月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・二条城 

 京の都における徳川幕府の権力の象徴として築城されたのが二条城。徳川家康が征夷大将軍の宣下をした二条城で、徳川幕府最後の将軍・慶喜が大政奉還、将軍職返上を宣言して徳川幕府に終わりを告げた。今回は徳川幕府の始まりと終わりを告げたほか、徳川家の歴史を刻んだ二条城を訪れた。


 
将軍上洛の館  放送 12月22日(月)
 関ヶ原の戦に勝利した徳川家康は、御所の守護と上洛の際の宿所として、慶長8年(1603)二条城を完成させ、勅使を迎えて征夷大将軍宣下の儀式を行った。さらに公家衆や諸大名を招き、3日間にわたって華やかな祝賀の宴を催している。
 家康は伏見城を居城としていたが、豊臣家に代わる天下人となった時、その政治目的から王城の地・京都に自らの拠点を置くことで、朝廷はもとより諸国諸藩にその威勢を示すのが二条城築城の最大の目的であった。当時の二条城は五層の天守閣がそびえ、城郭としての威厳を現し、朝廷を凌駕する権力の象徴として洛中ににらみをきかせていた。その様子が洛中洛外図屏風に描かれた絵からも分かる。

洛中洛外図屏風(佛教大学蔵)

(写真は 洛中洛外図屏風(佛教大学蔵))

天守閣跡

 大坂冬の陣、夏の陣の徳川方の軍議が二条城で開かれ、当時は軍事的にも重要な役割を果たした。同時に秀吉の聚楽第をはるかにしのぐ豪壮で絢爛(けんらん)たる城郭には、秀吉への対抗意識が現れていた。 最初に建てられたのは二の丸御殿で、平安京の史跡だった神泉苑を削って建設された。その後、寛永3年(1626)3代将軍・家光が、後水尾天皇を迎えるため本丸、天守閣の建設、二の丸の改修など大規模な改修、増築を行った。
 2代将軍・秀忠の娘・和子が後水尾天皇の女御として入内し、これが後の後水尾天皇の二条城への行幸につながった。その華やかな行幸が洛中洛外図屏風に描かれており、二条城の歴史に残る最も華やかな行事であった。

(写真は 天守閣跡)

 二条城に行幸した後水尾天皇、中宮(秀忠の娘)らは、城内で5日間にわたってもてななされ、天皇は天守閣に3度も登り、京の都の眺めを楽しんだと伝えられている。
 寛延3年(1750)落雷で天守閣が焼失、本丸御殿も天明8年(1788)の大火で焼失した。明治時代に入って二条城は二条離宮となり、昭和14年(1939)宮内省より京都市に下賜された。現存する建物は二の丸御殿(国宝)や明治26年(1893)京都御所から移築された旧桂宮御殿の本丸御殿(国・重文)など。本丸御殿は宮御殿建築の貴重な遺構となっている。今は城郭と言うより武家の壮大な館と言う趣を見せており、平成6年(1994)ユネスコの世界文化遺産に登録された。

本丸御殿

(写真は 本丸御殿)


 
大政奉還  放送 12月23日(火)
 江戸時代初期の遺構として唯一、二条城に残る二の丸御殿(国宝)は、桃山時代の武家風書院造りの代表的なものである。玄関とも言える車寄せに続いて遠侍(とうざむらい)、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が、少しずつ後ずさりする雁行(がんこう)の形で建ち並んでいる。二の丸御殿の建物の総面積は3300平方m、部屋数33、畳は800畳にもおよぶ。
 現存の建物はすべて本瓦屋根だが、創建当時は柿(こけら)葺きで威圧感をあまり感じさせないものであった。大坂城や江戸城の御殿がすべて姿を消している中で、二の丸御殿は学術的にも極めて価値の高いものとされている。

二の丸御殿

(写真は 二の丸御殿)

