月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京、大阪の天神さん  

 1月末になると大学入試センター試験も終わり、大学、高校などの入学試験はいよいよ本番。受験生にとってはこれまでの努力が問われる厳しく、過酷な季節である。学問の神様として知られる各地の天神さんには、合格を祈願する受験生や親たちの参詣が目立つ。
こんな京、大阪の天神さんを訪ねて見たが「祈願が成就するのも日ごろの努力があってのこと」と天神さんは言っておられるようで…。


 
北野天満宮(京都市)  放送 1月26日(月)
 京都市の北野天満宮は全国1万2000の菅原道真(845〜903)を祀る天神さんの総本社。神童とも言われた道真は学識、人格ともに優れた平安時代前期の公卿、文人で宇多、醍醐両天皇に重用され、54歳で右大臣にまで昇った。
 しかし切れ者の道真の権勢拡大を藤原一族は恐れ、左大臣・藤原時平の「醍醐天皇の廃位と宇多天皇の第3皇子・斉世(ときよ)親王の擁立を企てた」との讒言によって、昌泰4年(901)九州・太宰府に左遷され、2年後にかの地で失意のうちに58歳で没した。

中門

(写真は 中門)

梅

 道真の死後、都では藤原時平が39歳の若さで死亡したほか、朝廷の要人がつぎつぎ死亡したり、御所の清涼殿への落雷や飢饉、疫病の流行など天変地異が続いた。都の人びとはこれは道真の怨霊のたたりと恐れ、これを鎮めんと道真没後44年後の天暦元年(947)道真の霊を祀ったのが北野天満宮の起こりとされている。
 道真は学問の神様として崇敬され、特に江戸時代には寺子屋の精神的なより所として、天満宮の分霊を祀り「天神さん」として庶民の信仰を集めた。受験シーズンの今、多くの受験生らの参詣がひきもきらず、鉢巻きや鉛筆などのお守りを買い求め、奉納された絵馬には合格祈願の思いが込められている。また、境内の約50種、2000本の梅も咲き始め、観梅を兼ねた参詣者も多く、寒い時期ながら境内はにぎわっている。

(写真は 梅)

 道真の生涯と没後のさまざまなたたりや北野天満宮に祀られるまでを描いた国宝・北野天神縁起絵巻は、毎月25日の縁日に宝物館で一般公開される。現在の社殿は慶長12年(1607)豊臣秀頼が造営したもので、本殿を始め拝殿など8棟が国宝に指定されており、近世初期の桃山様式の神社建築の代表的な遺構として貴重な存在。
 道真は承和12年(845)6月25日が誕生日で延喜3年(903)2月25日が命日なので、毎月25日が天満宮の縁日となっており、この日を京の人たちは「天神さん」と呼び、露天商が店を並べる露天市でにぎわう。志賀直哉も小説「暗夜行路」の中で、大正時代の北野天満宮の露天市のにぎわいを書いている。

拝殿

(写真は 拝殿)


 
吉祥院天満宮(京都市)  放送 1月27日(火)
 JR京都駅の南西、西大路通十条に建つ吉祥院天満宮は菅原道真生誕地とされている。道真没後31年目の承平4年(934)朱雀天皇の勅命により創建された最初の天満宮で、朱雀天皇が自ら刻んだ道真幼少の像を祀ったと伝えられている。
 この地は桓武天皇が延暦13年(794)長岡京から平安京へ都を遷した時、道真の曽祖父・古人(ふるひと)と祖父・清公(きよとも)がお供をして京に入り、桓武天皇から領地として賜り、本邸を構えて住んだ。当時は白井庄と言われ、菅原家一族が土地の住人と共に農業を営みながら良好な主従関係を築いていたと言う。

菅公御誕生之地

(写真は 菅公御誕生之地)

胞衣塚

 道真は承和12年(845)是善(これよし)の子として生まれ、幼名を阿呼(あこ)・吉祥丸を呼ばれた。
境内には道真のへその緒を埋めた胞衣(えな)塚や産湯の井戸が残り、道真は18歳で文章生(もんじょうせい)に合格するまでここに住んでいた。学問の神様として信仰を集めている道真自身も、若い時は受験勉強に励み、受験生の厳しさを体験していたのである。
 合格祈願のお守りはたくさんあるが、最近はこのあたりに湧く吉祥水のしずくをイメージした、カラフルな可愛い鈴のお守りに女性の人気が集まっている。

(写真は 胞衣塚)

