月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪市・ミナミ 

 大阪では商業地、ビジネス街、盛り場などをキタとミナミで何かと対比する。ライバル意識も手伝ってそれぞれに個性的で特色ある街へと発展してきた。都市再開発でキタにやや遅れを取っていたミナミも、21世紀をにらんだ都市づくりが進み、新しい街が生まれている。今回は歴史と伝統に培われた街・ミナミ、新しい街・ミナミを点描して見た。


 
みってらさん  放送 1月5日(月)
 大阪を南北に結ぶメインストリート・御堂筋の難波交差点と新橋交差点の中ほど、車が洪水のように流れる通りに面して建っているのが三津寺。三津寺筋と呼ばれる通りの名称にもなっているほどで、近くには大阪を代表する商店街・心斎橋筋や水の都を代表する川・道頓堀川沿いの繁華街など、ミナミのビジネス街、繁華街のど真ん中にある寺だ。
 天平16年(744)聖武天皇の勅願で、行基が開創した難波の名刹。当時、このあたりには楠の大樹が茂っており、行基がその1本の大樹から刻んだ観音像を本尊にしたと言う。18世紀末刊行の「摂津名所図絵」には、楠の大樹が境内に見れられる。

道頓堀川

(写真は 道頓堀川)

三津寺

 現在の本尊・十一面観音像(秘仏)は、昭和8年(1933)の御堂筋拡幅の折に切り倒された楠の大樹で彫られたものである。本尊の脇仏として薬師如来像、大日如来像、弥勒菩薩像、地蔵菩薩像、毘沙門天像、不動明王像、愛染明王像、弘法大師像など、平安時代後期から鎌倉、江戸時代初期にかけての仏像が安置されている。
 本堂は文化5年(1808)に建立されたもので、内陣、位牌堂は総漆塗りで、柱や扉は金箔を張りめぐらせ、格天井にはすべて花柄の異なる絵が描かれている。明治12年(1879)にはこの本堂で第1回大阪府議会が開かれた珍しい歴史を有している。大阪市内のほとんどが灰燼(かいじん)に帰した第2次世界大戦の昭和20年(1945)3月13日の大阪大空襲の際にも、三津寺は被弾せず類焼もまぬがれて残った。

(写真は 三津寺)

 現在の庫裏は昭和8年(1933)の御堂筋拡幅の時、境内の約4割が接収された際に新築されたもので、当時の寺院としては珍しい地上3階、地下1階の鉄筋コンクリート造。全室スチーム暖房、ガス、水道、消火設備、荷物用リフトを備えた近代建築だが、外観は寺院庫裏としての伝統を保っている。
 摂津名所図絵に「三津寺は御津八幡宮の神宮寺との説あり」とある御津八幡宮は、ミナミのアメリカ村に鎮座している。応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を祭神としているが、創建の年代は諸説あって定かでない。この地が石清水八幡宮の荘園であったことから八幡宮が祀られたのであろうと言われている。「御津」の名称はこの付近が大和朝廷の時代に難波津、すなわち御津であったことに由来している。

御津八幡宮

(写真は 御津八幡宮)


 
法善寺横丁  放送 1月6日(火)
 法善寺横丁は平成14年(2002)9月、解体作業中の旧中座からの出火で類焼した。さらに復興のめどがついた平成15年(2003)4月、横丁からの失火による出火で2度の火災に見舞われた。大阪人はもとより関西の人たちにとって、庶民的な雰囲気で人気が高い法善寺横丁の火災は大きなショックを与えたが、横丁の中心にある法善寺は辛うじて難を逃れた。
 焼け落ちた横丁の店もつぎつぎに復旧して再開しており、再び依然のにぎわいを見せる日もそう遠くない。各地の盛り場が俗悪化している中で、法善寺横丁だけはいつまでも昔の良き時代の情緒を保って欲しいものだと馴染み客は願っている。

法善寺

(写真は 法善寺)

夫婦善哉

 長さ80m、幅わずか3mほどの法善寺横丁の2本の石畳の路地の両側には、小料理店、バー、スナックなど約60軒の店がひしめき合っている。横丁の入り口にかかる看板は東が3代目・桂春団治さん、西が藤山寛美さんの筆によるものである。
 大阪生まれの織田作之助のデビュー作「夫婦善哉」が昭和15年(1940)世に出て法善寺横丁は有名になった。明るくたくましく生き抜く大阪女の蝶子とぐうたら亭主の柳吉が、大阪のうまいもん屋を食べ歩いた時に紹介されている法善寺横丁の自由軒のカレーライス、夫婦善哉のぜんざい、正弁丹吾(しょうべんたんご)亭の関東煮の店は今も健在。正弁丹吾亭の前には「行き暮れてここが思案の善哉かな」の織田の句碑がある。
昭和30年代には歌謡曲「月の法善寺横丁」が大ヒットし、法善寺横丁が全国的に知られるようになった。