将軍対面の場

 二の丸御殿の中のひとつ大広間は、日本歴史の流れの大きな転換点の舞台となった所でもある。家康が築城してから260年余りが過ぎて徳川幕府の権威は地に堕ちていた。倒幕の動きが高まり、15代将軍・慶喜は万策つきて慶応3年(1867)10月13日、この大広間に諸大名を集めて大政奉還を宣言、将軍職を返上して徳川幕府終焉を告げる場となった。家康が征夷大将軍を宣下された二条城が、徳川幕府の幕引き場となったのは皮肉な巡り合わせと言える。
 大政奉還、将軍職返上だけでは治まらず、明治元年(1868)この二条城白書院に明治天皇が行幸、徳川慶喜親征の詔が発せられた。ついに徳川家は逆賊の汚名を着せられ、薩長を中心とした倒幕軍が江戸へ進発した。

(写真は 将軍対面の場)

 徳川幕府の歴史の節目の舞台となった二の丸御殿は、文化財としての価値が高く国宝に指定された。大政奉還が告げられた大広間は、御殿の中でも公的な意味合いの強い重要な場所であった。主室の上段の間(一の間)と下段の間(二の間)は框(かまち)で隔てられ、合わせて92畳の広さがある。将軍の御座所となる上段の間には、床や違い棚などを設けた格式高い書院造りで、二重折上格子天井になっている。周囲の障壁画や欄間の彫刻などは素晴らしいものである。
 このほか将軍の居間と寝室の白書院、将軍と親藩、譜代大名との内輪の対面所となる黒書院、遠侍の一角にある朝廷からの使者を迎え、対面する勅使の間などには贅(ぜい)を尽くした趣向が凝らされている。

大広間

(写真は 大広間)


 
櫓と門  放送 12月24日(水)
 徳川家が朝廷の膝元で幕府の威信を天下に示す意味合いが強かった二条城は、戦いに備えた戦略的な城と言うよりも豪壮、絢爛(けんらん)たる部分に力を入れ、それらを内外に誇示する城であった。それが城内の門や櫓(やぐら)にも表れている。
 二条城の正門は堀川通に面し、二条通を大手筋として建つ間口13間の東大手門(国・重文)。左右の石垣の間に筋金を打ちつけた門で、その上に2層の櫓を架け渡し衛士が詰め、石落としの備えもある堅牢な構えの門である。後水尾天皇の行幸の折には高麗門に変えられ、その後、再び櫓門に戻したエピソードもある。

唐門

(写真は 唐門)

東南隅櫓

 東大手門から多聞塀と石垣に沿って東南隅櫓にいたる景観は、威風堂々として城郭らしい構えを見せている。二条城創建後の寛永年間の改修で伏見城の天守閣が本丸に移築された。この天守閣のほかに本丸の三隅と外郭に合わせて8つの隅櫓があったが、今は東南隅櫓と西南隅櫓の2つを残すだけとなった。
 本丸正面には本丸櫓門が残っているが、昔は本丸御殿と二の丸御殿をつなぐ橋廊下と二階廊下が内堀に架かっていた。本丸が二の丸より高いため、本丸御殿の廊下が櫓門の二階につながり、二階廊下を渡って二の丸御殿に降りて行くようになっていた。

(写真は 東南隅櫓)

 堂々として堅牢な東大手門に対して、華麗な印象を与えるのが二の丸御殿正面の唐門。檜皮葺きで正面と背面に唐破風を備えた四脚門で、複雑精妙な彫刻と華麗な金工細工が施されている。
 西門は城のからめ手となる門で、石垣と多聞塀の間に埋め込まれたひそやかな構えとなっており、埋門(うずめもん)と呼ばれている。しかし内側には高い石垣で桝形の防備が施されている。門の外側の堀には木橋が架けられ、江戸時代には城への日常の出入りはこの門に限られていた。徳川幕府最後の将軍・慶喜が二条城に別れを告げたのもこの門である。徳川幕府260年余の栄枯盛衰の歴史が、城内の櫓や門にも刻み込まれており、世の無常を感じる人も多いようだ。

埋門

(写真は 埋門)


 
甦る桃山美術の遺風  放送 12月25日(木)
 桃山時代の武家風書院造りの代表的な遺構の二の丸御殿は、端正なたたずまいの書院群が建ち並び、それぞれの室内には絢爛(けんらん)たる障壁画が描かれている。桃山時代からの大規模な城郭建築と相まって盛んになった障壁画は、襖(ふすま)、壁貼付、杉戸などに描かれた装飾画を言う。創建当時の二条城二の丸御殿には、桃山美術の粋を集めた障壁画が描かれていたと推測されるが、寛永年間の改修ですべて取り払われ、絵師や画題とも不明である。
 現存する障壁画は、寛永の改修時に幕府御用絵師・狩野一門によって描かれたもので、実に様々なデザインの障壁画が各部屋の襖や壁に描かれている。