 吉祥院天満宮境内や天満宮の近くには道真にまつわる遺跡が多い。胞衣や産湯の井戸のほかに、習字に使った硯(すずり)の水、役所へ出仕する時に顔を映したと言われる鑑(かがみ)の井などがある。
 境内の吉祥天女社は道真の祖父・清公が遣唐使として唐に向かう途中、暴風雨に見舞われ船が転覆しそうになった。この時、船に乗っていた最澄が吉祥天女に平安を祈ったところ、天女が空中に現れ風雨が静まった。帰国後、吉祥天女の像を自ら刻み、大同3年(808)屋敷内の庭に吉祥院と号する一堂を建立して安置、菅家守護の本尊とした。この吉祥天女社には清公、是善像のほかに薬師如来、観世音菩薩、伝教大師、孔子像が一緒に祀られている。

吉祥天女社

(写真は 吉祥天女社)


 
小松の天神さん・松山神社(大阪市)  放送 1月28日(水)
 松山神社がある東淀川区小松のあたりは、かつては淀川尻にあった難波八十島のひとつ中島があり、このあたりを中島村と言った。当時、中島には数千株の小松が生い茂っており、延喜元年(901)太宰府に流される菅原道真が、淀川を下ってこの地にさしかかった折、中島の松の景観に感動して「小松の詩」を詠んだのが村名の始まりと言う。
 この時、道真は自分の像を描き村人に手渡した。御真像を賜った村人は道真没後、祠(ほこら)を建てて画像を祀り、村の氏神として崇め「小松の天満宮」と称した。明治時代始めに境内を拡張し社殿を修築した後、明治4年(1871)松山神社と改めた。

菅原道真

(写真は 菅原道真)

松山神社

 難波八十島と言われた時代は、河口の浅瀬に小さな島が点在、堤防のない当時は島の間を淀川、神崎川など大小の河川が自然のままの流れとなって大阪湾にそそいていた。
その後、干拓などで低湿地帯が徐々に陸地化し、難波江の口、すなわち江口と呼ばれるようになった。西行法師と江口の君との故事などでも有名である。
 平安時代以降は京へ上る下りする船が江口で船泊まりしたため、物資の積み下ろしや船客相手の町が形成されにぎわった。鎌倉、室町時代には荘園が設けられ、江戸時代は幕府の天領として管轄され、綿の産地として栄えた。現在も淀川河口付近には中島、柴島、加島、富島、福島など当時の呼び名が地名として残っている。

(写真は 松山神社)

 現在の社殿は終戦の前年の昭和19年(1944)に再建されたもので、本殿、拝殿、弊殿、東西参列殿、神饌(しんせん)所、楽所が建ち並んでいる。拝殿と社務所は四條畷神社の旧社殿を移築したものである。
 松山神社にもうずくまった牛の石の像があるが、松山神社だけでなく各地の天満宮には牛の像があり、参拝者は道真と牛の関係に首をかしげる。道真が亡くなった時、遺体を牛車で運んでいたところ牛がうずくまって動かなくなった。道真の遺言に「人に引かせず、牛の行くところに留めよ」とあるので、その場に埋葬したのが太宰府天満宮と言う。この故事によってうずくまった牛は、熊野大社の八咫烏(やたがらす)、石清水八幡宮の鳩、伏見稲荷大社の狐のように天満宮のシンボルとなったとの説がある。

神牛社

(写真は 神牛社)


 
曽根崎の天神さん・露天神社(大阪市)  放送 1月29日(木)
 大阪・キタの繁華街のど真ん中にあり、お初天神として馴染み親しまれているのが露天神社。はるか昔、大阪湾のこのあたりに浮かぶ八十島のひとつの小島に「住吉須牟地曽根ノ神」が祀られており、この祭神の名から曽根洲と呼ばれるようになった。
 その後、大阪湾が少しずつ埋め立てられ、南北朝時代に陸続きになってからは曽根崎が地名となった。埋め立てによる新田開発で農業が営まれるようになり、この付近が曽根崎村となって神社も村の産土神として崇敬されるようになった。明治時代になってJR大阪駅や阪急電鉄の梅田駅が開業して一躍、大阪の中心街へと発展し、露天神社も梅田・曽根崎の総鎮守社となった。

露天神社

(写真は 露天神社)

