月〜金曜日 21時54分〜22時00分


南山城の加茂町

 京都府の最南端、木津川の上流が東から西に流れるところに加茂町がある。大和の葛城山麓出身の鴨族がこの辺りに進出して定住、後に京都の上加茂、下加茂の辺りに至る。いまも加茂町には、岡田鴨神社が存在する。

 この辺りの木津川は元は泉川とよばれ、古来、和歌に多くよまれた処である。「みかの原わきて流るる泉河いつみきとてか恋しかるらん」(新古今)が小倉百人一首にとりいれられ、有名である。川の北側、もと瓶原(みかのはら)といった辺りに聖武天皇の恭仁宮(くにのみや)跡や海住山寺(かいじゅうせんじ)があり、恭仁宮跡は後の山城国分寺となり巨大な礎石がのこっている。川の南、奈良に近い当尾(とおの)村といった辺りには浄瑠璃寺や岩船寺がある。この辺りは昔、興福寺仏僧の修行の地であったため、多くの石仏が散在する。特に日本の石造物の発達に大きく貢献した宋人、井行末(いのゆきすえ)一派の井末行が残した石仏など、貴重な遺物も多く、何よりも浄瑠璃寺は日本で唯一の平安時代の九体阿弥陀仏と阿弥陀堂、並びに浄土式庭園の遺構が残る寺として貴重である。浄瑠璃寺があることで、この地に足をむける人が多い。また、この地方に多く見られる柿や農産物、かきもちなどの無人販売スタンドは田舎を散策する楽しみを味わえる。


 
恭仁宮跡(くにのみやあと) 放送日 9月6日(月)

 天平12年(740)奈良の平城京から、僅か4年間ではあったが、聖武天皇の恭仁京がここ瓶原(みかのはら)に営まれた。聖武天皇は、ここに遷都する前に近江信楽にも宮を作り、転々とした後、橘諸兄の主導でこの地に都した。鹿背山(かせやま)を中心に左右京が割り当てられたが、何分狭い土地であるため左右の京域は、東西に分れ、右京は木津の辺りにあった。

瓶原の遠望

 

 いま、巨大な礎石の残る大極殿跡は後の山城国、国分寺の金堂跡でもある。この大極殿は第1次平城宮より移築されたもので、45メートルX20メートルもあり、第2次平城宮大極殿よりはるかに大きなものであった。

山城国分寺復元模型

  


 
海住山寺(かいじゅうせんじ) 放送日 9月7日(火)

 瓶原の北方、海住山の中腹に海住山寺があり、ここから恭仁京跡が一望できる。この寺は古く天平時代に良弁僧正によって建てられたとの伝説をもつが、鎌倉時代に興福寺の学僧で、笠置寺にいた解脱房貞慶がこの寺にはいって寺が再建され、史料が残っているのでこれ以後は確実なことがわかる。
 貞慶は観音信仰を成就させる為にこの地にきて、荒れた寺を復興させた。

五重塔

 

 本堂には十一面観音菩薩(平安初、重文)、不動明王(平安後)補陀落山浄土図及び十一面観音来迎図(室町)がある。本堂の南には、やや小ぶりな五重塔(鎌倉、国宝)があり、この寺を魅力的にしている。各層の逓減比が大きく、非常に格調が高くて美しい塔である。初重の部分に裳階(もこし)を設けた珍しい造りで、初重内部には天部像や比丘像の壁画が描かれている。もう一つ本堂の北側に簡素な造りの文殊堂(鎌倉、重文)がある。この堂の軒下にある「かえるまた」は古式を残す素朴な造りである。

十一面観音菩薩像

  


 
岩船寺(がんせんじ) 放送日 9月8日(水)

 当尾(とうの)地区にある岩船寺も天平時代の開基と伝えるが、確かな事はわからない。本堂にまつられている阿弥陀如来(平安時代946年、重文)があるので、平安時代後期の早い頃には確かに存在した事がわかる。この阿弥陀仏は、一木で作られ、張りのある豊かな彫りで平安初期の特徴もそなえ、しかも後の藤原時代を予感させ和風化の兆しもみる事ができる仏像である。この他、本堂には四天王立像(鎌倉、重美)や、象に乗った普賢菩薩像(平安後、重文)等がある。

本堂仏像群

 

