姫路駅の西北8キロにある書写山は、西の比叡山といわれ、標高360メートル余の山上にひろがる伽藍は36万平方メートルの広大な寺地を占める。30余の建物がほぼ一列に並び、仁王門をはいってから奥の院(開山堂)まで東西の奥行きは2キロに及ぶ。創立は古く平安時代の966年 貴族のエリートであった性空上人(しょうくうしょうにん)が九州で20年の修行の後、この地に開いた草庵が起源と伝える。その後、播磨国司藤原季孝(ふじわらすえたか)の寄進や花山法皇の帰依と援助で次第に都の貴族にも崇められて大寺院に成長していった。鎌倉時代には多くの僧兵を擁し、伽藍は大講堂、食堂、常行堂、開山堂、五重塔、経蔵などの建物が整い、頼朝からは守護不入の特権を与えられていた。秀吉は三木城を攻めた折りの本陣をおいた。江戸時代になっても姫路藩の直轄支配で、寺社奉行の支配をうけず、寺領838石が与えられた。度々の落雷や失火などで伽藍は焼けたが、現在も摩尼殿(またの名は如意輪堂、観音堂、昭和8年の再建)、大講堂(室町時代初ー重文)食堂(じきどう、室町時代ー重文)、開山堂(江戸時代ー県重文)、仁王門(江戸時代1655年ー県重文)や塔頭(たっちゅう)寿宝院(江戸時代初ー重文)、十妙院(江戸時代ー県重文)妙光院などが再建され、山上に風格ある伽藍を構成している。 現在は、西国33ケ所の27番札所。室町時代から明治維新までは女人禁制であったが、今は禁制もなく、山上へはロープウエーで一気にのぼれるようになった。山上では交通機関がないので乗合馬車が利用できる。
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