絵馬

 江戸時代中期の元禄16年(1703)醤油屋の手代・徳兵衛と堂島新地の天満屋の遊女・お初が露天神の森で心中する事件があった。これを近松門左衛門が浄瑠璃「曾根崎心中」として書きあげ、道頓堀の竹本座で上演した文楽が大当たりした。
 徳兵衛とお初が心中を覚悟する「天満屋の段」、死に場所を求めて露天神へ向かう道行きの「天神森の段」は文楽の名場面として人気を集め、心中を美化した近松の世話物は浪速の人たちに大いに受けた。この心中事件の舞台となった露天神は「お初天神」と呼ばれるようになり、徳兵衛とお初の回向や恋の成就を願う人びとの参詣が増えた。

(写真は 絵馬)

 露天神社の名は太宰府へ流される途中の道真が、福島に船泊りして露天神の近くにある太融寺へ参詣の際、道端の草の露に都を思い「露と散る 涙に袖は 朽ちにけり 都のことを 思い出ずれば」と詠んだ歌に由来すると言う。また、入梅の時期に祭礼をすることから「露天神」と言うようになったとか、境内にある浪速七名井のひとつ「神泉・露の井戸」が梅雨になると清水が湧きあふれることから「露天神」と呼んだとか諸説が多い。
 大坂夏の陣で焼失した社殿を元和8年(1622)に再建した時に菅原道真が合祀された。
第2次世界大戦の空襲で社殿は焼失、昭和32年(1957)に再建されたのが現在の社殿である。

露の井戸

(写真は 露の井戸)


 
道明寺天満宮(藤井寺市)  放送 1月30日(金)
 菅原道真の祖先は相撲の祖とされる野見宿禰と伝えられている。宿禰は垂仁天皇の時に埴輪を作って人の殉死に代えた功績で、土師(はじ)の姓とこの地を賜り、遠祖の天穂日命(あめのほひのみこと)を祀る土師神社を創建しのが道明寺天満宮の始まりとされる。
仏教の伝来とともに土師寺が建立され、後に菅原道真の別名・道明にちなんで道明寺と改められた。
 道真没後の天暦元年(947)道真が彫った木像を祀ったのが道明寺天満宮で、明治維新の神仏分離令で道明寺と分離された。

道明寺天満宮

(写真は 道明寺天満宮)

青白磁円硯(国宝)

 道真は40歳の時、土師寺の住職だった伯母の覚寿尼を訪ね、4月から7月までこの地に滞在した。その時、夏水井(げすい)の水を汲み、現在国宝に指定されている青白磁円硯(せいはくじえんけん)で墨をすり、大乗経の写経をしたり、十一面観音像(国宝)を刻んだという。この観音像は道明寺の本尊となっている。
 これら道真にちなむ遺品が数多く残っており、6点の国宝を含む遺品は境内の宝物館に保存、展示されている。この中の菅公絵伝屏風に描かれた金地扇面彩色画は、60枚の扇面に道真の生涯を描いたもので、このように扇面に描いたものは珍しいとされている。この中に太宰府赴任を前に自宅の庭で妻や子らに「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」の歌を詠んだ有名な場面もある。

(写真は 青白磁円硯(国宝))

 道真は太宰府に向かう途中、淀川の河口に船を止め、土師寺を訪ねて伯母との別れを惜しみながら一夜をすごし、遺品として残る国宝・犀角柄刀子(さいかくえとうず)で自分の像を刻んだと伝えられている。この像が天満宮の祭神として祀られている。
 鶏が夜明けを告げると「鳴けばこそ 別れも憂けれ 鶏の 音のなからん 里の暁もがな」の歌を残し、太宰府に赴いた。この鶏が「鳴かなければ…」と嘆いた道真の気持ちをおもんばかって、この地で鶏を飼うことが禁じられたとの伝えがある。

天神縁起絵扇面屏風

(写真は 天神縁起絵扇面屏風)


◇あ    し◇
北野天満宮京都市バス北野天満宮前下車。 
吉祥院天満宮京都市バス吉祥院天満宮前下車。 
松山神社阪急電鉄京都線上新庄駅下車徒歩15分。 
阪急電鉄京都線相川駅下車徒歩10分。
大阪市バス大阪経済大学前下車徒歩5分。
露天神社JR大阪駅、阪急電鉄、阪神電鉄梅田駅、
地下鉄御堂筋線梅田駅、谷町線東梅田駅、
四つ橋線西梅田駅下車徒歩5分。
道明寺天満宮近鉄南大阪線道明寺駅下車徒歩3分。 
◇問い合わせ先◇
北野天満宮075−461−0005 
吉祥院天満宮075−691−5303 
松山神社06−6328−3875 
露天神社06−6311−0895 
道明寺天満宮0729−53−2525 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

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     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
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