかるようになっている。また城の西の砦部分には弥生時代の竪穴住居跡が確認されており、その住居跡も復元されている。
 この城跡に隣接して夢の森公園が建設され、アスレチックやローラーすべり台、芝生広場など、子供たちが楽しめる施設が並んでいる。

金鑵城跡遺跡公園

(写真は 金鑵城跡遺跡公園)


◇あ    し◇
三木市立金物資料館、金物神社神戸電鉄粟生線三木上の丸駅下車徒歩5分。 
湯の山街道神戸電鉄粟生線恵比須駅又は三木上の丸駅下車。 
小野市伝統産業会館神戸電鉄粟生線小野駅下車徒歩15分。 
浄土寺神戸電鉄粟生線小野駅からバスで浄土寺前下車。 
夢の森公園・金鑵城遺跡広場JR河合西駅下車徒歩15分。 
広渡廃寺跡歴史公園神戸電鉄粟生線小野駅からバスで敷地下車徒歩5分。
神戸電鉄粟生線小野駅から徒歩30分。
◇問い合わせ先◇
三木市経済部商工観光課0794−82−2000 
三木市観光協会0794−83−8400 
三木市立金物資料館0794−83−1780 
小野市地域振興部商工観光課0794−63−1000 
小野市伝統産業会館0794−62−3121 
播州算盤工芸品協同組合0794−63−2108 
浄土寺0794−62−4318 
夢の森公園・金鑵城遺跡広場0794−63−3390 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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