 他に境内には室町時代の三重の塔(重文)、鎌倉時代の石造十三重の塔(重文)、同じく鎌倉時代の石室不動尊像(重文)などがあるが、2度の火災で衰微した。江戸時代に徳川氏の寄進によって現状のように復旧、 いまは、岩船寺は花の寺として知られるようになり、睡蓮やあじさいが訪れる人々をなぐさめてくれる。

無人販売所

  


 
野 仏 放送日 9月9日(木)

 当尾地区は石仏が多いことで日本有数の地区である。岩船寺から浄瑠璃寺への山道は30分の下り道で、散策にほどよい距離である。この道のあちこちに石仏が散在し、我々を楽しませてくれる。まず、岩船寺の裏、みろく辻の弥勒線彫仏から石仏めぐりは始まる。この弥勒は笠置寺にあった線彫り弥勒を模刻したものといわれるが、元の仏が火災で焼けてしまった今は比較の仕様がない。小川の流れに面して立つ岩に、線刻で2メートルあまりの弥勒仏を彫だしたもので、鎌倉時代に日本の石造美術を指導に中国からやってきた井 行末の一派、井 末行の作で1274年のもの。建立した願主、目的、年代がわかる貴重なものである。残念ながら顔のあたりがよくわからないほど摩滅している。ここから浄瑠璃寺の方へ少し行くと右手小高いところに大きな岩が落ちてきそうな格好で存在する。この岩には大きな光背をバックに蓮華座に座す阿弥陀三尊が浮き彫りされており、真ん中の阿弥陀が笑っているように見えるところから笑い仏と呼ばれている。これも1299年に井 末行が彫ったもので優美なうえに保存がよく貴重な作品である。

阿弥陀三尊(笑い仏)

 

「からすの壷」

 さらに道を下ってゆくとからすの壷という四辻のところに一石の二面に地蔵と阿弥陀を彫り込んだ岩があり、阿弥陀の右側に灯明をつける穴を彫り込んであるのが珍しい。南北朝時代の1343年のもの。ここからバス道にでて左にゆくと道の左、南側のやや奥まったところに藪の中三尊を彫った岩がある。左に地蔵の立像、右に十一面観音を浮き彫りにし、側面の石に阿弥陀座像がやはり浮き彫りされている。これらは元東小田原寺の塔頭、浄土院のものであり1262年の作で、この地方の石仏では最古で優美なもの。 この他にも大門磨崖仏をはじめ石仏は近くに多く散在するが、1日ではまわりきれない。。

  


 
浄瑠璃寺 放送日 9月10日(金)

 このシリーズの白眉は何といっても浄瑠璃寺であろう。平安時代の浄土式庭園をはさんで西に九体阿弥陀堂、東に三重塔をひかえて、極楽浄土を目の当たりにしたいと願った平安貴族の願いを実現した我が国唯一の遺構である。創建は古く天平時代と伝えるが、よくはわからず、平安時代中頃の1047年に義明上人が創立したことが確かなところである。もとは九体阿弥陀堂は東側の現在の三重の塔の辺りにあったと思われるが、阿弥陀の浄土にふさわしく西に移され、苑池が掘られた。さらに三重の塔が京都の寺から移築されて現在見るような寺観になったのは1150年頃である。浄土式の庭園と阿弥陀堂、九体の阿弥陀如来がそろって残るのはここだけである。

九体阿弥陀堂と浄土式庭園

 

 阿弥陀堂、九体の阿弥陀、三重の塔は共に平安後期のもので国宝、ほかに阿弥陀堂内に秘仏で春秋に期間を決めて公開される吉祥天は、やはり平安後期のもので重文。これは彩色された女神像で大変華麗なもの。これは厨子と共に貴重なものである。南北朝時代に火災があって多くの堂舎が焼けたが、現在も平安時代の残したものを多く見られるのは、幸いである。

九体阿弥陀仏

  



アクセス
  恭仁京跡 JR加茂駅からバス岡崎下車徒歩7分
  海住山寺 上記から徒歩30分
  岩船寺 JR加茂駅から岩船寺行き終点下車すぐ
  石仏めぐり 岩船寺から浄瑠璃寺に向う山道に点在、行程徒歩30分
  浄瑠璃寺 近鉄 奈良よりバス 浄瑠璃寺行き終点下車、すぐ。

名 産
  茶、柿、かきもち、みかん


問い合わせ先
  加茂町観光協会  0774−76−2970
  山城郷土資料館  0774−86−5199
      (山城国国分寺復元模型展示)
  海住山寺      0774−76−2256
  岩船寺        0774−76−3390
  浄瑠璃寺      0774−76−2390