(写真は 夫婦善哉)

 法善寺横丁の起こりとなった法善寺は浄土宗の寺で江戸時代初めの創建と伝えられている。当時は近くに千日墓があり、法善寺の本尊・阿弥陀如来像に極楽浄土への往生を願う墓参者が参詣し千日寺とも呼ばれていた。横丁の商店は境内の露店から発展したもので、墓参者のほかに千日前の寄席や芝居見物の客、役者、芸人らが立ち寄りにぎわった。
 昭和20年(1945)3月の大阪大空襲で伽藍(がらん)は焼失したが、不動明王像と金毘羅堂は焼け残った。「水掛け不動さん」と呼び親しまれている不動明王像は、商売繁盛や恋愛成就などの願いを込めた参詣者がかける水でいつもびしょぬれ。
全身苔むしながら善男善女の願いを一心に聞いていらっしゃるように見える。水掛け不動さんにあやかって水商売の人たちのお参りが多いそうだ。

水掛不動

(写真は 水掛不動)


 
千日前のお大師さん  放送 1月7日(水)
 大阪・ミナミの繁華街のひとつ、千日前は法善寺横丁から少し南へ行った所。パチンコ店の騒音などがかまびすしい千日前通りの一角に、弘法大師ゆかりの寺であることを示す石柱が立っている。繁華街を行く人びとのほとんどが見過ごしてしまうと思われる竹林寺である。
 江戸時代の千日前にはかつては刑場があり、また大阪七墓場のひとつ千日墓場があった。竹林寺や水掛け不動の法善寺は処刑された人や墓地に埋葬された人たちの霊を慰める役割を担っていた。

竹林寺

(写真は 竹林寺)

無縁塔

 刑死した人や墓場の霊を慰める千日回向を行っていた二つの寺は千日寺とも言われ、そこから千日前の地名が生まれたと言う。今は竹林寺に詣でる人は多くはないが、線香の煙が絶えることはない。
 明治3年(1870)これらの墓地などは阿倍野へ移された。その跡地では見世物小屋、芝居小屋、大阪相撲などの興業が行なわれ、大勢の人が集まるようになり刑場、墓地の暗いイメージはなくなった。明治45年(1912)の「南の大火」と呼ばれる火事で付近一帯は焼野原となったが、大正3年(1914)に総合娯楽場「千日前楽天地」が開業し、映画、演劇、寄席の町へと急速に発展した。

(写真は 無縁塔)

 竹林寺の南、道路の向かい側に昭和7年(1932)大阪歌舞伎座が誕生し、人気歌舞伎役者の出演で道頓堀と肩を並べる盛り場となった。しかしこの大阪歌舞伎座も戦後の昭和33年(1958)に興行の幕を下ろし、新しくできた新歌舞伎座にその道を譲った。
 大阪歌舞伎座の建物を改装して誕生したのが千日前デパート。このデパートは昭和47年(1972)死者118人にのぼる痛ましい火災を起こし世界中の注目を集めた。このように悲喜こもごもな変遷をたどった千日前だが、今は過去の暗いイメージをはじき飛ばすような勢いで発展し、若者を中心とした盛り場となりにぎわっている。

千日前

(写真は 千日前)


 
心斎橋筋の名店  放送 1月8日(木)
 心斎橋筋商店街は大阪を代表する商店街で、道頓堀へ芝居見物に行く客や今宮戎への参拝客が通る道筋であったことからにぎわいが始まったと言われる。新しい業種の店がふえる昨今だが、老舗は老舗でしっかりと伝統で培った根強い商いをしている。
 心斎橋筋・御堂筋の顔とも言える大丸百貨店は、京都・伏見で江戸時代中期の享保2年(1717)に創業した大文字屋呉服店が、享保11年(1726)に大阪に進出、つぶれかけていた松屋呉服店の屋号をそのまま譲り受けて大阪店としたデパートの老舗。

心斎橋筋商店街

(写真は 心斎橋筋商店街)

伊藤仁壽堂

 商標は大文字屋の丸の中に大の文字の大丸を用いたのが今日の大丸百貨店になった。豪商ながら救民義捐に努めた義商として知られ、大塩平八郎の乱の時には「大丸は義商なり、犯すなかれ」と焼き打ちをまぬがれた。その後、関西を初め全国各地に出店してデパートの最大手の一つとなった。
 お香の店・伊藤仁寿堂は江戸時代初めの延宝元年(1673)の創業。伽羅(きゃら)、沈香(じんこう)、白檀(びゃくだん)などの原材料をブレンドした仁寿堂のオリジナル商品が並ぶ店内には、お香の匂いが立ちこめ心が落ち着き和む。線香や薫香、匂い袋のほかにお香に必要な炭、灰なども扱っている。13代目の現当主・伊藤孝子さんは歴代で初めての女性当主。