白書院

(写真は 白書院)

一の間(上段の間)

 二の丸御殿の障壁画は白書院を除いて、すべて金箔と濃い彩色を用いた華麗な金碧画である。大広間、蘇鉄の間、式台の各部屋の障壁画を描いたのは狩野探幽。大広間の上、下段の間から三の間にかけて展開している巨松に孔雀を配した絵は穏やかな構成となっている。大広間で最も広い四の間の巨松と流水の中で獲物を見つめる大鷹の図は力強く、この部屋全体に流動感を与えている。探幽の絵は後水尾天皇の行幸があった寛永3年(1626)に描かれたとされている。
 このほかの部屋を担当した絵師は、遠侍(とおざむらい)が狩野道味、真設の二人、黒書院が狩野尚信、白書院が狩野興以と伝えられている。

(写真は 一の間(上段の間))

 これらの作品群は近世初頭の日本美術の精華であり、桃山時代の様式の遺風を伝えている。障壁画とともに二の丸御殿の各部屋の欄間などに施されている彫刻も素晴らしいもので、障壁画と相まって御殿内を豪華絢爛に装っている。
 こうした貴重な文化財を保護するため、近年、障壁画の模写が進められており、大広間の障壁画は既に模写した新しいものに取り替えられている。二条城は一般公開(定休日・火曜日)されているので、こうした桃山美術の作品をゆっくり鑑賞するのも、殺伐とした世事から逃れ心になごみを与える好機かもしれない。

模写作業

(写真は 模写作業)


 
古今の庭園  放送 12月26日(金)
 二条城内には豪壮で絢爛(けんらん)たる建物によく調和した素晴らしい庭があり、城内を訪れた人たちの心を慰めている。二の丸御殿の南西にある二の丸庭園(国・特別名勝)は、築城時に小堀遠州が作庭した池泉回遊式庭園で、神仙蓬莱の世界を表現したとされる。
 池の中央に蓬莱島、その左右に鶴島と亀島を配し、4つの橋が架けられ西北隅には滝が設けられている。池の汀に配された大小さまざまな形と色の岩石が、色彩豊かで変化に富んだ力強い石組みにされ、豪壮な城郭建築とよく調和した石組み庭園の美しさを見せている。

二の丸庭園

(写真は 二の丸庭園)

清流園

 この庭は二の丸御殿の大広間から眺められるように作られていた。寛永3年(1626)後水尾天皇を迎えるための御殿が池の南側に建てられたので、こちらからも眺められるように一部改造された。最近は新たに梅、桜、椿などが植えられ、園内の四季折々に彩りを添えている。
 江戸時代の庭園の趣を見せている二の丸庭園に対し、本丸の石垣や櫓(やぐら)門を借景にして雄大に広がる清流園は、昭和40年(1965)に作られた現代風の趣向を取り入れた庭。この庭園は江戸時代初期の豪商・角倉了以の屋敷から建物の一部と庭石約800個を譲り受け、さらに全国から集めた銘石300個を加え、二条城にふさわしい雄大、明朗、風雅をモチーフに作庭された。

(写真は 清流園)

 総面積1万6500平方mの清流園は、池泉回遊式の和風庭園部分と芝生を主体にした洋風庭園部分から成っている。せせらぎが池に注ぐ眺めを前にした場所に茶室・和楽庵がある。この和楽庵は表千家の残月亭を模して造られており、市民の茶会や国賓のもてなしなどに使われている。
 この清流園の地は江戸時代には城を守っていた城番武士の宿舎があり、明治時代に苑地となり、大正時代には大正天皇の御大典の殿舎が建てられていた。この地にも二条城の歴史の変遷が刻まれており、これらの歴史の流れを念頭に庭を眺めると遠い昔に思いを馳せることができる。

茶室和楽庵

(写真は 茶室和楽庵)


◇あ    し◇
二条城JR山陰線二条駅下車徒歩5分。 
地下鉄東西線二条城前下車、京都市バス二条城前下車。
◇問い合わせ先◇
元離宮二条城事務所075−841−0096 

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