(写真は 伊藤仁壽堂)

 お香は6世紀半ばに日本に伝来した仏教とともに伝わり、仏前を清めて邪気を払う宗教的な意味合いで定着した。平安時代に入ると貴族たちが衣服に香を焚き込め、その移り香を暮らしの中で楽しむようになった。鎌倉時代には武家社会で香りに精神の統一や心の落ち着きを求め、出陣に際して甲冑(かっちゅう)に香を焚き込めたのもそのひとつ。室町時代になると香りを鑑賞する香道が盛んになったきた。
 輪島塗、越前塗、若狭塗、山中塗、会津塗、春慶塗などを扱う漆器専門・増田漆器店は明治元年(1868)の創業。人形や象牙アクセサリー、扇子などの小物も取り扱っているほか、漆器類の取り扱いや修理などの相談にも気軽に応じている。

増田漆器店

(写真は 増田漆器店)


 
なにわのホークス  放送 1月9日(金)
 戦後の大阪・ミナミのシンボルとして親しまれてきた旧大阪球場の跡地に、緑あふれる複合都市「なんばパークス」が平成15年(2003)10月7日にオープンした。
 このなんばパークスの中で、南海電鉄沿線住民のオジサンたちを中心に注目を集めているのが、プロ野球の旧南海ホークス(現ダイエーホークス)のメモリアルコーナー。日本シリーズを2回制覇した戦績を持ち、阪神タイガースとともに関西のプロ野球ファンを二分した人気球団だっただけに、南海ホークスファンだけでなくプロ野球のオールドファンが懐かしい思い出に浸っている。

なんばパークス

(写真は なんばパークス)

南海ホークス・メモリアルギャラリー

 南海ホークスの本拠地・大阪球場は戦後の復興が本格化した昭和25年(1950)南海電鉄難波駅のすぐそばにオープンした。この年にパ・リーグが発足し、名将・鶴岡一人監督率いる南海ホークスは25年から41年(1966)まで17シーズン中にリーグ優勝9回、後の8回はすべて2位、日本シリーズ制覇2回と言う輝かしい戦績の黄金時代を築いた。昭和34年(1959)の日本シリーズでは杉浦忠投手の4連投で読売ジャイアンツを4戦4勝で撃破して初の頂点に立った。この時、野村克也・元阪神監督も捕手としてベンチ入りした。
 こうした黄金時代を築いた南海ホークスのメモリアル施設がなんばパークス7階にある。優勝旗、優勝カップ、ユニホーム、サインバットや日本シリーズ制覇後の御堂筋パレードの写真などの資料が展示されている。

(写真は 南海ホークス・メモリアルギャラリー)

 名勝負を生んだ旧大阪球場のメモリアル施設として、なんばパークス2階通路に白御影石のピッチャーズ・プレートとホームベースが埋め込まれている。この位置は旧大阪球場のピッチャーズ・プレートとホームベースがあった位置と同じで、杉浦投手が投げ、野村捕手が捕球した位置である。当時、大阪球場で声援を送ったファンたちは、この場所に立ち感慨にふけっている。
 なんばパークスにはこのほか「大阪ヌードルシティ〜浪花麺だらけ〜」をキャッチフレーズに、北海道から九州までの御当地麺を集めたコーナーやショッピング街がある。屋上には235種、約4万株の樹木や草花を植栽した屋上公園「パークスガーデン」が広がっているなど、新しい試みが随所に見られる。

ピッチャーズ・プレート

(写真は ピッチャーズ・プレート)


◇あ    し◇
三津寺、御津八幡宮地下鉄御堂筋線心斎橋駅、難波駅下車徒歩7分。 
南海電鉄、近鉄難波駅下車徒歩7分。
法善寺、竹林寺地下鉄御堂筋線、千日前線、四ツ橋線、南海電鉄、
近鉄難波駅でそれぞれ下車徒歩7〜10分。
地下鉄堺筋線、千日前線日本橋駅下車徒歩5分。
伊藤仁寿堂(お香)、
増田漆器店
地下鉄御堂筋線、長堀鶴見緑地線心斎橋駅下車徒歩5分。
なんばパークス南海電鉄、近鉄、JR関西線、地下鉄御堂筋線、
四つ橋線難波駅をそれぞれ下車徒歩3〜5分。
◇問い合わせ先◇
三津寺06−6211−1982 
御津八幡宮06−6211−8655 
法善寺06−6211−4152 
夫婦善哉06−6211−6481
竹林寺06−6211−2201 
伊藤仁壽堂(お香)06−6211−0323 
増田漆器店06−6211−0683 
なんばパークス06−6644−7125 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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